4.衝撃的な対面
書庫へ案内されてから、聖花は周囲のことを忘れるほど読書へ没頭していた。
部屋の四方を埋め尽くす書棚には、王国の歴史や貴族制度、各地の風土に関する書物だけでなく、魔術の基礎理論から過去の魔術師たちが残した研究記録まで、さまざまな本が収められていた。ヴェルディーレ家の書庫も決して小さくはなかったが、ゴルダール家に並べられた本は、それとはやや傾向が異なっている。
特に目立つのは、魔術に関係する書物の多さだった。
一般的な属性魔術の教本だけでなく、魔力と精神の関係、魔術発動時における感情の影響、属性が発現する仕組みについて記された専門書まで揃っている。題名を見ただけでは内容を想像できない古い研究書も多く、中には表紙へ触れることさえ躊躇するほど傷んだものもあった。
聖花が探していたのは、闇属性と、魂に作用する魔術についての記録だった。
自分とカナデの間に何が起きたのかを知るためには、まず魔術そのものへの理解を深めなければならない。身体が入れ替わったという現象が魔術によるものなのか、それとも別の力が関係しているのかさえ、今の聖花には判断できなかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。属性は肉体ではなく、魂へ刻まれている。
マリアンナの身体にいた頃も、今の身体へ移された後も、聖花の属性そのものは変わっていない。聖花が持つのは光属性であり、カナデが持つのは闇属性だ。
にもかかわらず、ヴィンセントたちは、目の前にいる聖花を闇属性の持ち主だと思い込んでいる。彼らが確認しているのはカナデの肉体に残った何らかの痕跡なのか、それとも闇属性を持つと聞かされただけで、実際には詳しく調べていないのか。
いずれにしても、その誤解が解ければ聖花の立場は一変する。
ヴィンセントが求めているのは、闇属性という稀少な力だった。聖花自身を娘として必要としているわけではない。
自分が光属性だと知られた時、彼がどのような反応を見せるかは想像したくもなかった。
だからこそ、聖花はヴィンセントたちの誤解を訂正せず、闇属性を使えるようになるまで時間が必要なのだと思わせている。
その猶予が残されているうちに、自分の身に起きたことを解き明かさなければならなかった。
しかし、書庫に並べられていた書物のうち、闇属性について具体的に記されたものは驚くほど少なかった。
多くの本では、闇属性は危険で忌避すべきものとして、僅かな説明だけで終わっている。実際の性質や使用方法について触れた記録はほとんどなく、古い時代に災厄をもたらした者が闇属性だったという、真偽の怪しい逸話ばかりが並んでいた。
それが事実に基づくものなのか、長い年月の中で恐怖だけが誇張されたのかも分からない。
魂に作用する魔術についても同じだった。
精神へ干渉する魔術や、記憶へ影響を与える術の存在は書かれているが、魂そのものを移し替えるような記述は見つからない。それらしい言葉が出てきたと思えば、死後の魂や宗教的な思想について書かれた部分であり、聖花が求める情報とは違っていた。
それでも聖花は諦めず、気になる本を机の上へ積み重ね、一冊ずつ頁をめくっていった。
何も見つからない時間が続いても、不思議と退屈はしなかった。地下牢では、調べたくても調べる手段さえなかった。今は少なくとも、自分の意思で知識を求めることができる。
その違いだけでも、聖花にとっては大きかった。
気づけば机の上には、読み終えた本と途中まで目を通した本が幾つも積み上がっていた。最初は明るかった窓辺の光も、いつの間にか角度を変えており、床へ伸びる影も長くなっている。
それでも聖花は時間の経過に気づかず、膝へ広げた本の一節を何度も読み返していた。
その時だった。
「そろそろお時間でございます」
静かな書庫へ、落ち着いた女性の声が響いた。
突然すぐ近くから話し掛けられた聖花は、肩を小さく跳ねさせて顔を上げた。
いつからそこにいたのだろう。聖花が座っている椅子の少し後ろに、朝の身支度を整えてくれた女性が立っていた。相変わらず隙のない姿勢で、こちらが気づくまで声を掛けずに待っていたらしい。
書庫の扉が開いた音も、足音も、まるで耳に入ってこなかった。女性が気配を消すことに長けているのか、それとも聖花が読書へ集中しすぎていただけなのか。どちらなのかは分からなかったが、少なくとも声を掛けられるまで全く気づかなかったことは確かだった。
(いつの間に後ろにいたの……?)
