6.状況把握
フェルナンの授業を受けた翌朝、聖花はまだ空が白み始めたばかりの時刻に目を覚ました。
昨夜は寝台へ入ってからも、なかなか眠りにつくことができなかった。目を閉じるたび、学習室で耳元へ落とされたフェルナンの声が蘇り、どう対処するべきだったのかという答えの出ない問いが、頭の中を延々と巡り続けたからだ。
彼は聖花の正体を知っている。
それも、王宮で捕らえられていたカナデと、ゴルダール伯爵家の養女となったセイカが同一人物であることを、ほぼ確実に見抜いている。
誰にも言わない代わりに、学園へ入学した後、自分のところへ来るよう要求された。
なぜフェルナンがそのような条件を出したのか、聖花には分からない。単に面白がっているだけなのか、聖花へ何かをさせるつもりなのか。それとも、彼自身も誰かに知られては困る秘密を抱えているのか。
どれほど考えても結論は出なかった。アーノルドへ知らせるべきかとも考えたが、今すぐ連絡を取る方法がないうえ、伝えたことでフェルナンを刺激する可能性もあるし、ヴィンセントへ話すなど、さらに危険すぎて出来なかった。
結局、聖花は何も決められないまま夜を過ごした。
眠った時間は、ほんの僅かだったのだろう。目の奥には鈍い重さが残り、身体を起こすと軽い頭痛まで感じた。
聖花は寝台の上で暫くぼんやりと座り、目元を指先で擦った。鏡を見なくとも、薄く隈が浮かんでいることは分かる。
部屋の外からは、すでに慌ただしい足音が聞こえていた。
廊下を行き交う使用人たちの声。何かを運ぶ台車の音。遠くでは扉が開閉する音も響いている。昨日の朝と同じように、屋敷が一日を始めるために動き出しているらしい。
ただし、今日はメイド長が聖花を起こしに来ることはなかった。
昨日は、聖花が屋敷へ迎え入れられたばかりという特殊な事情があった。湯浴みやヴィンセントとの面会も予定されていたため、メイド長自らが様子を見に来たのだろう。
本来なら、貴族令嬢が起き出すにはまだ早い時刻だった。
もう一度横になれば、少しくらい眠れるかもしれないが、聖花は寝台へ戻る気にはなれなかった。瞼は重いのに、頭だけは妙に冴えており、再び目を閉じればフェルナンのことを考え始めるのが分かっていた。
聖花は諦めて寝台から降りると、気分を変えるために窓辺へ向かった。
厚いカーテンを開き、窓の留め金を外すと、冷たさを僅かに含んだ朝の空気が部屋の中へ流れ込んできた。寝不足で重くなっていた頭が、その風に触れて少しだけ冴える。
窓の向こうには、王都の街並みが広がっていた。
空は澄み渡り、東の端から昇り始めた朝日が、白い雲を淡い金色へ染めている。まだ人通りの少ない通りには、長い建物の影が落ち、屋根や窓へ反射した光が、街全体を細かな宝石のように輝かせていた。
昨日は身支度や面会、授業と慌ただしく、窓の外をゆっくり眺める余裕などなかった。
ゴルダール伯爵家の屋敷は高い場所に建てられているのか、聖花の部屋からは王都の広い範囲を見渡すことができた。
ヴェルディーレ家でも、美しい朝焼けや広い庭を目にする機会はあった。それでも、今目の前に広がる景色は、以前よりも強く心へ残った。
地下牢には、小さな窓すらなかった。当然と言えば当然であるが、昼なのか夜なのかさえ分からず、灯りが消されれば完全な闇の中で過ごすしかなかった。空を見ることも、風に触れることも、当たり前に朝を迎えることさえできなかった。
それを思えば、こうして窓を開き、自分の意思で外の景色を眺められることは、決して当たり前ではない。
「綺麗……」
言葉が自然とこぼれた。
王都を覆う朝の光は、聖花が抱えていた不安まで洗い流してくれるように見えた。
もちろん、現実の問題が消えたわけではない。フェルナンは聖花の正体を知っており、ヴィンセントは存在しない闇属性の力を聖花へ求めている。カナデはマリアンナの身体を奪ったまま、ヴェルディーレ家で生活している。
聖花が置かれている状況は、昨日と何一つ変わっていなかった。
それでも、ほんの少しだけ心が軽くなった。
