7.新たな侍女
突然現れた少女が自分の侍女になると聞かされてから、まだそれほど時間は経っていない。
それにもかかわらず、聖花はすでに鏡台の前へ座らされ、外出の支度を整えられていた。
背後ではアデルが櫛を手にし、絡まった髪を傷めないよう少しずつ梳いている。先ほどまで部屋中へ響くほど元気な声を上げていたとは思えないほど、その手つきは慎重だった。髪を強く引かないよう毛先から丁寧に解し、指先で状態を確かめてから、徐々に根元へ近づいている。
新しい役目へ張り切っているだけではなく、侍女としての技術もある程度身につけているらしい。少なくとも、何も知らないまま聖花のもとへ送り込まれたわけではなさそうだった。
聖花は鏡に映るアデルの姿を眺めながら、先ほどの出来事を思い返した。
考え事へ夢中になりすぎて、扉を叩く音へ全く気づかず、背後から掛けられた声へ何の疑いもなく返事をしてしまった。アデルに悪意があったわけではないし、返事がなければ様子を確認するのも当然だろう。
迂闊だったのは、どう考えても聖花の方である。
机の上へ置いていた紙には、アーノルドやヴィンセント、フェルナンの名まで書いていた。入れ替わりの核心だけは何らかの力に阻まれて記せなかったとはいえ、あれを詳しく見られていれば、説明の難しい内容が並んでいたことに変わりはない。
幸い、アデルは紙へ目を向けていなかった。
けれど、次も同じように運よく済むとは限らない。
「本当に驚きました……」
聖花が苦笑交じりに呟くと、髪を梳いていたアデルの手が僅かに止まった。
鏡越しに目が合う。
アデルは、先ほど聖花を驚かせたことについて責められていると思ったのか、見る間に表情を曇らせた。
「その節は、本当に申し訳ございませんでした……。何度かお呼びしたのですが、お返事がありませんでしたので、もし具合を悪くされていたらと思いまして」
今度の声は、先ほどの快活さが嘘のように小さい。
耳元で大声を出してはならないと考えているだけでなく、聖花に不快な思いをさせたことを本気で気にしているらしい。
聖花は慌てて首を横へ振った。
「いいえ、アデルのことを責めているわけではありません。考え事に夢中になって、呼ばれていることへ気づかなかった私が悪いのですから」
(むしろ、見られて困るものを出したまま考え込んでた私の方が危ないよね)
聖花がそう告げると、アデルは目に見えて安堵した。
しかし、ほっとしている間も手だけは止めない。櫛を動かしながら髪の流れを整え、次にどのような髪型へ仕上げるか考えているようだった。
働き始めたばかりの侍女にしては、随分と仕事熱心である。
アデルによれば、メイド長は最初から聖花の世話を続ける予定ではなかったらしい。
屋敷全体を取りまとめる立場にある以上、一人の令嬢へ付ききりになることはできない。聖花が新しい環境へ馴染むまでの間、身支度や屋敷内の案内をしながら、その様子を見ていたという。同時に、聖花へ合う侍女を選ぶため、屋敷で働く者たちを見極めてもいたのだろう。
その結果、選ばれたのがアデルだった。
年齢は聖花とそれほど離れていない。主人と侍女という関係でありながら、日常的に側へ置くのであれば、年の近い相手の方が緊張せずに済むと考えられたらしい。
さらに、聖花が入学する予定の学園には、原則として一人の侍女を伴うことが許されている。入学後も側へ置くことを前提として、今のうちから関係を築ける者が選ばれたのだ。
マリアンナのまま無事に入学していたなら、聖花は迷わずメイを選んでいただろう。幼い頃から世話をしてくれたメイならば、学園という不慣れな場所でも安心して側へ置くことができた。
そして今、マリアンナとして暮らしているカナデも、連れて行くとすればおそらくメイだ。自分の代わりに、カナデがメイの世話を受けているはずだから。
そう考えた瞬間、胸の奥へ小さな痛みが走った。
聖花はその感情を表へ出さないよう、鏡の中の自分へ視線を戻した。
