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8.街へ

 ゴルダール伯爵家の屋敷を出た頃には、朝方まで静けさを残していた王都も、すっかり一日の活気に包まれていた。


 聖花とアデルが訪れたのは、王都でも特に人通りの多い繁華街だった。幅の広い大通りの両側には、衣服や装飾品を扱う店、香辛料や菓子を売る商店、日用品を並べた小さな露店などが隙間なく並んでいる。


 行き交う人々の服装もさまざまだった。

 荷物を抱えた商人。子供の手を引く母親。剣を腰へ下げた冒険者らしき者。身なりのよい貴族の従者まで、同じ道を行き交っている。


 客を呼び込む店主たちの声や、値段を交渉する人々の会話、遠くから響く馬車の車輪の音が混ざり合い、大通り全体が一つの大きな生き物のように動いていた。


 人が多いとはいえ、歩くことすらできないほどではない。

 しかし、地下牢と屋敷の中ばかりで過ごしていた聖花にとって、この賑わいは少し眩しいほどだった。


 少し前まで、外の空気へ触れることさえ叶わなかった。それが今は、大勢の人々の中を自分の足で歩いている。


 もちろん、完全に自由になったわけではない。聖花のすぐ隣にはアデルがおり、少し離れた場所には護衛の騎士が控えている。

 騎士は一般人を装っているものの、その歩き方や周囲へ配る視線は、明らかに訓練を受けた者のものだった。聖花たちと一定の距離を保ちながら、人の流れに紛れるようについてきている。


 ただの買い物であれば、頼もしい護衛なのだろう。しかし聖花には、街へ出た本当の目的がある。

 カナデについて調べ、可能であれば、彼女が以前どこで何をしていたのか手掛かりを得ること。

 そのためには、アデルと護衛の目を避けて動かなければならない。


 聖花は正面を向いたまま、視界の端で後方の騎士を確認した。

 気づかれないよう注意しているつもりだろうが、ずっと位置を意識していれば見失うことはない。

 


(思ったより近いな……)


 聖花は僅かに眉を寄せた。

 


(あれを撒くのは、簡単じゃなさそう)


 もっとも、街へ出る前から、護衛が付くことは予想していた。


 ヴィンセントが、聖花を何の監視もなく外へ出すはずがない。彼は聖花が闇属性を持っていると信じており、その力へ異常なほど執着している。


 屋敷の中でさえアデルを通して行動を報告させているのだから、外出時に騎士を付けるのは当然だった。


 それでも、屋敷へ閉じ込められているよりはずっとよい。


 人の多い街中ならば、隙を作る方法はいくらでもあるはずだ。聖花はそう自分へ言い聞かせ、隣を歩くアデルへ目を向けた。

 アデルは緊張と期待が入り混じった様子で、何度も周囲へ視線を向けている。侍女として主人を守らなければならないという責任感がある一方で、久しぶりに繁華街へ来たことを楽しんでもいるらしい。露店に並ぶ菓子や装飾品が目へ入るたび、僅かに表情が明るくなっている。


 ただし、聖花から離れないようにすることだけは忘れていない。アデルは人の流れが密になるたび、聖花との距離を縮めていた。


 聖花の外見も、屋敷にいる時とは大きく変えられている。王宮で捕らえられたカナデとしての顔を知る者がいる以上、そのまま街へ出るわけにはいかない。

 髪を染め直すには時間が足りなかったため、今日は応急処置として茶色の鬘を被っている。不自然に見えないよう髪の生え際や耳元まで丁寧に整えられており、よほど近くで注意深く観察されなければ、鬘だとは気づかれないだろう。