牢の中で全てを失ったと思っていた自分は、今こうして朝日を見ている。何も取り戻せてはいないが、動く機会だけは与えられた。
聖花は窓枠へ両手を添え、街を照らす光を目へ焼きつけた。
今後、何度も挫けそうになるだろう。誰を信じればよいか分からず、何を選んでも間違いに思えることもあるかもしれない。
そんな時には、この朝の光景を思い出せばよい。完全な暗闇から抜け出し、自分の足でここまで来たという事実を。
「……よし」
聖花は小さく声を上げ、気持ちを切り替えるように窓から離れた。
答えの出ないことを何度も考えていても仕方がない。
フェルナンの言葉が信用できるかどうかは、今すぐには判断できない。少なくとも現時点では、彼が秘密を明かした様子はない。
ならば、当面は彼が誰にも話さないという言葉を信じるしかなかった。
ただし、何の準備もせずに成り行きへ任せるつもりはない。今の自分が置かれている状況を一度整理し、何を優先すべきなのか考える必要がある。
聖花は机へ向かい、昨日の授業で使用したノートを開いた。新しい頁はまだ真っ白である。
このまま書き込めば、誰かに見られた時に言い逃れができない。そこで聖花はノートの端から一枚を慎重に切り離した。
多少歪んでしまったが、持ち運びやすい一枚の紙にはなった。
聖花は椅子へ腰掛け、筆記具を握る。
まずは、自分の身に何が起きたのかを書き出そうとした。
しかし、筆先が紙へ触れたところで手が止まった。
マリアンナの身体と、カナデの身体。二人の魂が入れ替わったという事実。それを書こうとすると、頭の中では内容が分かっているにもかかわらず、腕が動かなくなる。
以前、アーノルドへ入れ替わりについて話そうとした時と同じだった。喉が塞がったように声が出なくなり、どれほど必死に伝えようとしても、核心へ触れる言葉だけが形にならなかった。
今は誰かへ話そうとしているわけではなく、自分しか見ない紙へ書こうとしているだけである。それでも、何らかの力は容赦なく聖花の行動を阻んだ。
筆記具を強く握っても、腕は動かない。無理に書こうとすれば、指先から力が抜け、筆先が紙の上を滑るだけだった。
(やっぱり書くこともできないんだ)
聖花は筆記具を置き、痺れたようになった指を開いたり閉じたりした。
(話すのが駄目なだけじゃない。誰かに伝わる形にすること自体が止められてるのか)
以前は偶然言葉が出なかった可能性も考えていた。
けれど、今こうして文章にすることさえできない以上、何らかの強制的な力が働いていることは間違いない。
聖花は真実を書くことを諦め、入れ替わりの核心へ触れない範囲で状況を整理することにした。
まず、現在協力者だと考えられる人物の名前を書く。
アーノルド。
王宮から聖花を脱出させ、ゴルダール伯爵家へ預けるために動いた男である。森属性を持ち、王家に属しながらも、秘密裏に聖花を助けてくれた。
そして、ダンドール伯爵家の一部。
ヴィンセントが本当に聖花の味方かと問われれば、素直には頷けない。彼が求めているのは聖花ではなく、カナデが持つ闇属性である。
それでも、現在の身分と生活を保障している以上、少なくとも今すぐ敵対しているわけではなかった。
次に、脅威となり得る存在。
ヴェルディーレ家。
その名を書こうとして、聖花の手が僅かに止まる。
家族全員がそうだとは思いたくなかった。ダンドールやルアンナ、フィリーネが、全てを理解したうえで聖花を排除したわけではない。彼らはカナデをマリアンナだと信じ、目の前に現れた聖花を闇属性の罪人だと思い込んでいるだけだ。
しかし今の状況でヴェルディーレ家へ近づけば、正体が露見し再び捕らえられる可能性が高い。実際に聖花を危険視している以上、行動上は敵対者として扱わなければならなかった。
聖花は迷った末、その横へ小さく「一部を除く可能性あり」と書き加えた。
最後に、立場が判断できない人物。
フェルナン。
正体を見抜いていながら、王宮へ報告せず、学園で会うことを求めてきた男。味方と呼ぶには危険すぎるが、現時点で明確な敵対行動を取っているわけでもない。
