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5.彼との約束?

 フェルナンの授業は、聖花が身構えていたものとは大きく異なっていた。


 正体へ気づいているのかもしれない。授業という名目で、捕縛された時の出来事やカナデについて探りを入れられるのではないか。

 そのような不安を抱えたまま始まったものの、フェルナンが最初に取り出したのは、ごく一般的な歴史の教本だった。彼は聖花の前へ紙と筆記具を置き、簡単な質問を幾つか口頭で行った後、基礎的な内容から順に説明を始めた。


 話の中に不自然な誘導はない。聖花の過去へ触れようとする言葉も、捕縛時の少女と結びつけるような問い掛けもなかった。


 フェルナンは、あくまで家庭教師として振る舞っている。

 少なくとも、授業が始まってから暫くの間はそう見えた。


 聖花は警戒を解かないよう注意しながら、教本へ視線を落とした。既に知っている内容も多かったが、全てを理解していると悟られないよう、時折考える素振りを見せながら答えていく。


 かといって、何も知らないふりをしすぎれば、今度は不自然になる。

 王都の位置や王家の成り立ち、主要な貴族家の役割といった基礎知識は、平民であっても耳にする機会がある。読み書きや簡単な計算についても、完全にできないふりをする必要はなかった。


 聖花は、自分の知識をどこまで見せるべきか慎重に判断しながら、フェルナンの授業を聞いていた。対するフェルナンは、聖花が質問に答えるたびに僅かに目を細めたものの、驚きを露骨に表すことはなかった。


 正解した場合には素直に褒め、間違えた場合にも責めることなく、どこで考え違いをしたのかを順序立てて説明する。

 その教え方は、意外なほど丁寧だった。


 聖花は最初、フェルナンを本当に教師なのかと疑っていた。

 初めは衛兵か傭兵のような姿をしており、今は貴族令嬢を口説くことへ慣れているような華やかな衣服をまとっている。教師というより、社交界で女性たちの視線を集める軽薄な貴公子に見えたからである。


 けれど、実際に話を聞いてみれば、内容は分かりやすく、説明にも無駄がない。

 聖花が理解できている部分を何度も繰り返すことはせず、反対に曖昧なところだけを見抜いて、別の例を使いながら補ってくれる。

 質問に答える速さや、筆記する際の迷いまで観察しているらしく、聖花の理解度へ合わせて授業の進め方を変えていた。

 


(見た目は全然先生っぽくないのに、教え方はちゃんとしてるんだ)


 聖花はフェルナンの説明を聞きながら、内心で失礼な感想を抱いた。

 


(というか、普通の教師より分かりやすいかも)


 マリアンナとして受けた授業の中には、教師が一方的に知識を並べるだけのものも多かった。疑問を口にしても、教本に書かれた文章をそのまま読み返すような者さえいた。

 フェルナンは軽い口調こそ崩さないが、生徒が理解できているかを確かめながら進めている。その点だけを見れば、ヴィンセントが複数の候補から彼を選んだ理由も分からなくはなかった。


 ただし、聖花が答えに迷うと、フェルナンは妙に楽しそうな笑みを浮かべた。

 


「どうしたのかな。ここまで順調だったから、てっきり全部分かるのかと思っていたよ」


「……少し考えているだけです」


「そう。それなら、ゆっくり考えるといい。間違えても罰は与えないから安心して」


「罰がある可能性もあったのですか?」


「冗談だよ。今のところはね」


 今のところ、という余計な一言が気になったが、聖花は深く考えないことにした。


 フェルナンは時折こうした冗談を挟むものの、授業自体は真面目に進めている。聖花が何かを尋ねれば、話を逸らすことなく答え、必要であれば関連する本まで棚から取り出して見せてくれた。


 やがて歴史の確認を終えると、次は貴族の礼儀作法へ話題が移った。

 聖花にとっては、こちらの方が注意を必要とする。マリアンナとして生活していた身体の記憶が残っているのか、礼や座り方、食器の扱いといった動作は意識せずとも自然にできる。

