21.真夜中の訪問者
あの事件の後、アーノルドより先に戻って来た聖花は、これまた貴族たちの恐ろしさを垣間見た。あからさまに第二王子と第一王子を比較していたのだ。
少しでもルードルフに好かれようと必死なのか、はたまたアーノルドを単に見下しているのか、兎に角その様は滑稽で、とてもいい気はしなかった。
結局それは、アーノルドが戻って来るまで続いた。
すっかり壁の花となっていた聖花は、遠目に貴族たちの様子を観察しながらひとり食事だけ楽しんだ。幸いなことにシャンファは既に帰ったのか見当たらず、旧友たちと話すマリアンナの姿も確認出来た。やはり奏は素知らぬ顔で過ごしているようだ。
そうして、気が付けばその日のパーティーは終わりを迎えていた。帰りの馬車で、ヴィンセントには彼是聞かれたけれども、事実を言える訳はなく、いくつか誤魔化しておいた。
直ぐに見破られる可能性も危惧していたが、そんな事はなく、彼の抜かりの甘さが分かったことは大きな収穫の一つである。
無事に家へと行き着いた聖花は、早々に寝る準備を進め、素早く枕に頭を預けた。どうせこれ以上することはない上に、何より今日の疲れが溜まっていたのだ。
公爵令嬢に目を付けられ、旧友二人と引き換えに新たな友人を手に入れて、ギルガルドと接触し、アーノルドの機嫌を損ねた上に、ルードルフまでもに目を付けられた。
それは想像以上に彼女の精神をすり減らした。
(今日だけで本当に色んなことがあったな)
そんなことを振り返り、聖花は小さく息を吐いた。
心身ともに疲れ果て、段々と眠気が彼女に襲いかかる。
そんな眠気に身を任せ、考えることを止めた聖花は意識を静かに手放した。
◇◆◇
それから数時間が経過した。
肌寒さを感じたのか、聖花は薄っすら目を開け、その場からむくりと起き上がった。微睡みながら辺りを見渡す。
すると、視線の先に窓が開いているのが見えた。
(‥‥‥あれ?開いて―――)
聖花は不審に思いつつも、疲れのせいで記憶が混同しているのではないかと結論付けた。
あるいは単に寝惚けているかの何方らかだ。
兎に角、風邪を引いては元も子もない。夜はまだまだ長く、このまま放っておく訳にもいかなかった。
こんな時間に窓を閉めてくれる者もいない。
ゆっくりと寝具から降りた。不確かな意識のまま、聖花はよたよたと歩いた。誰かが部屋の中で見ていることも知らずに。
彼女は只々この寒さから逃れようと意識を窓へと向けていた。
その誰かは、突如として動き出した彼女に警戒して、その場に息を潜めていた。まさかこんな深夜に、それも彼が来てから直ぐ、聖花が起き出すとは思ってもみなかったのだろう。
けれども見つかることはないと踏んでいるのか、気配を消して潜伏している。
そんな時だった。目的を終えた聖花が不思議そうに振り返って辺りを見回した。
夢うつつの状態で、深く考えずに余計なことを口走る。
「‥‥‥?誰かいる?」
当然、その返事が返って来ることはなく、周囲には静寂だけが広がった。不気味なくらい静かだ。
聖花は首を傾げたが、直ぐに考えることを止めた。眠気が勝ったのである。
自らの欲望の思うがままに、寝具の方へと足を向け直して、即座にそちらへ向かう。
彼はその様子を静かに観察していた。彼女が再び眠るのを待ち続けるかどうかを考えながら。
そんなことを考えていた彼だったが、ふと何かを思い出し、即座に考え直した。
そうと決まれば直ぐに行動に移す。
寝具へと向かう聖花の背後に音もなく移動した彼は、有ろうことか彼女の喉元にナイフを突き付けた。まさに一瞬の出来事だった。
流石の聖花も、急激に意識が引き戻される。不思議と思考がクリアになった。
「なっ‥‥‥‥」
「静かに。これが見えない?」
突然のことに思わず声を上げそうになる聖花。そんな彼女に、彼は脅すように耳元で囁いた。
ヒュッと、聖花は言葉を飲み込んだ。まるで息が詰まったかのようだ。
彼女の直ぐ側で、満足げに微笑う声が聞こえてくる。クスリと意地悪げな声。
恐怖で思考が遮られる中、聖花は聞き覚えのある声に眉を顰めた。他人の家にのこのこと忍び込んで来る時点で不審者には変わりないが、それが誰かまでは思い出せない。
が、少なくとも相当の手練れか、あるいはゴルダール家の警備が単に緩いかのどちらかであることは確かだった。
聖花は後者ではないことを願いつつも、彼の言葉を大人しく待った。怯えた様子を見せれば相手の思う壺であるし、まだ殺す意志はないと踏んだのだ。