聖花は紙の上へ、整理した内容を書き並べた。
協力者、敵対する可能性のある者、立場が不明な者。さらに、自分が現在置かれている状況も記していく。
紙へ書かれた文字を眺めると、自分がいかに危うい立場へ置かれているのかが改めて分かった。
確実に味方だと言い切れる人物は、一人もいないに等しい。アーノルドは聖花を助けたが、その理由を明かしていない。ヴィンセントは聖花を保護しているが、闇属性の力を利用することが目的であることは明白だ。フェルナンに至っては秘密を守ると告げたものの、その代わりに何かを要求してきている。
しかも、ヴィンセントが求める闇属性は、聖花には存在しない。
属性は身体ではなく、魂だけへ刻まれる。カナデの身体へ入っていたとしても、聖花の属性が闇へ変化することはない。聖花が持つ属性は、以前から変わらず光であることだろう。
反対に、マリアンナの身体を奪ったカナデは、今も闇属性を持っているはずだ。カナデはその事実を隠し、周囲へ光属性だと思わせたまま生活しているのだろう。
ヴィンセントが真実を知れば、大変なことになる可能性が高い。先日の狂気に満ちた様子を思えば、単に屋敷から追い出されるだけで済むとは限らなかった。
騙したことへ怒りを向けられるかもしれないし、聖花を拘束することも考えられる。
今の暮らしが安全だと思ったことはないが、少なくともヴィンセントの誤解が続いている間は、養女として保護されている。
その誤解が解けた瞬間、聖花は再び全てを失う可能性があった。
(私が光属性だって知られたら、ヴィンセントはどうするんだろ)
考えるだけで、背中へ寒気が走る。
(やっぱり、捨てられるだけじゃ済まないよね。カナデが本当の闇属性だって分かったら絶対に探しに行くし、私のことも……)
ヴィンセントへ真実を知られることだけは、何としても避けなければならない。
しかし、今後は魔術の訓練も行われるはずである。いつまでも魔力を扱えないふりを続ければ、不審に思われる。
聖花は紙へ、「魔術訓練への対策」と書き加えた。
次に、アーノルドの名へ視線を向ける。彼が聖花を助けたのは、闇属性を利用するためなのだろうか。
ヴィンセントへ引き渡した以上、その可能性は十分にある。闇属性を持つカナデを安全に逃がし、協力者であるヴィンセントの手元へ置くことが目的だったのかもしれない。
それならば、中身が聖花だと知った時点で助ける価値はなくなるはずだ。
それでもアーノルドは、聖花を王宮から逃がした。危険を承知で塀を越えさせ、馬車を用意し、追手が来ないよう手配までしていた。
頭では何か裏があると警戒しているけれども、王宮から逃げる途中で触れた手の温もりや、聖花を安心させようとした言葉まで、全てが嘘だったとは思いたくなかった。
(アーノルドは、何が目的なんだろ)
聖花は筆記具の端で机を軽く叩いた。
カナデと何らかの関わりがあるのか。あるいは、王家に関係する別の目的があるのか。聖花は答えの出ない問いを紙へ書くことを諦め、アーノルドの名前の横へ小さく疑問符をつけた。
その時、不意に王宮の塀の上で聞いた声を思い出した。逃げる直前、混乱していた聖花へ届いた、どこか聞き覚えのある声。
アーノルドの声ではなかった。ザックとも違う。いまいち思い出せないのに、その声を聞いた時だけは、不思議なほど心が落ち着いた。理由もないまま、信じてよい相手だと思えた。
操られていたのではないかと疑いたくなるほど、強い安心感だった。
(あの声、誰だったんだろ)
聖花は記憶を辿ろうとしたが、声の主へつながる手掛かりは何も浮かばなかった。
(思い出せないのに、あの人だけは信じていいって思った。そんなの、どう考えても変だよね)
精神へ干渉する魔術を使われた可能性もある。入れ替わりがあるのだから十分に有り得ることだろう。
けれど、もしそうなら、何のために聖花を安心させたのか分からない。
考え始めれば、紙へ書き出した問題がさらに増えるだけだった。