 それをそのまま見せれば、ほとんど教育を受けていない少女としては不自然だった。


 聖花はわざと少しだけ迷い、完璧になりすぎないよう動いた。

 しかし、普段ならば意識せず行える動作を崩すことは、思った以上に難しかった。礼を浅くしようとすれば、今度は不自然に姿勢が乱れる。椅子の座り方を少し間違えようとしても、身体が反射的に正しい位置へ戻ろうとする。


 フェルナンは、その様子を何も言わずに眺めていた。


 聖花が一通りの動作を終えると、彼は頬杖をつき、どこか面白そうに微笑む。

 


「初めてにしては、随分と形になっているね」


 心臓が僅かに跳ねた。


 聖花は動揺を悟られないよう、衣服の裾を整えながら答える。

 


「以前、少しだけ教わったことがありますので」


「誰に?」


 即座に返された問いに、聖花の指が止まりそうになる。


 フェルナンの声は軽いままだった。ただの世間話として尋ねたのか、それとも聖花の出自を探っているのかは分からない。

 


「礼儀作法に詳しい方から、簡単なものだけ教えていただきました」


「へえ。随分と優秀な方がいたんだね」


「そうかもしれません」


 聖花は曖昧に笑い、それ以上の説明を避けた。


 フェルナンも追及はしなかった。

 代わりに立ち上がり、手本を見せるように一度礼を行うと、聖花の動作と僅かに異なっていた部分だけを指摘する。


 疑われたのかどうか分からないまま、授業は進んでいった。その後は計算や一般常識、王都で暮らすうえで必要となる貴族間の呼称などについて確認された。


 フェルナンは、聖花が予想以上に答えられることを特に不審がる様子もなく、むしろ授業を進めやすいと喜んでいるように見えた。


 警戒を続けていた聖花も、時間が経つにつれて少しずつ肩の力を抜いていった。少なくとも今のところ、核心に触れるような発言は一度もない。

 最初に顔を合わせた時、フェルナンが動きを止めたのも、以前牢で見た少女と似ていることへ驚いただけなのかもしれないと聖花は自身に言い聞かせた。同一人物だと確信しているのであれば、もっと露骨に探りを入れてきても不思議ではないからだ。


 もしかすると、自分が過敏になっているだけではないか。そう思い始めた頃、フェルナンは授業を一度区切り、机の上へ数枚の紙を並べた。紙には、これまで習った内容を確認するための問題が書かれている。

 


「では最後に、簡単な確認をしようか」


「確認、ですか?」


「いわゆる抜き打ち試験だね。今日の授業内容だけでなく、基礎学力も含めて問題を用意してある」


 授業を少し早く切り上げるのかと思っていた聖花は、目の前に置かれた紙を見て僅かに肩を落とした。彼は普段と変わらない笑みを浮かべている。



(まさか初日から試験までやるなんて)


 問題数は多くない。それでも、何も準備していない状態で試験と言われれば不安になる。

 


「点数が低かった場合は、何かあるのでしょうか」


 先ほどの冗談を思い出し、聖花が警戒しながら尋ねる。


 フェルナンは楽しそうに目を細めた。

 


「そうだね。あまりに低かったら、何か罰を考えようかな」


「罰があるのですか?」


「だから、低くなければいいんだよ」


「そういう問題ではないと思います」


「安心して。痛いことはしないから」


 何をするつもりなのか、かえって聞きたくなった。しかしフェルナンの言葉へ反応し続けていても、試験はなくならないだろう。

 聖花は小さく息を吐き、筆記具を手に取った。

 


「分かりました。受けます」


「素直でよろしい。制限時間は、この砂が落ち切るまでだ」


 フェルナンが小さな砂時計を机の中央へ置き、上下を返した。

 細かな砂が一定の速さで落ち始め、聖花は試験用紙へ視線を移す。

 最初は簡単な読み書きの問題で、続いて計算、歴史、地理、礼儀作法に関する設問が並んでいる。授業で扱っていない内容も幾つか含まれていた。

 どうやら本当に、聖花が元からどの程度の知識を持っているか確認するつもりらしい。


 聖花は問題を解き始めた。


 難しい内容ではない。マリアンナとして入学試験へ備えて勉強していたため、答えの大半はすぐに分かった。

 しかし、全て正解すれば不自然に思われるのではないかという懸念がある。


 意図的に幾つか間違えるべきだ。

 そう考えたものの、教師は今後も聖花を教えることになる。最初に実力を低く見せすぎれば、知っている内容を延々と学ばされることになりかねない。それに、わざと間違えることへ意識を向ければ、かえって妙な答え方になってしまう可能性もある。


