9.路地裏での一件
人の流れへ紛れ込んでから、聖花は一度も立ち止まらずに歩き続けていた。
走れば目立つため、表面上は周囲の人々と変わらない速度を保っているものの、歩幅は普段よりも大きく、前方に僅かな隙間が生まれるたびに身体を滑り込ませるようにして進んでいる。露店へ足を止める者や、道の中央で話し込む者を避けながら何度も進路を変えたことで、アデルの姿はすでに人波の向こうへ消えていた。
店主の呼び声や客同士の会話が絶え間なく響き、鉄板の上で肉が焼ける音や、荷車の車輪が石畳を軋ませる音まで入り混じっている。これほど騒がしい場所ならば、アデルが聖花の名を呼んだとしても、そう簡単には届かないだろう。
聖花は人と人との隙間を縫いながら、さりげなく肩越しに後方を振り返った。
先ほど立ち寄った装飾品の露店は、もう見えない。アデルの蜜柑色の髪も、大量の荷物を抱えた護衛騎士の姿も、少なくとも聖花の視界には入らなかった。
(撒けたかな……)
願望に近い考えが頭へ浮かび、張り詰めていた肩から僅かに力が抜ける。
アデルを騙すような形になったことは、胸が痛んだ。
服を贈られた時の嬉しそうな顔や、露店の串焼きを食べながら無邪気に笑っていた姿が思い出される。彼女自身は聖花に何も悪いことをしていないどころか、侍女として真面目に仕えようとしてくれている。
それでも、アデルが側にいれば自由に動くことはできなかった。
彼女が悪意なく口にした些細な情報が、ヴィンセントへ渡るかもしれない。聖花がカナデについて調べていると知られれば、なぜ過去を探るのかと疑われる可能性がある。
今の聖花は、カナデ本人として扱われている。自分自身の過去を人目を避けて調べるなど、どう考えても不自然だった。
(あとでちゃんと謝ろう。怒られるだけで済むなら、いくらでも怒られるから)
問題は、謝罪する機会が来る前に捕まる可能性があることだった。
聖花は再び後ろを確認した。
今度も、見える範囲に追手はいない。
人混みの中を進み続けたことで、露店街へ入った時よりも周囲の密度は少し下がっている。道幅自体は変わらないものの、立ち止まる客が減り、歩く者たちの流れが一定になりつつあった。
それは聖花にとって、必ずしも都合のよい変化ではない。
人が少なくなれば、隠れる場所も減る。今のうちに露店街を離れ、どこか別の通りへ移った方がよいかもしれない。
そう考えて前方へ視線を戻した、その時だった。人々の肩や頭の隙間から、こちらへ向かって真っ直ぐ進んでくる人物の姿が見えた。
大量の袋を両腕へ抱えているため、身軽とは言い難い。けれど、その歩みには迷いがなく、周囲の人々を避けるのではなく、身体を横へずらしながら押し分けるように距離を縮めている。
屋敷から同行してきた護衛騎士だった。
相手もすでに聖花を見つけている。
離れた場所から視線が重なった瞬間、騎士の表情が僅かに険しくなった。
(嘘でしょ……もう見つかったの?)