今は失ったものを思い返している場合ではない。アデルがどのような人物なのかを知り、今後どこまで信用できるかを見極める必要がある。
第一印象だけで言えば、アデルは朗らかで素直な少女だった。
感情がそのまま表情へ現れるため、何を考えているのか分かりやすい。聖花が少し驚けば不安そうになり、許されたと分かればすぐに笑顔を取り戻す。
反応の一つ一つが正直で、見ていると自然に気持ちが和らいだ。
けれど、その素直さこそが、アデルを聖花の侍女へ選んだ理由なのかもしれない。
ヴィンセントが、何の監視もなく聖花を自由にさせるとは考えにくい。闇属性を持つと誤解している少女を屋敷へ迎え入れ、養女にまでしたのだ。その行動や言動を把握しようとするのは当然だろう。
嘘が下手で、命令されたことを忠実に行う者であれば、監視役としては扱いやすい。アデルが自覚しているかどうかはともかく、聖花の様子をヴィンセントかメイド長へ報告するよう命じられている可能性は高かった。
聖花は鏡越しにアデルを観察した。髪を梳くことへ集中しており、こちらが疑っているとは夢にも思っていないように見える。
遠回しに探りを入れても、アデルには通じないかもしれない。
ならば、直接聞いた方が早かった。
「アデル。一つ、質問をしてもよろしいですか」
名前を呼ばれたアデルは、すぐに顔を上げた。
「はい。私に答えられることであれば、何なりとお申し付けください!」
あまりにも勢いのよい返事に、聖花は一瞬だけ尋ね方を迷った。
だが、ここで濁しても意味はない。
「私の侍女になる際、誰かから何か命じられていますか」
聖花は鏡を通して、アデルの反応を見つめた。
否定されても、表情が変われば何かを隠していると分かる。言葉に詰まるか、目を逸らすか、手が止まるか。その僅かな変化から答えを読み取るつもりだった。
ところが、アデルは取り繕うことも、誤魔化そうとすることもなかった。
「お嬢様がどのようにお過ごしになったか、定期的に報告するよう命じられております。ただし、報告する内容や、どなたへお伝えするかなど、詳しいことはお教えできません。申し訳ございません……」
あまりにも迷いのない返答だったため、聖花は言葉を失った。
髪を梳かれながら、鏡の中のアデルを見つめる。
アデルは何かおかしなことを言ったとは思っていないらしく、ただ答えられない部分があることを申し訳なさそうにしていた。
(そこまで正直に言うんだ……)
聖花が知りたかったのは、命令を受けているかどうかだけだった。
否定されれば、その時の反応から判断するつもりでいた。まさか監視を命じられていることを、本人の口からはっきり告げられるとは思わなかった。
(この子を私の侍女にして、本当に大丈夫なのかな。監視役だって自分から教えちゃってるけど)
アデルが命令を理解していないわけではない。詳しい内容は教えられないと、きちんと線を引いている。そのうえで、自分が報告役であること自体は隠す必要がないと判断したらしい。
もしかすると、最初から聖花へ明かすことを許可されているのかもしれない。監視している事実を隠さず示すことで、聖花に軽率な行動を取らせない狙いも考えられる。
もしそうなら、アデルの素直さを利用しているのは、聖花だけではないということになる。それとも、全てはアデル自身の判断なのだろうか。
彼女が聖花の信頼を得るため、あえて正直に答えた可能性も完全には否定できない。
その場合、今目の前にいる純朴な少女は、聖花が思うよりも遥かに計算高い人物ということになる。
(これが全部演技だったら、フェルナンより怖いかもしれない)
聖花が黙ったまま考え込んでいると、アデルの手が再び止まった。鏡の中で、心配そうに眉を下げている。
「……お嬢様?」
呼び掛けられ、聖花は我に返った。
「いいえ、何でもありません。正直に教えてくださって、ありがとうございます」
聖花が微笑むと、アデルは胸を張るように姿勢を正した。
「侍女たるもの、主人からのご質問には誠実にお答えするのが当然です!」