聖花は一度首を横へ振り、今すぐ答えの出ないことを頭から追い出した。全てを同時に解決することはできないから、まず自分が調べられることから手をつけるべきである。
(先に闇属性について調べよう)
ヴィンセントが闇属性へ何を求めているのか。カナデがどのような魔術を持ち、何を使って聖花と入れ替わったのか。
その二つは、別々の問題に見えて深く関係している可能性もある。
(それからカナデのこと。どこから来たのか、何を考えてるのか、何一つ分からないままじゃ駄目だ)
聖花は紙へ、今後調べるべき項目を書き加えた。
一つ目は闇属性。
二つ目はカナデの過去。
三つ目は、魂へ干渉する魔術。
順番は状況に応じて変えてもよいが、どれも避けては通れない問題である。
昨日訪れた書庫には、闇属性へ直接触れた書物がほとんどなかった。
しかし、ヴィンセントがあれほど強く執着している以上、何の資料も持っていないとは考えにくい。一般の者が入れる書庫とは別に、私室や執務室へ文献を保管している可能性がある。
屋敷のどこかに、闇属性の研究記録が隠されているはずだった。
(昨日の書庫には、当たり障りのない本しかなかった。でも、ヴィンセントが何も知らないまま闇属性を欲しがるとは思えない)
聖花は、ヴィンセントが恍惚とした表情で闇属性を語っていた姿を思い出した。
(あの人は、何か知ってる。闇属性で何ができるのか、少なくとも普通の人よりは詳しいはず)
ただし、ヴィンセントへ直接尋ねるのは危険だった。知識がないこと自体は不自然ではないが、質問の内容によっては、聖花が闇属性を扱えないと悟られる可能性がある。
慎重に情報を集める必要があった。
次に、カナデについて考える。
彼女がどこから来たのか聖花はほとんど知らない。王国のどこかで暮らしていたのか、誰かに魔術を習ったのか。そして、なぜマリアンナを狙い、身体を奪ったのか。
カナデ本人へ尋ねることができれば早いが、今の聖花がヴェルディーレ家へ正面から近づくことはできないし、真っ向から尋ねられるわけがない。
ならば、カナデが以前暮らしていた場所や、彼女を知る者を探すしかなかった。カナデが王都へ来る前の行動を辿ることができれば、何か手掛かりを得られるかもしれない。
しかし、屋敷の中へ閉じこもっているだけでは、街の噂や人々の話を集めることはできない。
(カナデのことを知りたいなら、屋敷の外へ出ないと)
聖花は筆記具を動かしながら、どのように情報を集めるか考えた。
使用人へ直接尋ねても、不用意に聞き回れば怪しまれるし、王宮の関係者や騎士へ接触することもできない。それでも街へ出れば、カナデの捕縛や脱獄に関する噂を耳にできる可能性がある。
新聞のようなものがあるなら、事件について何が発表されているのかも確認したい。
何より、屋敷の外を歩けば、この身体の顔を知る者と偶然出会うかもしれない。危険ではあるが、得られる情報も多いかもしれない。
「街へ出てみよう」
考えが一つの形になり、聖花は無意識に口へ出した。
その時、すぐ背後から声が聞こえた。
「街へ行かれるのですか?」
「はい。できれば今日にでも……」
聖花は反射的に答え、そこで動きを止めた。
今の声は、自分のものではない。メイド長の声とも違う。
若く、明るさを含んだ女性の声だった。
(……え?)
聖花は筆記具を持ったまま、ゆっくりと顔を上げた。
(今、誰と話したの?)
寝不足のせいで幻聴でも聞こえたのかと思ったが、背後から確かに人の気配を感じる。
聖花は恐る恐る振り返った。
そこには、見覚えのない少女が立っていた。
年齢は聖花と大きく変わらないように見える。落ち着いた色の制服を身につけ、両手を身体の前で揃えていることから、屋敷で働く者なのだろう。
だが、一般のメイドとは服装の細部が少し異なっていた。
少女は聖花と目が合うと、緊張したように背筋を伸ばした。大きな瞳には悪意も嘲りもなく、むしろ期待と尊敬が入り混じったような光が浮かんでいる。
あまりにも真っ直ぐ見つめられ、聖花の方が戸惑ってしまった。
(誰だろう。この子、いつからいたの?)