安心しかけていた胸へ、一気に焦りが込み上げる。
護衛はアデルを置いて、聖花を追うことだけに集中したらしい。荷物を抱えたままとはいえ、騎士として鍛えられているだけあって歩みは速く、周囲の人々が進路を塞いでもほとんど速度を落としていない。
聖花はすぐに前へ向き直り、歩調を速めた。
先ほどまでは目立たないよう注意していたが、今は多少周囲から不審に思われようと構ってはいられない。人の肩へぶつからない程度に身体を傾けながら隙間を抜け、進めそうな方向を見つけては次々と進路を変えていく。
それでも、背後から感じる護衛の気配は消えなかった。
一度だけ振り返ると、先ほどよりも距離が縮まっている。
騎士は荷物を手放してはいないものの、両腕へ抱え込む位置を変え、走り出せるよう体勢を整えていた。
人混みさえ抜ければ、一気に追いつくつもりなのだろう。
聖花は周囲を見回し、逃げ道になりそうな場所を探した。
正面には露店が続いている。
右手には雑貨店と食料品店が並び、その間に人一人がようやく通れるほどの狭い隙間があるものの、奥が行き止まりである可能性も高い。左手の通りは比較的広く、人の数も少ないため、そちらへ向かえば騎士にとって追いやすくなるだけだろう。
考えている間にも、護衛との距離は少しずつ縮まっている。
聖花の身体は、マリアンナとして暮らしていた頃よりも明らかに体力がない。
王宮から逃げ出して以降、十分な休息を取れたとは言い難く、昨夜もフェルナンのことでほとんど眠れていなかった。今朝から何も食べていないわけではないが、街へ出て歩き回った疲れも蓄積している。
相手は訓練を受けた騎士である。体力だけで振り切れるはずがない。
(どうしよう。このままじゃ追いつかれる)
捕まれば、屋敷へ連れ戻される。
それだけならば、まだよい。無断で侍女と護衛から離れた事実をヴィンセントへ報告されれば、次からはさらに厳しい監視を付けられるだろう。外出自体を禁じられる可能性もある。
そうなれば、カナデの過去を調べる機会は失われる。
屋敷の書庫だけで得られる情報には限界がある以上、ここで何も掴めないまま帰るわけにはいかなかった。
けれど、焦れば焦るほど有効な手段は浮かばない。
財布と小さな鞄以外、手元には何もない。魔術を使って妨害することもできないし、仮に使えたとしても、人通りの多い場所で目立つ行動を取るわけにはいかない。
第一、護衛騎士へ危害を加える理由などなかった。
彼は命じられた仕事をしているだけである。聖花が勝手に逃げ出した以上、責められるべきなのは自分の方だった。
(せめて、どこかに隠れられれば……)
聖花は歩きながら建物の隙間や店の入口へ視線を向けた。
しかし、どこかの店へ入ったとしても、護衛はすぐに追ってくるだろう。裏口があるかどうかも分からない店へ飛び込むのは危険だった。
先ほど見えた細い路地へ入ることも考えたが、もし行き止まりならば逃げ場を失う。
聖花が決断できずにいる間にも、人の流れが少しずつ途切れ始めていた。
前方にいた数人が露店の前で立ち止まり、聖花の進路が狭まる。横へ避けようとしたものの、反対側から歩いてきた大柄な男とぶつかりそうになり、足を止めざるを得なかった。
その僅かな遅れだけで、護衛騎士はさらに近づいた。
背後から、荷物同士が擦れる音が聞こえる。振り返らなくても、もうすぐ手が届く距離まで迫られていることが分かった。
騎士が声を上げないのは、聖花の偽名や身分を周囲に知られないよう配慮しているからだろう。けれど、その無言の追跡が、かえって聖花の焦りを強めた。
人混みを抜けた先には、先ほどよりも開けた通りが見えている。
そこまで出れば、逃げ切ることはできない。騎士は荷物を抱えたままでも、聖花より遥かに速く走れるからだ。
(追いつかれる……)
そう確信した瞬間、横から伸びてきた手が聖花の手首を掴んだ。
何が起きたのか理解するよりも先に、身体が人の流れから強引に引き離される。足元がもつれ、声を上げる間もなく、建物と建物の間にある細い路地へ引き込まれた。
石畳の上へ倒れ込むと思い、聖花は反射的に目を閉じた。
けれど、予想していた衝撃は来なかった。