 瞳の色も、茶系の魔術具で変えている。さらに伊達眼鏡まで掛け、顔の印象そのものをできるだけ変えていた。

 ここまで変装すれば、王宮で一度見ただけの者ならば、同一人物だとは気づかない可能性が高い。


 もっとも、フェルナンには化粧を施しただけでも見抜かれてしまったが。


 変装が完璧だと過信することはできない。

 学園へ入学するまでには、髪そのものを目立たない色へ染め直す予定らしい。罪人として顔を覚えられている可能性がある以上、今後もこの姿で生活することになるのだろう。


 聖花としては、自分の姿が変わっていくことへ複雑な思いがあった。


 今いる身体は、もともとカナデのものだ。それでも、この身体で過ごす時間が長くなるほど、鏡へ映る顔を自分のものとして認識し始めている。

 そこへさらに別の髪色と瞳を重ねられると、自分が誰なのか分からなくなるような感覚さえあった。


 けれど、正体を隠すためには仕方がない。

 聖花が物思いへ沈みかけていると、アデルが周囲へ目を配りながら小声で話し掛けてきた。



「カナ、私の側から離れないでくださいね」


 屋敷を出る前に決めたとおり、街では主人と侍女という関係を隠すことになっている。


 貴族令嬢が侍女と護衛を伴って歩けば、それだけで人目を引く。

 今の聖花は、罪人として王宮に追われる可能性を抱えている身だ。目立たないためには、アデルと友人同士を装う方がよいと判断された。


 そのため、聖花は「セイカ」ではなく「カナ」という名を使い、アデルも敬語を控えることになっている。

 カナデの名から一部を取っただけの安直な偽名ではあるが、咄嗟に呼ばれても反応しやすい。


 ただし、アデルは普段から丁寧な言葉遣いをしているため、完全に友人らしく振る舞うことには慣れていなかった。今の言葉も敬語になっている。

 本人も気づいたらしく、言い終えた直後に僅かに目を見開いた。



「……離れないでね」


 言い直したアデルの頬が、薄く赤くなる。

 


「うん。気をつけるね」


 聖花も頷いた。


 最近は自分も敬語を使うことが増えていたため、友人へ話すような口調へ戻すことに少し違和感がある。


 マリアンナとして暮らしていた頃は、家族やメイへ自然にくだけた言葉を使っていた。それなのに、今は敬語で話す方が落ち着くようになっている。


 置かれた立場によって、言葉遣いまで変わってしまうものらしい。

 


(なんだか変な感じ)


 聖花は隣を歩くアデルへ目を向けた。



(でも、外から見たら友達同士に見えるのかな)


 アデルは年齢も近く、衣服も主人と侍女という差が目立たないものへ替えている。聖花の方も貴族令嬢らしい豪華な衣装ではなく、王都の裕福な商人の娘が着る程度の落ち着いた服装だった。


 二人だけを見れば、確かに友人同士に見えなくもない。ただし、後方にいる騎士まで含めれば、注意深い者には護衛だと悟られる可能性がある。


 聖花は大通りの店々を眺めながら、どこへ立ち寄るか考えた。


 本当の目的は情報収集だが、建前上は買い物である。何も買わずに怪しい場所ばかり尋ね歩けば、アデルも護衛も不審に思うだろう。

 まずは普通に店を見て回り、街へ来た理由が買い物だと納得させる必要がある。


 ちょうど目に入ったのは、通り沿いに建つ衣服店だった。

 大きな窓の向こうには、色とりどりの布や完成した衣装が飾られている。貴族向けの高級店というほど豪華ではないが、庶民が普段着として買うには少し高価そうな品が並んでいた。


 聖花は店の前で足を止めた。

 


「あのお店を見てみない?」


「服を買うの?」


「ええ。少し見てみたいの」


 アデルは素直に頷いた。


 聖花が扉を開けると、頭上で小さな鐘が鳴る。軽やかな音とともに、布や乾いた木材の匂いが漂ってきた。店内には、壁沿いに仕立て済みの衣服が並び、中央の台には畳まれた布や小物が置かれている。

 奥から足音が聞こえたかと思うと、ふくよかな体つきの女性が姿を現した。


 年齢は四十代ほどだろうか。柔らかな笑みを浮かべ、来店した二人を歓迎するように両手を広げる。


 

「いらっしゃいませ。今日はどのようなお洋服をお探しでしょうか」


 声の大きさも表情も、商売に慣れた者のものだった。

 他に店員らしい姿は見当たらない。おそらく彼女が店主なのだろう。


 アデルが何か答えようと口を開くより先に、聖花は店内を見回しながら言った。



「そうですね。この子に似合う服を探しているのですが」


 突然自分を指されたアデルは、きょとんと目を瞬いた。

 


「私?」


 友人を装っていることも忘れ、思わず声を上げたらしい。


 店主はアデルの反応を気にせず、全身を眺めるように視線を動かした。

 アデルの髪は、明るい蜜柑色をしている。衣服は地味なものへ替えているが、健康的で素朴な雰囲気にはよく似合っていた。


 店主は少し考えた後、壁際へ掛けられた数着の服へ手を伸ばす。

 