聖花は驚きを誤魔化すように本を閉じ、それから壁へ掛けられた時計へ目を向けた。針は、すでに正午を大きく過ぎた時刻を示している。
書庫へ来た時には、午後までまだ十分な時間があると思っていた。それなのに、ヴィンセントから告げられた授業の時間は、もうすぐそこまで迫っている。
(もうこんな時間なんだ。全然気づかなかった)
地下牢にいた頃は、時間が進むのが信じられないほど遅く感じられた。一日が終わるまで何をすればよいのか分からず、僅かな物音に耳を澄ませながら、ただ壁や天井を眺めていた。
それに比べれば、何かへ集中しているうちに時間が過ぎていくことさえ、今の聖花には少し心地良く感じられたのだ。
女性は机の上へ積み重ねられた本へ目を向けた後、書庫内を軽く見回した。
「ところで、こちらへはどなたに案内されましたか。ご案内を担当した者の姿が見当たりませんが」
問い掛けられ、聖花は先ほどの侍女を思い出した。
書庫まで案内した侍女は、入口を示しただけで逃げるように立ち去ってしまった。名前を尋ねる間もなく、振り返ることさえしなかったため、聖花は彼女が何者なのかを知らない。
「申し訳ありません。名前を聞くのを忘れてしまいました。ここへ着いた途端、何も言わずに行ってしまったので」
女性の目が僅かに細くなった。
「……左様でございますか」
声の調子は変わっていなかったが、周囲の空気が少しだけ冷えたように感じられた。
聖花を案内したメイドが職務を最後まで果たさず、そのまま立ち去ったことを問題視しているのだろう。名前が分からなくとも、誰が聖花の呼び鈴へ応じたかを調べれば、すぐに判明するはずだった。
聖花は今朝のメイドの態度を、どこまで話すべきか迷った。
侮るような言葉を向けられたことは事実であり、この家で今後も軽く扱われないためには、何らかの形で報告した方がよい。しかし、目の前の女性へ全て話せば、ヴィンセントへ伝わる前に厳しい処分が下される可能性もある。
無礼へ対抗するため、ヴィンセントへ報告すると告げたものの、侍女へ必要以上の罰を与えたいわけではなかった。
自分を守るために言い返すことと、相手を追い詰めることは違う。
聖花は少し考えた末、今は余計なことを付け加えないことにした。ヴィンセントへ話すとしても、起きたことを整理し、自分の口から必要な範囲だけを伝えればよい。
「授業のお時間が迫っているのでしょう。そろそろ向かいませんか」
聖花が話題を切り替えると、女性は一瞬だけこちらの顔を見つめた。
何かを隠していると気づいたのかもしれない。それでも彼女は追及せず、先ほどまでの険しい空気を消すと、いつもの無表情へ戻った。
「畏まりました。では、ご案内いたします」
聖花は椅子から立ち上がり、机へ積み上げた本を元の場所へ戻し始めた。
読んでいたのは、いずれも魔術に関係する書物である。闇属性について直接的な手掛かりを得ることはできなかったが、属性が魂へ刻まれるという前提を改めて確認できただけでも意味はあった。
だから、カナデの身体へ入っていても、聖花の属性はおそらく光のままである。逆に、マリアンナの身体を奪ったカナデも闇属性のままであろう。
最後の一冊を棚へ戻しながら、聖花は考えを巡らせる。それを確かめるためには、自分で魔術を使ってみるしかない。
だが、自分が光属性の魔術を発動させれば、ヴィンセントに真実が知られる危険がある。少なくとも、彼の監視が届く場所で試すわけにはいかなかった。あるいは魔術を披露して公衆の面前で訴える手も考えられたが、入れ替えの魔術が知れ渡っていない以上、信用してくれる人がいない以上、怪しい手を使ったと疑われるに違いない。
問題は次々に増えていくばかりだった。