 聖花は迷った末、自分が知っている範囲の一部については正直に答え、適当なところで空白を入れることにした。空白が多すぎてもやる気がないと思われるだけだし、逆にほぼすべて間違いもなく埋めているのも不審だからだ。


 試験中、フェルナンは何も話さなかった。向かい側へ座り、時折聖花の手元へ視線を向けている。

 監視されているようで落ち着かなかったが、聖花はできるだけ気にしないよう問題へ集中した。


 丁度良い答案を作り終えた頃、砂時計にはまだ僅かに砂が残っていた。聖花は一度全体を見直し、明らかな書き間違いだけを修正してから筆記具を置いた。空白はそのままだ。


 


「終わりました。少しも分からないところだけ空けてあります」


「ふぅん。随分と早かったね」


 フェルナンは試験用紙を受け取ると、すぐに採点を始めた。その速度は早く、何度も教本を開いて答えを確かめる必要さえないらしい。

 聖花は向かい側から手元を見つめながら、落ち着かない気持ちで結果を待った。どの程度できていれば平民出身の少女として不自然ではないのかが分からないからだ。


 フェルナンの筆は、ほとんど止まることなく動いていった。

 やがて最後の問題まで確認を終えると、彼は用紙を持ち上げ、満足そうに頷いた。



「うん、いいね。抜き打ちでここまでできるなら、十分見込みがある」


 その声には、意外にも素直な喜びが含まれていた。自分の生徒がよい結果を出したことを、本当に喜んでいるようにさえ見える。

 聖花は緊張していた身体から力を抜き、無意識に安堵の息を吐いた。

 


(よかった。罰とか言われなくて済んだ)


 フェルナンは採点済みの紙を聖花へ返した。

 結果は、空けたところ以外ほぼ正解だった。



「ある程度予習と復習が必要だけれど、それ以外は問題ない。貴女が聞いていたよりもずっと優秀で安心したよ」


「聞いていたよりも、ですか?」


「ヴィンセント伯爵からは、十分な教育を受けていない少女だとだけ聞いていたからね。読み書きから始める覚悟をしていたんだ」


 フェルナンは苦笑しながら答えた。

 


「それが、実際には学園の入学試験にも対応できそうな程度の学力がある。教える側としては助かるよ」


「以前から、できる範囲で勉強していましたので」


「なるほど。相当努力したようだね」


 疑うような口調ではなかった。

 聖花は、もう少し詳しく尋ねられると思っていたため、僅かに拍子抜けした。


 フェルナンは試験用紙を机の端へ置き、今日使った教材を閉じていく。

 授業が終わるらしい。窓から差し込む光も授業開始時より傾き、部屋の中へ長い影を作っている。


 聖花は改めて、今日一日の授業を振り返った。


 フェルナンは、思っていた以上に優秀な教師だった。

 軽薄そうな言動や、女性を口説くような笑みには慣れないが、教え方だけを見れば文句のつけようがない。生徒の理解度を見ながら説明を変え、分からないところは根気強く教えてくれた。

 捕縛された日に見せた穏やかな態度も、完全な演技だったわけではないのかもしれない。


 初対面の時に抱いた不信感は、いつの間にか少しだけ薄れていた。もちろん、フェルナンがなぜあの場所にいたのかという疑問は残っている。

 それでも、聖花の正体に気づいているような素振りは、最初の一瞬を除いて見られなかった。


 もしかすると、単にどこかで会った気がすると考えただけで、結局は別人だと判断したのかもしれない。

 


(考えすぎだったのかな)


 聖花は胸の内で、ようやく小さな安堵を覚えた。

 


(少なくとも、今日の授業中は何もなかったし。これからも先生として普通に接してくれるなら、そこまで警戒しなくていいのかも)


 フェルナンは持参した教材を鞄へ戻し、椅子から立ち上がった。

 