誇らしげな表情とは裏腹に、髪を整える手はすぐに動き始める。
どうやら本当に、聖花を欺くための演技をしているわけではなさそうだった。少なくとも今のところは、そう思ってよいだろう。
聖花の行動が報告されること自体は、予想していた。
問題は、どの程度まで伝えられるかである。街へ出たいと口にしたことは、おそらくメイド長やヴィンセントにも知られる。外出中の行動や、誰と会話したかまで細かく報告される可能性もある。
カナデについて調べるためには、アデルの目を避けなければならない場面が出てくるかもしれない。
とはいえ、アデル自身へ悪意はない。命じられた仕事をこなしているだけの少女を、最初から敵のように扱うことも違うだろう。
警戒すべきところは警戒しながら、できる限り普通に接するしかなかった。
聖花がそう考えていると、アデルは髪を纏めるための飾りを選びながら、新しい話題を口にした。
「ところで、お嬢様は、なぜ街へ行こうと思われたのですか」
純粋な疑問なのか、それとも報告のために目的を確かめているのかアデル自身の表情からは判断できなかった。彼女がヴィンセントから何を命じられているか分からない以上、何気ない質問であっても慎重に答える必要がある。
カナデの過去を調べたいなどと、正直に話すわけにはいかない。王都で噂を集めたいという目的も伏せるべきだろう。
聖花は僅かに考え、最も不自然に聞こえない理由を選んだ。
「久しぶりに、街で買い物をしたくなったのです。貴族であれば屋敷へ商人を呼ぶこともできるのでしょうけれど、私は自分で店を見て回る方が好きですから」
今の聖花――表向きのセイカは、もともと貴族ではない少女ということになっている。
商人を屋敷へ呼びつけるより、自分で市場や店へ足を運ぶ方が落ち着くと考えても不自然ではない。
少なくとも、外出を疑われるような理由ではないはずだった。
アデルは納得したように頷いた。
「そうだったのですね。私はてっきり、どなたかとお会いするためなのかと思っておりました」
言い終えた途端、なぜかアデルの頬が薄く赤く染まった。自分の発言を意識して気恥ずかしくなったらしい。
その反応を見れば、彼女が想像していた「どなたか」が、ただの知人を指していないことは明らかだった。
街で待ち合わせるような、親しい相手。おそらくアデルの頭には、想い人や恋人といった存在が浮かんでいるのだろう。
(私が誰かと秘密で会うと思ってたんだ)
監視役として行動を探っているのかと思えば、随分と可愛らしい想像である。
アデルは、自分の勘違いを隠すように視線を泳がせながら、髪飾りを選び直していた。
聖花はその様子に僅かに頬を緩める。
「そのような相手は、私にはいませんよ」
(会おうと思えば、アーノルドくらいしか思い浮かばないけど。あれは恋人どころか、何を考えてるか分からない共謀者だし)
今の聖花には、友人と呼べる相手さえほとんどいない。
マリアンナとして親しかった者たちの前へ出ることはできず、ヴェルディーレ家へ戻ることもできない。アーノルドは助けてくれたものの、無条件に信頼できる関係とは言い難い。
フェルナンに至っては秘密を握って脅しに近い要求をしてきたばかりである。
軽い事実を口にしただけのつもりだった。
しかし、その言葉を聞いたアデルは、なぜかひどく悲しそうな顔になった。髪を整えていた手まで止まり、鏡越しに聖花を見つめる瞳が潤み始める。
「お嬢様……」
消え入りそうな声で名前を呼ばれ、聖花は嫌な予感を覚えた。
「私がお嬢様のお側におります。これからは、ずっと私がご一緒いたしますから……そのような悲しいことを仰らないでください」
アデルは今にも泣き出しそうだった。
聖花としては、街で会う相手がいないと説明しただけである。
それをアデルは、頼れる者も親しい者も誰一人としていないという、深い孤独の告白として受け取ったらしい。
(どうしてそこまで悲しい話になったの?)