聖花は考えを一旦打ち切り、女性の後について書庫を出た。
朝とは異なり、廊下を行き交う使用人たちの動きには少し余裕が生まれていた。忙しさの山を越えたのか、聖花とすれ違う者の中には、足を止めて礼をする者もいる。書庫へ向かう時には聖花を見ても挨拶をしなかった者たちまで、今はにこやかな笑みを浮かべていた。
隣を歩く女性の存在が影響しているのだろうか。
彼女は単なるメイドではなく、屋敷の使用人を取りまとめる立場にいるように見える。彼女の前で新しい養女へ無礼な態度を取れば、後から咎められると知っているのかもしれない。
しかし、朝に浴室へ向かった時も、この女性は聖花の傍にいた。その際には、多くの使用人が忙しそうに通り過ぎ、挨拶をする余裕さえなかった。
だとすれば、今朝の態度に悪意があったと決めつけるのも早い。
聖花は侍女との一件があったせいで、周囲の反応へ過敏になっている自分に気づいた。
(全員が私を嫌ってるわけじゃないよね。忙しくて気づかなかった人まで疑うのは違うか)
今後この屋敷で暮らす以上、最初から全ての使用人を敵だと考えるべきではない。警戒することは必要だが、相手を知る前から悪意を決めつければ、自分の方が関係を壊してしまう。
聖花は挨拶をしてきた使用人へ、一人ずつ軽く会釈を返しながら廊下を進んだ。
暫く歩くと、少し先に珍しい扉が見えてきた。扉の上部には小さな菱形の窓が嵌め込まれていて、居室の中を廊下から覗けるような造りとなっている。
貴族の屋敷ではあまり見掛けないものだった。
尋ねてみると窓には片側からしか内部を見られない特殊な硝子が使われているらしく、廊下から室内の様子を確認できる一方で、中からこちらの姿を見ることはできないらしい。
女性はその扉の前で足を止め、片手を添えるようにして示した。
「こちらが、今後お嬢様にお使いいただく学習室でございます」
聖花は小窓から室内をちらりと覗いた。
まだ教師は到着していないらしく、部屋の中に人影はない。
広さは想像していたほどではなかったが、四方の壁は隙間なく書棚で覆われていた。書庫ほどの量ではないものの、授業へ必要な教材や辞書が一通り揃えられているらしい。
部屋の中央には、四人ほどが向かい合って座れる大きさの机が一つ置かれている。その上には筆記具と真新しい紙が用意され、すぐに授業を始められる状態となっていた。
扉へ取り付けられた窓は、授業中の様子を外から確認するためのものなのだろう。
教師と生徒だけにしたとしても、貴族令嬢と異性が密室で長時間過ごすことになる。何か問題が起きないよう、使用人が必要に応じて確認できる仕組みになっているようだった。
ヴィンセントが聖花を心配して用意したというより、教師と養女の双方を監視する目的の方が強いのかもしれない。
「先生は、まだいらしていないのですね」
「先ほど屋敷へ到着したとの連絡がございました。ご当主様へ挨拶を済ませた後、こちらへ来られる予定でございます」
廊下で立ったまま待っていても仕方がないと、聖花は女性へ断ってから先に学習室へ入ることにした。
扉を開けると、紙と古い書物が混じった独特の匂いが鼻へ届く。壁を埋め尽くす本が音を吸収しているのか、扉を閉めた途端、廊下の足音や使用人たちの声がほとんど聞こえなくなった。
先ほどまで人の行き交う場所にいたはずなのに、急に世界から切り離されたような静けさが訪れる。
聖花は入口に近い席へ腰掛けた。
椅子を引いた時の音が想像以上に大きく響き、反射的に身体を小さくする。紙へ触れる僅かな音さえ耳に届き、無意味に動くことを躊躇してしまうほどだった。
教師が来るまで、どれほど掛かるのだろう。
机の上に置かれた紙を眺めているだけでは落ち着かず、聖花は周囲の書棚へ視線を巡らせた。