「では、今日はここまでにしよう。これから伯爵殿へ簡単な報告と挨拶をして、僕は帰らせてもらうよ」


 聖花も立ち上がり、教師を見送るために姿勢を正した。

 


「本日はありがとうございました」


「どういたしまして。次は二日後に来る予定だから、今日の内容を忘れないよう復習しておくこと」


「分かりました」


 フェルナンは満足そうに微笑む。

 聖花も礼儀として笑みを返した。授業が無事に終わったことへ安堵し、先ほどまで抱いていた緊張は、ほとんど消えかけていた。


 その時、フェルナンが何気ない調子で言葉を続けた。

 


「それでは二日後に。また会おうね、カナデ嬢」


「はい。分かりました」


 反射的に返事をした後、聖花の動きが止まった。妙な違和感が胸へ引っ掛かる。何か見落としているような、そんな気持ち。


 フェルナンはすでに鞄を持ち上げ、扉へ向かおうとしていた。そんな中、聖花は今の言葉を頭の中でもう一度繰り返した。

 二日後。復習。また会おう。…そして最後に呼ばれた名前。

 


(……え?)


 全身から血の気が引いていく。

 


(今、何て呼んだ?)


 聞き間違いではない。フェルナンは確かに、セイカではなくカナデと呼んだ。


 名前を間違えただけという可能性は低かった。

 ヴィンセントからは、養女の名前がセイカだと知らされているはずである。授業の初めにも、聖花自身がセイカ・ゴルダールと名乗っている。

 それにもかかわらず、フェルナンは以前の名で呼んだ。


 つまり彼は、最初から知っていたのだ。目の前の少女が王宮で捕らえられたカナデと同じ人物であることを。

 


(気づいてた)


 聖花は呆然とフェルナンの背中を見つめた。

 


(最初から、全部分かってたんだ)


 授業中に不自然な問い掛けをしてこなかったのは、疑っていなかったからではなく、確かめる必要さえなかったのかもしれない。

 最初に顔を合わせた瞬間からフェルナンは聖花の正体を見抜いていて、そのうえで何も知らないふりをし、聖花が安心するまで普通の教師を演じ続けたのだ。


 和らぎかけていた空気は一瞬で消え去った。戻ってきたのは、息苦しいほどの緊張と、何をされるか分からない恐怖だった。


 聖花の正体が露見すれば、ゴルダール伯爵家だけでなく、彼女を脱獄させたアーノルドや伯爵家の使用人にも危険が及ぶ可能性がある。


 フェルナンが王宮へ報告すれば、聖花は再び罪人として捕らえられるだろう。

 今度は警備も厳重になり、同じ方法で逃げ出すことなどできないし、ヴィンセントが聖花を庇うかどうかも分からない。闇属性を手元へ置くために王家へ逆らう可能性はあるが、正体が露見した原因が聖花にあると考えれば、簡単に切り捨てるかもしれなかった。


 聖花は恐る恐る、フェルナンの横顔を見た。瞬間、彼が振り返る。視線が正面からぶつかり、聖花は反射的に目を逸らした。


 フェルナンの顔には、普段どおりの柔らかな笑みが浮かんでいる。どうしたの、とでも尋ねるような表情だった。

 しかし今の聖花には、その笑みがひどく恐ろしく感じられた。正体へ気づいていることを、わざと最後まで隠していた。そして帰り際になって、聖花だけに分かる形で明かした。


 何も聞かなかったふりをして、フェルナンをそのまま帰すべきなのか聖花は決められなかった。何か言わなければと思うのに、言葉が喉へ引っ掛かり、声にならない。


 フェルナンが何を望んでいるのか分からない以上、下手に動けば、かえって状況を悪化させる可能性がある。聖花が混乱したまま動けずにいる間にも、フェルナンは平然と足を進めていた。

 彼は聖花へ正体を問いただすことも、王宮へ報告すると告げることもなかった。何事もなかったように椅子を机へ戻し、鞄を片手へ持って扉へ向かう。

 このまま部屋を出ていくつもりなのか。それなら、先ほど名前を口にした意味は何だったのか。


 フェルナンは聖花の隣を通り過ぎようとしたところで、不意に足を止めた。彼は廊下の小窓から死角になる位置へ身体をずらすと、聖花の方へ僅かに屈む。


 距離が急に縮まり、聖花は身を引こうとした。しかし背後には机があって、それ以上下がることができなかった。


 フェルナンの顔が耳元へ近づく。

 甘く、落ち着いた声が、他の誰にも聞こえない大きさで囁いた。

 