「お客様のような明るい髪色でしたら、こういった自然な色合いがよく似合いますよ。派手すぎない生地の方が、髪の色も綺麗に見えます」


 差し出されたのは、柔らかな色合いのワンピースだった。細かな刺繍が施されているものの、装飾は控えめで、アデルの雰囲気によく合っている。


 聖花は服とアデルを見比べ、素直に頷いた。



「本当に似合いそうですね」


「でしょう? 少し丈と肩周りを調整すれば、もっと綺麗に着られますよ。よろしければ、お仕立ていたしましょうか」


「お願いします」


 聖花が即答すると、アデルは完全に会話へ置いていかれた。

 


「ちょっと待って、カナ。私の服を買うの?」


 聖花はアデルの方へ顔を向けた。



「そのつもりだけど」


「どうして?」


「似合いそうだったから」


 聖花としては、それ以外に複雑な理由はなかった。


 アデルは自分の侍女となり、これから長く側へいることになる。出会ったばかりとはいえ、素直で一生懸命な彼女へ、何かを贈りたいと思った。


 それに、アデルは母親のために働いている可能性が高い。給金の多くを家へ送っているのであれば、自分のために衣服を買う機会は少ないだろう。

 聖花が贈れば、アデルが自分の収入を使う必要もない。


 ただ、今ここで説明すれば、アデルは遠慮して断るに違いなかった。

 そのため聖花は、店主との話をそのまま進めることにした。アデルの肩幅や腕の長さを測り、好みの生地や飾りを選ぶ。


 アデルは何度も断ろうとしたものの、聖花と店主の間で話が進んでしまい、結局口を挟めないまま仕立てが決まった。


 完成までには数日掛かるらしい。

 受け取り先を尋ねられ、聖花はゴルダール伯爵家の名を告げた。


 店主は最初、その意味を理解できなかったのか、暫く聖花の顔を見つめていた。


 やがて目を見開き、慌てて姿勢を正す。

 


「伯爵家の……?」


 聖花は人差し指を唇へ添え、目立たないようにしてほしいと伝えた。



「今日は身分を気にせず買い物をしたいのです。どうか、普通の客として扱ってください」


 店主は何度も頷いたものの、それまでの気安い態度は僅かに影を潜めた。言葉遣いもさらに丁寧になり、店を出る際にはわざわざ扉の外まで見送りに来た。


 聖花は軽く会釈を返し、アデルとともに大通りへ戻った。


 数歩進んだところで、それまで黙っていたアデルが堪えきれなくなったように声を上げる。



「おじょ……カナ! どうして私に服なんて買ってくれたの?」


 危うく「お嬢様」と呼びかけ、途中で言い直したため、妙な間が生まれていた。


 アデルは困惑している。

 嬉しくないわけではなさそうだが、主人から高価な贈り物を受け取ることへ抵抗があるのだろう。


 聖花はどう答えれば素直に受け取ってもらえるか考えた。


 必要だから。侍女として見栄えを整えるため。そのような理由をつければ、アデルは仕事道具として受け取るかもしれない。

 けれど、それでは聖花の気持ちが正しく伝わらない。


 聖花が服を贈ろうと思ったのは、アデルを使用人として整えたいからではなく、一人の少女として似合う服を着てほしいと思ったからだ。


 少し考えた末、聖花はアデルへ笑い掛けた。

 


「私からの、ほんの気持ちよ。これからよろしく、という意味も込めているの。受け取ってくれる?」


 アデルは口を開きかけ、そのまま言葉を失った。


 断れば、聖花の好意を拒むことになる。しかし簡単に受け取ってよいのか迷っているらしく、口元を何度も動かしていた。


 やがて観念したように、ゆっくりと頷く。

 