授業を始める前に、どの程度の知識を持っているか尋ねられる可能性がある。
ヴィンセントや教師は、聖花を十分な教育を受けていない少女だと思っているはずだ。実際にはマリアンナとして学園の入学試験へ向けた勉強をしていたため、一般的な貴族令嬢くらいは知識があることだろう。
何も知らないふりをし続ければ、かえって不自然になることもある。
読み書きや簡単な計算程度はできると見せながら、貴族としての教育だけが不足していると思わせるのが最も自然だろう。
(どのくらいできるふりをすればいいんだろ)
聖花は机の上で指を組み、考え込んだ。
(全然分からないふりをしたら、すぐにばれそう。でも、何でも知ってたら、どこで習ったのか聞かれるよね)
今後、教師と長く関わるのであれば、最初の印象は重要である。
一度ついた嘘を延々と重ねることになれば、どこかで矛盾が生じる。できるだけ嘘は少なくし、出自に関わる部分だけを曖昧にした方がよい。
聖花が考えていると、学習室の扉が僅かに開いた。
教師が来たのかと思い姿勢を正したが、顔を覗かせたのは屋敷の使用人だった。
「お嬢様、先生が間もなくいらっしゃいます」
「分かりました。ありがとうございます」
使用人はそれだけ告げ、すぐに扉を閉じた。
再び静寂が戻ってくる。
少なくとも、延々と一人で待たされることはなさそうだった。聖花は少しだけ肩の力を抜き、教師がどのような人物なのかを想像した。
ヴィンセントは、手頃な教師を呼んだと話していた。
その言い方からすると、年老いた家庭教師か、学園で教えている生真面目な人物が来るのだろう。
聖花が入学する予定の学園に詳しい教師であれば、授業の内容だけでなく、学園での生活についても聞くことができるかもしれない。
カナデと再び接触する可能性が最も高いのも、学園である。教師から校内の仕組みや教師陣について情報を得られれば、今後の行動を考える助けになるだろう。
そう考えると、最初は気が進まなかった授業も、決して無駄ではないように思えた。
聖花は教師が入ってくる瞬間を見逃さないよう、扉へ視線を向けた。
やがて廊下から、僅かな足音が近づいてくる。規則正しいものの、貴族の屋敷で働く使用人ほど急いではおらず、どこか余裕を感じさせる歩き方だった。
足音は扉の前で止まった。軽いノックの後、取っ手がゆっくりと動く。
扉の向こうから現れた男を目にした瞬間、聖花は息を呑んだ。
年齢は若く、教師という言葉から想像していた人物とは大きく異なる。柔らかく流れる髪と、整った顔立ち。細身の身体には上品な装飾の施された衣服をまとい、ただ部屋へ入ってくるだけでも妙に人目を引く。
けれど、聖花が驚いたのは、その容姿が教師らしくなかったからではない。
その顔を、以前に見たことがあった。
しかも、決して忘れられる状況ではない。
男は聖花の反応に気づいていないかのように、慣れた足取りで部屋へ入ると、扉を静かに閉めた。それから聖花の前まで進み、優雅な動きで片膝をつく。
教師と生徒の挨拶というより、社交の場で令嬢へ礼をする貴公子のような振る舞いだった。
「初めまして、麗しきご令嬢。僕はフェルナン・パース。本日より、貴女の教育を任されることになった教師だ。どうぞよろし――」
フェルナンは軽く頭を下げた後、聖花の手を取ろうと片手を伸ばし、その途中で動きが止まった。
顔を上げ、聖花の目を正面から見た瞬間、彼の瞳が僅かに見開かれる。言葉も途中で途切れていた。
ほんの一瞬だったが、フェルナンの表情から、それまで浮かべていた余裕のある笑みが消えた。
聖花もまた、椅子へ座ったまま動くことができなかった。
視線はフェルナンの顔へ釘づけとなり、呼吸の仕方さえ忘れそうになる。
(この人……)