聖花は鏡の中のアデルを見ながら、思わず目を見開いた。
感受性が豊かという言葉だけでは足りない。他人の寂しさや悲しみに触れると、自分のことのように胸を痛めてしまうのだろう。
冷静で隙のないメイド長や、聖花を値踏みするような態度を見せたメイドと同じ屋敷で働いていることが、信じられないほどだった。
もっとも、使用人の性格が屋敷の主へ似るとは限らない。ヴィンセントが冷淡だからといって、そこで働く全員が同じように冷たいわけではない。
アデルの反応を見ていると、聖花はどこか懐かしいものを感じた。
以前の自分も、誰かが悲しんでいれば必要以上に気に掛け、その理由を知らないまま心を痛めることがあった。
相手の感情へ敏感である一方、自分のことになると後回しにしてしまう。アデルには、かつての聖花と少し似たところがあるのかもしれない。
とはいえ、このままでは本当に泣かせてしまいそうだった。
聖花は話題を変えることにした。
「では、アデルはどうなのですか。これから側にいてくださるのなら、私も貴女のことを知りたいです。どのような場所で育ったのか、聞かせてもらえますか」
自分のことを尋ねられるとは思っていなかったのだろう。アデルは潤んでいた目をぱちぱちと瞬かせ、櫛を持ったまま固まった。
「私のこと、ですか?」
「はい。他ならぬアデルのことです」
聖花が頷くと、アデルは少し照れたように視線を落とした。
何から話せばよいか考えているらしく、暫く口を閉じていたが、やがて静かに語り始める。
「私には母がおります。何もできなかった私を、たった一人でここまで育ててくれた、大切な母です」
先ほどまでの明るい調子とは違い、母親のことを話す声には、深い愛情が滲んでいた。
「母は小さなパン屋を営んでおります。幼い頃から私も店を手伝っていて、途中までは、二人で毎日のようにパンを焼いておりました。朝早くに起きて、生地を捏ねて、店中へ焼きたての香りが広がるのが、とても好きで……」
アデルは懐かしそうに微笑んだ。
けれど、その笑みはすぐに翳る。
「ですが、途中から母が――」
「待って。もう大丈夫です」
聖花は、アデルが続きを口にする前に慌てて止めた。
話の流れだけで、何が続くのかはある程度想像できた。
母親は今も生きているのだろう。アデルが「おります」と現在のこととして話している以上、すでに亡くなった可能性は低い。
しかし以前のように一緒に店を続けられない事情があり、そのためアデルはパン屋を離れ、貴族の屋敷で働くことを選んだ。
病気で寝込んでいるのかもしれない。怪我を負って働けなくなった可能性もある。あるいは過労によって、店へ立てない状態になったのだろうか。
いずれにせよ、アデルがここで働く理由には、母親を支える目的があるはずだった。
(まさか、そんな事情があったなんて)
聖花は、自分から話題を振ったことを後悔した。
(危うく、無理に辛いことを話させるところだった)
アデルを元気づけるため、軽い気持ちで尋ねただけだった。
それなのに、かえって彼女の苦しい記憶へ触れてしまった。
聖花にも、思い出したくないことを無遠慮に尋ねられる苦しさは分かる。本人が話したいと思っていないなら、理由を暴こうとするべきではない。
何と声を掛ければよいか迷っていると、アデルの方が先に笑みを浮かべた。
「私は大丈夫です、お嬢様」
明るく言おうとしているものの、その笑顔が取り繕われたものであることは分かった。
アデルは他人の悲しみには驚くほど敏感なのに、自分の痛みについては、平気なふりをして飲み込んでしまうらしい。
その点まで、昔の自分とどこか似ている。
「ですが、これ以上は聞きません。話したくなった時に、アデル自身の言葉で聞かせてください」
聖花がそう告げると、アデルは一瞬だけ驚いた顔をした後、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとうございます」
声は小さかったが、先ほどの作り笑いよりも、ずっと自然な表情をしていた。
聖花は重くなりかけた空気を変えるため、鏡の中で整えられていく髪へ目を向けた。
髪はすでに丁寧に纏められ、外出に相応しい形へ整い始めている。あとは化粧と服を選べば、支度はほとんど終わるだろう。
「それより、そろそろ出掛ける準備を終えられそうですか」
聖花が明るい声で尋ねると、アデルも気持ちを切り替えたように顔を上げた。
「はい! 髪はもうすぐ整いますので、その後はお召し物を選びましょう。街へ行くのが楽しみですね!」
「そうですね」
先ほどまで泣きそうになっていたとは思えないほど、アデルの声には再び元気が戻っていた。
感情が移り変わりやすいというより、一つ一つを強く感じているのだろう。悲しい時には心から悲しみ、嬉しいことがあればすぐに笑顔になる。
その様子を見ていると、聖花まで自然に頬が緩んだ。
監視を命じられていることは、忘れてはならない。街へ出れば、アデルの目を避けて行動しなければならない場面もあるだろう。
それでも、アデル本人へ嫌悪を抱くことはできそうになかった。聖花を侮らず、与えられた仕事へ真面目に向き合い、まだ何も知らない主人の孤独にさえ涙を浮かべる。
その素直さが、いつか利用されて傷つくのではないかと、出会って間もない聖花が心配になるほどだった。
警戒すべき相手がまた一人増えたのではない。守るべきかもしれない相手が、一人増えてしまった。
その違いを、聖花はまだはっきりとは自覚していなかった。
鏡台の前では、アデルが外出用の髪飾りを手に取り、どちらが似合うか真剣な顔で見比べている。
そんな感情豊かな新しい侍女の姿を眺めながら、聖花は小さく笑った。
次話から、街編です