端から殺るつもりであればこんなことはしない。
「ねぇ……街で、何を知ったの?」
彼はそう言い放つと、突き付けていたナイフを彼女の首に当てた。まるで聖花を追い詰めるかのように。
一点に意識が集中する。死への恐怖に、身の毛もよだつようなゾクリとした感覚が聖花の身体中を這いずり回った。
余りに突拍子のない台詞で、いくつかの疑問が湧いてきたが、そんなことを聞ける訳がなく、聖花は只々言葉を飲み込んだ。
そもそも喉に当てられたナイフのせいで、そう簡単に声を出すことなど出来ない。
「もう一度言おう。何を知った?」
そんな聖花を他所に、彼は語気を強めて、ナイフを強く握り締めた。
プツリ、と異物が喉元にハッキリ押しあてられる感覚。やっと彼女の中で、死がそこまで迫っているという実感が湧いてきた。
意思とは関係なく身体が震え出す。冷や汗が彼方此方から吹き出した。
それから暫く黙り込んでいると、傍で溜息が聞こえてきた。何かに気が付いたのかナイフが首から離される。
そうは言っても、逃れられる距離ではないが。
何を知ったかと言われても、それが何なのか聖花には分からないし、街で知ったことと言えば奏のことだけで、他には特に何もない。
彼がその答えを求めているとも思えない。
聖花は深く息をついた。きっと大丈夫だと。根拠も何もないけれど、自身を落ち着かせる為に。
そうでもしないと話し出せそうになかった。
案外、彼はその時手出しして来なかった。単に何をしているのかと勘繰っていたのかもしれないが、それでも待ってくれたのは事実だ。
暫くして、表面上何とか落ち着きを取り戻した聖花は、初めは小さな声で呟いた。
きっと彼は何かを勘違いしている。そう直感して。
「‥‥‥‥‥知りません」
「うん?」
「私は‥‥‥‥何も知りません」
待ちくたびれていたのか、それとも聞き間違いかと思ったのか、彼が緊張感の抜けた声で一言聞き返す。
そんな声色とは裏腹に、恐怖は直ぐ側まで迫っているのだろう。
けれども、聖花はハッキリとそう言い放った。先程までの様子が嘘のように淀みなく、真っ直ぐとした声で。
実際に心から落ち着いていた。一言"知らない"と言ってしまうと、何故だが少しずつ恐怖が薄れてきたのだ。
いっそ清々しい気持ちさえ湧いてきた。
その余りに堂々とした態度に、彼はほんの少したじろいだ。ただの令嬢が、どうしてこんなにも強気でいられるのかと。
その隙に、聖花は後ろを見ず、彼の手からナイフを弾き飛ばした。カランカランと音が鳴り、ふたりから遠く離れた視野の先にナイフが転がり落ちる。
油断していたのか、彼は余りの衝撃に暫くの間硬直していた。まさか彼自身が、素人にしてやられるなど予想だにしていなかったのだろう。
けれども何も状況は変わらない。例えナイフを手放したとしても、彼の方が体格的にも状態的にも有利だ。それに、他に武器がないとは言い切れない。
勿論それは聖花も分かっている。分かっているけれど、少しでも抵抗したかった。足掻きたかった。
勘違いで殺されるのだけはごめんだ。
依然として無用心にも動きを止める彼を余所に、聖花は大きく息を吸った。
吸って吸って、腹の底から声を上げた。
「キャアアアアァァァ!!!!誰か!誰か来て!!」
深夜に突然叫び出すことは迷惑極まりないが、何せ今は非常事態。それで責め立てられることはない。
こんなことで殺されてしまうのならば、いっそのことみっともなく足掻がいてみせよう。彼女はそう思ったのだ。
痛いのは怖い。死ぬのも怖い。けれども何より、何も出来ないまま消えていくことだけは嫌だった。
誰か起きたのか、何処かの部屋からパタパタと音が聞こえてきた。何事だ、と慌てている。
彼にはこのまま聖花を仕留めるか、逃がすかのどちらかしか選択肢はなかった。仕留めてしまえば、後処理をする時間はないだろう。
「アハッ!良いよ、君の思惑に乗ろう。今日のところは、もう帰るね。バイバイ」
何か違和感のある台詞を呟きながら、背後の気配が消えた。やっとのことで振り返る。
当然、そこに誰もいる筈がなく、何時もの景色が広がっているだけだ。
後から、住み込みのメイドであるアデルが、応援の騎士を呼んで駆け込んで来た。
その時には既に遅く、辺りには聖花しか見当たらなかった。
転がったナイフも落ちておらず、窓がキイと開き、風に靡かれたカーテンがゆらゆらと揺らめいていただけだった。
一体彼は誰だったのでしょうか‥‥。