「……ありがとう。大切にするね」


 友人としての言葉遣いを忘れないよう、努力しながら答えている。その表情には、隠しきれない喜びが浮かんでいた。


 聖花は、服が完成した時の反応を想像して小さく笑った。


 アデルと再び歩き始める。繁華街の中を進んでいくと、先ほどよりもさらに大きな人だかりが見えてきた。

 道の一角へ数多くの露店が並び、その周囲へ大勢の人々が集まっている。


 売られているものはなにも食べ物だけではない。

 手頃な価格の装飾品。護符や簡単な魔術具。使い込まれた武器や道具。何に使うのか分からない古びた品まで、種類はさまざまだった。


 どこかの屋台では肉を焼いているらしく、香ばしい匂いが人混みの向こうから漂ってくる。アデルの視線が、はっきりとそちらへ向いた。

 本人は主人の側を離れないよう気をつけているつもりだろうが、目だけは露店へ釘づけになっている。


 聖花は少し可笑しくなり、露店街の方へ目を向けた。

 


「あそこも見てみない?」


 アデルの顔が明るくなった。


 しかし、すぐに人混みへ不安そうな視線を向ける。



「人が多いけど、大丈夫かな」


「離れないように気をつければ平気よ」


 聖花がそう答えると、アデルは暫く迷った後、期待を抑えきれない様子で頷いた。


 二人は人の流れへ入り、露店の並ぶ通りへ足を踏み入れた。大通りよりも道幅が狭く、人々の距離も近い。

 正面から来る者を避けようとすれば、今度は横から別の人が割り込んでくる。自分の思う方向へ真っ直ぐ進むことは難しく、人の流れに合わせて少しずつ動くしかなかった。


 聖花は周囲を見回した。


 アデルも護衛も、今はまだ近くにいる。けれど、この人混みならば、隙を見て姿を消すことも不可能ではない。

 護衛の騎士は、聖花を見失わないよう普段より距離を縮めているものの、周囲の人々に進路を塞がれ、思うように近づけない様子だった。

 


(ここなら、うまく撒けるかもしれない)


 聖花の本来の目的を考えれば、絶好の機会だった。ただ、せっかく露店街へ来たのだから、すぐに行動へ移す必要はない。

 買い物を楽しむ姿を見せた方が、アデルたちの警戒も緩む。それに、聖花自身も少しだけ、この場所へ興味を引かれていた。


 並ぶ品々は、貴族向けの店では見掛けないものばかりだった。

 手作りらしい不揃いな装飾品。見たことのない果物。小さな瓶へ入れられた色鮮やかな粉。魔力を込めると光るという安価な石まで置かれている。

 中には明らかに怪しげな品もあり、店主が口にする説明をそのまま信じてよいのか疑わしいものもあった。


 聖花は一つ一つを眺めながら、アデルとともに露店を見て回った。


 やがて、香ばしい匂いに誘われるように足を止める。

 鉄板の上では、小さく切られた肉が串に刺され、甘辛いタレを塗られながら焼かれていた。表面が焦げるたび、食欲をそそる香りが辺りへ広がる。

 聖花は数本購入し、そのうち一本をアデルへ差し出した。

 


「食べてみる?」


「いいの?」


「もちろん」


 アデルは串を受け取ると、嬉しそうに一口かじった。


 すぐに目を輝かせる。

 


「おいしい! カナも食べてみて」


 聖花も勧められるまま、自分の串へ口をつけた。


 焼きたての肉は柔らかく、香ばしいタレの味が口の中へ広がる。

 貴族の食卓へ並ぶ料理ほど上品ではないけれど、歩きながら食べるにはちょうどよく、素朴な味が不思議と心地よかった。

 


「本当。おいしいね」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 主人と侍女という垣根を隠しているからではなく、一瞬だけ本当に同年代の友人同士になったような気がした。


 アデルは、先ほど聖花から服を贈られたこともあり、最初よりずっと打ち解けた様子を見せている。聖花もまた、アデルの明るい反応を見ていると、彼女を監視役として警戒していたことを忘れそうになった。