誰かの腕が背中と肩を受け止め、地面へ身体を打ちつけないよう支えている。逃げ込んだ勢いのまま路地の壁際へ座り込む形にはなったものの、痛みよりも、身体へ触れている腕の温かさの方を強く感じた。
聖花は何度か瞬きをしながら、状況を理解しようとした。
大通りから僅かに外れただけだというのに、路地の中は薄暗い。
高い建物に挟まれているため日差しがほとんど届かず、先ほどまで周囲を満たしていた人々の姿も、ここからは壁の端に僅かに見えるだけだった。
聖花の身体を受け止めた人物は、彼女を抱え込むような姿勢のまま、壁際に身を潜めている。背中へ回された腕がしっかりと身体を支え、もう一方の手は肩の近くへ添えられていた。
誰なのか確かめようとして顔を上げかけた時、大通り側から荷物の擦れる音が近づいてきた。
―――護衛騎士である。
聖花は慌てて声を出そうとした。
「だれ――」
最後まで言い切る前に、口元を手で塞がれた。
聖花は驚いて目を見開く。
抵抗しようと身体へ力を込めたものの、背中へ回された腕が僅かに強まり、今動けば外から見つかると無言で制するように抱き留められた。
「静かに」
耳元へ落とされた声は、男性にしてはやや高く、柔らかい響きを持っていた。
命令するような強さはない。
それでも不思議と落ち着いており、今は従った方がよいと思わせる声だった。
聖花は口を塞がれたまま、大通り側へ視線を向けた。
路地の入口近くを、護衛騎士が通り過ぎていく。
両腕へ荷物を抱えながら周囲を見回し、突然姿を消した聖花を探しているらしい。歩みを緩めてはいるものの、路地の奥まで確認する余裕はないのか、そのまま前方へ進んでいった。
聖花たちの姿は、路地の壁と積まれた木箱の影へ隠れている。地面へ近い位置で身を潜めていることもあり、大通りから一目見ただけでは気づかないだろう。
護衛の足音が少しずつ遠ざかっていく。
それでも、聖花を抱えている人物はすぐには手を離さなかった。
完全に姿が見えなくなり、周囲から騎士の気配が薄れたことを確認してから、ようやく口元を覆っていた手がゆっくりと離れていく。
背中へ回されていた腕の力も緩み、聖花は自分で身体を起こせるようになった。
助けられたことは理解した。
けれど、安心することはできない。突然見知らぬ路地へ引き込まれ、口まで塞がれたのである。護衛から逃げたいと思っていたとはいえ、相手が安全な人物だという保証はどこにもなかった。
聖花は身体を離そうとしながら、相手の顔を確かめるため上を向いた。ちょうど向こうも、聖花の様子を窺うように顔を下げたところだった。
薄暗い路地の中でも目立つ、鮮やかな橙色の髪。瞳は深い黄色で、光を受けると磨かれたトパーズのように見える。
年齢は聖花くらいだろうか。整った顔立ちではあるものの、貴族らしい近寄りがたさはなく、むしろ面白いものを見つけた子供のような笑みを浮かべていた。
「こんにちは」
状況に似つかわしくないほど軽い挨拶だった。
聖花は呆気に取られたものの、すぐに我へ返り、相手の腕から抜け出そうと身体を捻った。
ところが、青年は再び腕へ力を込め、聖花をその場へ留める。
「離してください」
「今出ると見つかるよ」
青年が大通りの方へ目を向ける。聖花もつられてそちらを見ると、先ほど通り過ぎたはずの護衛騎士が、少し離れた場所で立ち止まっていた。
聖花が人混みの中で突然消えたことを不審に思い、来た道を戻ってきたらしい。荷物を抱えながら周囲の店や路地へ視線を配り、どこかに隠れているはずだと確信した様子で辺りを調べている。
このまま同じ場所へ留まれば、いずれ路地の中も確認されるだろう。聖花は青年への警戒を解かないまま、再び身体を低くした。
護衛は大通りの反対側にある店へ顔を向け、店内を覗き込んでいる。
その瞬間、青年が立ち上がった。
「今だ」
聖花の手を取ると、返事も待たずに路地の奥へ走り出す。聖花は引かれるまま立ち上がり、転ばないよう必死に足を動かした。
細い路地は途中で何度も曲がっており、干された布や積み上げられた木箱が進路を狭めている。青年はこの辺りの道を知っているのか、迷うことなく角を曲がり、さらに奥へ進んでいく。