「誰にも言わないでいてあげる」


 聖花の身体が強張る。


 フェルナンは言葉を切り、聖花の反応を確かめるように僅かに笑った。

 


「だから、無事に入学できたら僕のところへおいで」


 それは一見頼むような言い方であったが、拒否権はないように聞こえた。


 来なければ正体を明かす。

 口にはしていないものの、その意味は十分に伝わってくる。


 背筋へ冷たいものが走った。

 


(これ、お願いじゃない)


 聖花は息を詰めた。

 


(脅されてる)


 フェルナンは身体を起こすと、人差し指を自分の唇へ当てた。秘密だと示す仕草である。


 その笑みは、授業中に見せた教師としてのものとは違っていた。

 誰にも知られていない秘密を共有することそのものを楽しんでいるような、妖しく底の見えない笑みだった。


 聖花は彼の目を見つめながら、何とか声を出そうとした。

 


「どうして……」


 辛うじて出たのは、それだけだった。


 なぜ黙っているのか。なぜ聖花を呼び出そうとするのか。何が目的なのか。聞きたいことはいくらでもあった。

 けれどフェルナンは答えない。


 僅かに首を傾げ、今はまだ教えないとでも言うように笑みを深めた。

 


「続きは、学園でね」


 それだけ告げると、今度こそ扉へ向かった。


 聖花は追い掛けることができなかった。


 ここで無理に引き止めれば、廊下の使用人に変に思われるかもしれない。フェルナンが気分を変え、王家に密告する可能性もあった。

 何より、聖花は自分がどのように動くべきか、まだ決められていなかった。


 フェルナンは扉を開き、普段と変わらない足取りで部屋から出ていった。

 閉じる直前、彼は一度だけ振り返った。口元には、やはり面白がるような薄い笑みが浮かんでいた。


 扉が閉じる。静まり返った学習室に、聖花だけが取り残された。

 先ほどまで授業をしていた机も、積み上げられた教材も、何一つ変わっていない。それなのに、部屋の空気だけが全く別のものへ変わってしまったように感じられた。


 聖花は暫く立ち尽くした後、力が抜けたように椅子へ腰を落とした。事情を知る者へ報告すべきだろうか。


 真っ先に思い浮かんだのは、アーノルドだった。

 聖花を逃がし、この家へ入れるための手配をした彼であれば、何らかの対策を考えられるかもしれない。


 けれど、フェルナンは今のところ誰にも言わないと告げている。

 それが信用できる言葉かどうかは分からないが、こちらから動くことで彼を刺激すれば、秘密を守る理由がなくなってしまうかもしれなかった。


 フェルナンは、今の聖花にとって危険因子だった。何を考えているのか分からず、穏やかな顔で相手を試し、目的も明かさない。

 その点では、アーノルドやギルガルドと似ている。



(どうすればいいんだろ)


 聖花は両手を強く握り締めた。



(本当に誰にも言わない? 私が学園で会いに行けば、それで終わるの?)


 フェルナンの言葉を信じる根拠はない。

 それでも、今すぐ別の行動を取ることにも大きな危険が伴う。


 答えを出せないまま考え込んでいると、学習室の扉がゆっくりと開いた。聖花は反射的に顔を上げる。


 そこに立っていたのは、朝から彼女を案内していた女性だった。

 女性は室内へ入らず、廊下に立ったまま聖花の様子を窺っている。フェルナンが出ていった後も聖花が戻ってこないため、様子を見に来たらしい。

 


「失礼いたします。なかなかお戻りにならないので、不躾ながらお声を掛けに参りました」


 聖花は、自分がどれほど長く考え込んでいたのか分からなかった。

 壁の時計へ目を向けると、授業が終わってから思っていた以上の時間が経っている。


 これ以上待たせるわけにはいかない。フェルナンの件は、一度保留にするしかなかった。

 


「ごめんなさい。少し考え事をしていました」


 女性は聖花の顔を注意深く見た後、僅かに頭を下げた。

 