 もちろん、忘れてよいわけではない。

 アデルが悪意なく聖花の行動を報告することも、護衛が後方から目を光らせていることも変わらない。


 聖花は楽しげに露店を巡りながら、少しずつ買い物の数を増やしていった。菓子や小さな香油、布製の袋。アデルが興味を示した安価な髪飾りまで購入する。


 気づけば、二人の手には持ちきれないほどの荷物が増えていた。護衛の騎士も、流石にこのまま放っておくことはできないと判断したのか、少し距離を詰めてくる。


 聖花は、その時を待っていた。


 人目を避けるように騎士を呼び寄せ、買った品々をまとめて預ける。

 護衛は僅かに不満そうな顔をしたものの、主人の荷物を断ることはできない。両腕に幾つもの袋を抱え、動きにくそうに位置を変えた。


 これで、何も持っていない時よりは追い掛けにくくなる。聖花は表情へ出さないよう注意しながら、次にアデルへ視線を向けた。


 アデルを置いていくことには、胸が痛んだ。


 出会ってからまだ一日も経っていない。それでも、聖花へ服を贈られたことを心から喜び、露店の食べ物を分け合って笑った相手である。


 アデルを騙し、その隙に姿を消すことは、決して気分のよいことではなかった。

 しかし、彼女が側にいる限り、カナデについて自由に調べることはできない。アデル自身に悪意がなくとも、聖花の行動はヴィンセントへ報告される。


 今後の安全を考えれば、ここで情報を得る必要があった。

 


(ごめん、アデル)


 聖花は心の中で謝りながら、装飾品を並べた露店の前で立ち止まった。台の上には、色とりどりの耳飾りや首飾り、髪留めが所狭しと並んでいる。

 安価な石や硝子を使ったものが多いが、光の当たり方によっては宝石のように美しく見えた。


 聖花は髪飾りを一つ手に取り、アデルへ向ける。

 


「ねえ、アデル。どれが私に似合うと思う?」


 アデルは呼び方を変えられたことにも気づかず、台の上へ並ぶ品を真剣に見始めた。

 


「うーん。今の髪色なら、こっちの方が合うと思う。でも、瞳の色を考えると……」


 アデルは完全に選ぶことへ集中している。


 聖花は僅かに残った迷いを振り切り、周囲へ視線を走らせた。

 護衛の騎士は荷物を抱えたまま、数歩離れた場所にいる。聖花の行動を不審に思っている様子はない。


 今しかなかった。


 聖花は人の流れへ合わせるように、一歩だけ横へ動いた。次に、別の客の背後へ隠れるようにもう一歩。

 露店を眺めているふりをしながら、少しずつアデルとの距離を広げていく。


 アデルはまだ、髪飾りを見比べている。



「……ごめんね」


 誰にも聞こえないほどの小さな声で、聖花は呟いた。


 それから人の流れへ身体を滑り込ませた。


 大勢の人々が行き交う中へ入れば、茶色い髪と地味な衣服の聖花は、すぐに周囲へ紛れる。一度振り返れば、アデルの姿は何人もの人影に遮られ、すでに見えにくくなっていた。


 聖花は足を速める。


 走れば目立つ。だからこそ、人の流れに逆らわず、しかし同じ場所へ留まらないよう進まなければならない。


 後方で、何かに気づいたような護衛の騎士が動いた。

 大量の荷物を抱えながら、聖花の進んだ方向へ向かってくる。


 想像していたよりも反応が早い。

 


(もう気づかれた)


 聖花は焦りを抑え、前へ進んだ。



(でも、荷物がある分、すぐには追いつけないはず)


 護衛はアデルへ声を掛けるよりも、聖花を追うことを優先したらしい。人混みを掻き分けながら進んでくるものの、両腕の荷物が邪魔をして思うように速度を上げられていない。

 もし何も持たせていなければ、聖花はすぐに追いつかれていただろう。


 聖花が人の流れへ紛れてから少し遅れ、ようやくアデルも異変へ気づいた。


 先ほどまで隣にいたはずの聖花がいない。護衛の騎士も見当たらない。アデルは手にしていた髪飾りを慌てて台へ戻し、周囲を見回した。


 人の波の向こうに、聖花の姿はない。


 顔から血の気が引いていく。友人を装うための偽名も、街では主人と呼ばないという約束も、その瞬間には全て頭から抜け落ちた。

 


「お嬢様!? どこに行かれたのですか!」


 アデルは人混みへ飛び込み、聖花を探して声を上げた。


 しかし、周囲には客を呼ぶ店主たちの声や、人々の会話が絶えず響いていて、必死な呼び声はその騒がしさへ呑み込まれ、遠くまでは届かなかった。

 その頃には、聖花はすでにアデルから大きく離れていた。


 自由に行動するため、自ら望んで作った僅かな時間。


 けれど聖花はまだ知らなかった。


 護衛の騎士が、想像以上の速さで彼女を追っていることも。そして、この逃走の先で、さらに正体の掴めない人物と出会うことになることも。


次回、新キャラが登場します!

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新作短編作品 百番目の死神
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