大通りの喧騒は、曲がり角を一つ越えるたびに遠ざかっていった。
やがて青年は、人気のない少し開けた場所で足を止めた。
古い建物の裏手らしく、壁際には使われていない樽や木材が置かれている。大通りからは完全に見えず、護衛騎士が偶然入り込まない限り、すぐに見つかる心配はなさそうだった。
聖花は青年に掴まれていた手を振り払い、乱れた呼吸を整えながら距離を取った。
助けてもらったこと自体には感謝している。しかし、なぜ見ず知らずの自分を助けたのか分からない以上、簡単に信用するわけにはいかなかった。
「……ねえ」
聖花が呼び掛けると、青年は壁へ軽く背を預けながら首を傾げた。
「うん?」
「貴方は誰なの?」
ようやく落ち着いた声で尋ねることができた。
先ほどは突然抱え込まれ、口まで塞がれたが、護衛から隠れるために必要だったことは理解している。乱暴ではあったものの、聖花を傷つけようとしたわけでもなさそうだ。
だからこそ、まずは正体を確かめる必要があった。
青年はすぐには答えず、聖花を上から下まで眺めるように視線を動かした。
変装を見抜こうとしているのか。それとも、単に面白がっているだけなのか。口元には相変わらず悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「気になる?」
「聞いているのですから、気になるに決まっています」
聖花が僅かに眉を寄せると、青年は楽しそうに笑った。
「それなら、当ててみてよ」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
護衛に追われている見知らぬ少女を路地裏へ引き込み、危険を承知で助けておきながら、名を尋ねられると当ててみろと言う。
あまりにも緊張感のない態度に、聖花は呆れを通り越して腹立たしさを覚えた。
「こんな時にふざけないでください」
「酷いな。助けてあげたのに、僕はふざけてなんかいないよ」
「そうですか。では、もう結構です。助けてくださったことには感謝します」
まともに答えるつもりがない相手と、これ以上話していても意味はない。聖花は短く礼を告げ、青年の横を通り抜けようとした。
護衛から逃げるためには、一刻も早く情報を集められる場所を探さなければならない。正体の分からない青年と遊んでいる余裕などなかった。
「リリス」
背後から名を呼ばれ、聖花は足を止めた。
「リリス・ティーザー。それが僕の名前」
女性のようにも聞こえる珍しい名だった。
けれど、聖花が反応したのは名前そのものではなく、続いて告げられた家名である。
ティーザー。
この国でその名を持つ貴族家は、聖花の知る限り一つしかない。
ヴェルディーレ家で暮らしていた頃、将来のために国内の有力貴族について学んだことがある。爵位や領地、王家との関係を覚えることは、貴族令嬢として必要な教養の一つだった。
ティーザー侯爵家は、王都でも強い影響力を持つ名門である。同じ姓を勝手に名乗る者がいるとは考えにくい。
聖花は思わず振り返り、もう一度青年の姿を観察した。
服装は上質ではあるものの、侯爵家の人間が護衛も従者も連れず、このような繁華街の路地裏を歩いているとは思えなかった。
けれど、リリスの態度には、身分を偽っている者にありがちな不自然な緊張がない。侯爵家の名を口にしたことへ迷いも見せていなかった。
「ティーザー侯爵家の方なのですか」
「そうだよ」
「なぜ侯爵家の方が、このような場所に一人でいるのですか」
問いながら、聖花は警戒を強めた。
リリスが本当に侯爵家の人間であるならば、聖花の脱獄について知っている可能性がある。王家と近い立場なら、罪人を探すために街へ来ていたとしてもおかしくない。
しかし、そうだとすれば護衛から逃げる聖花を助けた理由が分からなかった。変装を見抜いた上でどこかへ連れていくつもりなのだろうかとさえ思えた。
リリスは聖花の緊張へ気づいているはずなのに、態度を変えなかった。
「内緒」
人差し指を唇の前へ立て、悪びれる様子もなく微笑む。またしても答えるつもりはないらしい。
聖花は小さく息を吐いた。