「左様でございましたか。そうとも知らず、申し訳ございません。私がお邪魔をしてしまいましたでしょうか」


「いいえ、全くそんなことはありません。ちょうど戻ろうと思っていたところですので、頭を上げてください」


 聖花が慌てて否定すると、女性は静かに顔を上げた。


 しかし、いつもより眉間へ深い皺が寄っている。聖花がフェルナンと二人きりの部屋で長く残っていたため、別の意味で心配しているように見えた。


 女性は何かを考えるように聖花を見つめた後、納得したように小さく頷いた。



「フェルナン様は、その……少々、ご令嬢方との距離が近い方でございます」


 思い掛けない話を切り出され、聖花は目を瞬いた。



「距離が近い、ですか」


「はい。悪意があるわけではないのでしょうが、どなたに対しても親しげに接されますので、誤解を招くことが多いのです」


 女性は言葉を選びながら続けた。



「他にも家庭教師の候補はおりました。しかし、学園の教師としての実績と指導力では、フェルナン様が最も優れております。ご当主様も、その点を評価してお選びになりました」


 どうやら彼女は、聖花が部屋へ残っていた理由を、フェルナンの言動に戸惑っていたからだと考えているらしい。完全な見当違いではあるものの、耳元で囁かれたこと自体は事実である。

 


「入学までの間、多少ご不快な思いをされるかもしれませんが、どうかご辛抱くださいませ」


「…………」


 聖花は返事ができなかった。


 フェルナンについての説明は、確かに間違ってはいない。女性との距離が近く、言葉や仕草にも人を惑わせるようなところがあったからだ。


 しかし、聖花が悩んでいる原因は、そこではなかった。

 学園へ入学するまでの短い間だけ我慢すればよいという話でもなく、フェルナン本人から入学後に自分のところへ来るよう求められている。

 家庭教師としての関係が終わった後も、彼との関わりは続くのだ。


 そして彼は、聖花の正体を知っている。

 無事に入学できるかどうかだけでなく、アーノルドやゴルダール家に関わる者たちの安全さえ、フェルナンの判断へ委ねられていると言っても過言ではなかった。


 聖花はそれを説明することもできず、曖昧に頷くしかない。



「……分かりました」


 女性は、聖花がフェルナンの軽薄な態度へ辟易しているのだと受け取ったらしい。それ以上は何も尋ねず、部屋の外へ出るよう促した。


 聖花は椅子から立ち上がり、学習室を出た。


 廊下へ出ると、閉ざされた部屋の空気から解放されたはずなのに、不思議と身体の重さは消えなかった。


 これからフェルナンとは、学園入学まで何度も顔を合わせることになる。そのたびに正体を知られている事実を意識し、何を考えているのか探らなければならない。

 そして入学後には、彼の元へ行くという一方的な約束まで交わされてしまった。



(また厄介なことが増えた)


 聖花は廊下を歩きながら、誰にも聞こえないよう小さく息を吐いた。

 


(私はただ、元の生活に戻りたいだけなのに)


 カナデに奪われた身体を取り戻し、ヴェルディーレ家へ帰りたい。


 それだけのはずだった。


 けれど、何かを解決しようと動くたび、関わる人間と秘密は増えていく。アーノルド、ヴィンセント、それからフェルナン。誰もが何かを知り、何かを隠している。

 聖花だけが、肝心なことを何も知らないまま、その間へ立たされていた。


 無意識に、深い溜息が漏れる。


 隣を歩く女性は、やはりフェルナンのことで落ち込んでいると思っているのか、何も尋ねてこなかった。その勘違いが、今の聖花にはありがたかった。

 


「まだまだ先は長そう……」


 誰にも聞こえないほどの小さな声で呟く。


 フェルナンとの再会が偶然だったのか、それとも誰かが意図的に仕組んだものなのか、今はまだ分からない。ただ一つ確かなのは、彼の言葉を無視することはできないということだけだった。


 学園へ入学した後、聖花はフェルナンの元を訪れなければならない。


 それが約束と呼べるものなのか、それとも脅迫に過ぎないのか。

 答えが出るのは、まだ先のことだった。



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新作短編作品 百番目の死神
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