聖花が声を掛ける前に、少女は慌てて深く頭を下げた。
「申し訳ございません! 何度か扉を叩いたのですが、お返事がありませんでしたので、勝手ながら入室いたしました!」
その声は、朝の静かな部屋へよく響いていたはすだ。聖花が考え事へ夢中になっていたため、ノックへ全く気づかなかったらしい。
少女は頭を下げたまま、勢いよく言葉を続けた。
「本日より、お嬢様の侍女を務めさせていただくことになりました、アデルと申します! 精一杯お仕えいたしますので、どうぞよろしくお願いいたします!」
言い終えると、アデルはさらに深く頭を下げた。声にも姿勢にも、溢れんばかりの意欲が表れている。
聖花は突然のことに、暫く返事ができなかった。
専属の侍女が決まるという話は聞いていない。
昨日まで聖花の世話をしていたのはメイド長だったが、屋敷全体を管理する立場にある彼女が、いつまでも聖花一人へ付き添うことはできないのだろう。
その代わりとして選ばれたのが、目の前の少女らしい。
聖花が黙って見つめていたため、アデルは不安になったのか、頭を上げてこちらの顔色を窺った。
「……あの、私ではご不満でしょうか」
先ほどまでの元気な声が急に小さくなり、眉が心配そうに下がる。反応があまりにも素直で、聖花はようやく我に返った。
「いいえ、そうではありません。突然だったので、少し驚いただけです」
聖花が慌てて否定すると、アデルの表情が見る間に明るくなった。
「よかったです!」
全身で安堵を表す姿を見て、聖花は僅かに頬を緩めた。
昨日接したメイドたちとは、随分と雰囲気が違う。
アデルからは、相手を値踏みするような視線も、仕方なく仕事をしているような態度も感じられなかった。聖花の侍女へ選ばれたことを、心から喜んでいるようにさえ見える。
それが本心なのか、誰かの命令による演技なのかは、まだ分からない。ヴィンセントが聖花の行動を監視するため、若く扱いやすい者を侍女として付けた可能性もある。
簡単に信用するべきではない。そう分かっているのに、アデルの屈託のない笑顔を前にすると、強く警戒することが少しだけ難しくなった。
アデルは改めて姿勢を正し、聖花へ問い掛けた。
「それで、お嬢様は街へお出掛けになるのですか?」
どうやら、先ほどの独り言を完全に聞かれていたらしい。
聖花は机の上へ置かれた紙を咄嗟に裏返した。核心へ触れる内容は書けていないとはいえ、協力者や敵対者について整理した紙を見られるわけにはいかない。
幸い、アデルは紙へ視線を向けていなかった。街へ行くという言葉だけに興味を引かれているようで、期待に満ちた顔で聖花の返事を待っている。
「ええ。まだ決めたばかりですが、できれば王都を見て回りたいと思っています」
「畏まりました! それでは、すぐにお出掛けの準備をいたします!」
聖花が止める間もなく、アデルは意気込んで部屋の中を見回した。
衣装棚へ向かうべきか、先にメイド長へ報告するべきか迷っているらしく、視線が忙しく動いている。
その姿は頼もしいというより、初めて大きな役目を任された子供のように微笑ましかった。
聖花は思わず、小さく笑った。
フェルナンのことで眠れず、今後の危険ばかりを紙へ書き出していた朝だった。それでも、アデルの明るさへ触れた瞬間、張り詰めていた気持ちがほんの少しだけ和らいだ。
彼女が本当に信頼できる相手かどうかは、これから見極めなければならない。けれど、誰も信用できない屋敷だと思っていた場所で、自分へ笑顔を向けてくれる者が現れたことは、聖花にとって小さくない変化だった。
こうして聖花の新しい生活へ、一人の侍女が加わることになった。
アデルとの出会いが、今後の聖花に何をもたらすのか。
この時の彼女は、まだ何も知らなかった。