フェルナンといい、目の前のリリスといい、なぜ自分の周囲には、必要なことを素直に話さない者ばかり現れるのだろう。
ただし、フェルナンは聖花の正体を知っていてそれを利用するような言葉を口にしているが、リリスは今のところ聖花を助けただけである。
同じように信用できない相手であっても、危険の種類は違うように感じられた。
「また会うことがあったら、話し掛けてよ。その時は、教えてあげるかもしれない」
「待ってください。まだ聞きたいことが――」
「それじゃあ、またね」
聖花が止めるよりも早く、リリスは後ろへ一歩下がった。瞬間、路地を吹き抜けた風が地面の埃を舞い上げ、聖花は反射的に目を細める。
ほんの僅かな間だった。
風が収まり、再び前を見た時には、そこにいたはずのリリスの姿が消えていた。
走り去る足音も聞こえなければ、近くの角を曲がった気配もない。最初から誰もいなかったかのように、薄暗い路地裏には古い樽と木箱だけが残されている。
聖花は暫くの間、リリスが立っていた場所を見つめていた。
魔術を使ったのだろう。しかし、どのような属性の魔術なのか、聖花には見当もつかなかった。
風を利用して姿を隠したようにも見えたが、単なる風魔術だけで、人が跡形もなく消えるとは思えない。移動の瞬間すら目で追えなかったことを考えれば、別の力を併用している可能性もある。
フェルナンに続き、また一人、正体も目的も分からない者と関わりを持ってしまった。しかもリリスもまた、再び会うことを前提とした言葉を残している。
聖花が望むかどうかにかかわらず、どこかで顔を合わせるつもりなのかもしれない。
その場を離れようとした時、地面に何かが落ちていることへ気づいた。灰色の石畳の上に、周囲の色とは明らかに異なる、小さな黒い物体が転がっている。
聖花は慎重に近づき、腰を屈めた。
指先ほどの大きさしかない黒い小石だった。表面には艶があり、路地へ僅かに差し込む光を受けて、濡れたような光沢を浮かべている。自然に落ちている石とは思えないほど形が整っており、先ほどまでリリスが立っていた場所に残されていることを考えれば、彼が落としていった可能性が高かった。
「何だろう、これ……」
触れるべきではないかもしれない。魔術具や何らかの印である可能性もある。
しかし、放置しておけば何なのか確かめることもできず、リリスへ繋がる唯一の手掛かりを失うことになる。
聖花は迷った末、石を指先で摘み上げた。見た目に反して冷たくはなく、僅かに人肌に近い温度を持っている。
魔力の流れを感じ取ろうと意識してみたものの、特別な反応はなかった。ただの石なのか。それとも、魔術が込められているのか。今の時点では判断できない。
聖花は手のひらの上で黒い石を何度か転がした後、持っていた鞄の横にある小さなポケットへ入れた。
屋敷へ戻る前に調べる方法が見つかれば、それに越したことはない。難しければ、誰か信頼できそうな人物へ見せることも考えなければならないだろう。
もっとも、聖花が味方になってほしいと期待している者の中で、自由に会える人物はほとんどいないけれども。
聖花は鞄のポケットを上から押さえ、黒い石が入っていることを確かめた。
見知らぬ侯爵家の青年に助けられ、護衛を振り切ったにも関わらず本来の目的であるカナデの情報は何一つ得られていない。街へ出て自由に動ける時間も、決して長くは残されていないだろう。
アデルと護衛騎士は今も必死に聖花を探しているはずで、王都の警備を担う者へ助けを求める可能性もある。騒ぎが大きくなれば、変装している意味さえ失われかねない。
聖花は路地の奥へ目を向けた。複雑に入り組んだ道のどこかには、別の大通りへ抜ける出口があるはずだった。
土地勘のない場所を一人で歩くことに不安はあるものの、今さら来た道を戻るわけにもいかない。
まずはこの路地を抜け、情報を集められそうな場所を探す。リリスの正体や黒い石について考えるのは、それからでも遅くない。
そう心へ決めた聖花は、薄暗い路地の先へ続く細い道を慎重に選びながら、限られた時間の中で一つでも多くの手掛かりを得るため、再び歩き始めた。