間違えるはずがない。
(フェルナンだ)
聖花がカナデの身体で捕らえられた時、彼は衛兵としてその場にいた。
他の者たちが聖花を闇属性の危険人物として扱う中、比較的穏やかに接してくれた男である。短い時間しか関わっていないとはいえ、強い恐怖と混乱の中で見た人物だったため、顔も声もはっきりと覚えていた。
名前も同じで、声の調子も顔立ちも変わっていない。別人である可能性はないに等しかった。
ただし、あの時とは服装も雰囲気も大きく異なっている。
捕縛の場にいたフェルナンは、動きやすい軽装の鎧を身に着け、衛兵か傭兵のように振る舞っていた。穏やかな口調ではあったものの、目立たない服装と控えめな態度で、周囲へ溶け込んでいた。
一方で今目の前にいる彼は、貴族の令嬢たちから注目を集めることを自覚しているかのような、華やかで妖しい雰囲気をまとっている。
本当に同一人物なのかと疑いたくなるほどの違いだった。
しかし、フェルナンの方も聖花を見て動きを止めた。彼にも何か思い当たるところがあるようだった。
捕縛された時と比べ、聖花の姿には幾つかの違いがあった。
牢で傷んでいた髪は整えられ、以前のカナデの顔つきに見えないよう化粧を施されている。服装も罪人の粗末なものではなく、伯爵令嬢として用意された衣服へ変わっていた。
それでも、顔そのものが変わったわけではない。フェルナンが捕縛時の少女を注意深く見ていたなら、気づかれる可能性は十分にあった。
ヴィンセントは、学園から教師を呼ぶことに危険があるとは考えていなかったのだろう。
入学試験の会場では、実際の教師のほとんどが表へ出ず、上級生や臨時の試験官が対応していた。そのため、聖花の顔を知る学園関係者が直接家庭教師として現れる可能性を、誰も想定していなかった。
聖花自身も同じだった。まさか捕縛に関わった人物が、教師としてゴルダール家へ現れるとは思っていなかった。
沈黙が長引いていく。
フェルナンの手は、聖花へ届く直前で止まったままである。
このまま互いに見つめ合い続ければ、廊下から様子を見ている者にも不審に思われる。何より、こちらから何も言わなければ、聖花がフェルナンを知っていることを認めるようなものだった。
聖花は混乱する頭を必死に働かせた。
今の自分は、ゴルダール伯爵家へ新たに迎えられた養女である。罪人として捕らえられたカナデではなく、フェルナンとも今日初めて会った。
そう振る舞うしかなかった。
(落ち着け、私。知らない人みたいに話せばいい)
鼓動は早くなっていたが、聖花は膝の上で指先を握り、どうにか表情を整えた。
(気づかれてても、こっちから認めたら終わる。まずは初対面のふりをしないと)
聖花はフェルナンより先に口を開いた。
「初めまして。私はセイカ・ゴルダールと申します。これから、どうぞよろしくお願いいたします、フェルナン先生」
最初の言葉だけ、僅かに早口になった。声が震えることは避けられたと思う。
聖花はあくまで、初めて会う教師へ挨拶をする令嬢として、穏やかな笑みを浮かべた。
フェルナンは返事をせず、聖花の顔をじっと見つめた。
赤の他人を観察する目ではない。記憶の中にある人物と、目の前の少女を重ね合わせ、同一人物であるかを確かめようとしているように見えた。
聖花は目を逸らさなかった。
ここで視線を避ければ、動揺を悟られる。しかし見つめ返しているだけでも、胸の内を見透かされそうで落ち着かなかった。
やがてフェルナンは、止めていた息を静かに吐いた。
口元へ、ゆっくりと笑みが戻る。最初に浮かべていた、令嬢へ向ける華やかな笑みとは少し違っていて、何か面白いものを見つけたような意味を含んだ笑みだった。
「……こちらこそ、よろしくね。セイカ嬢」
名前を口にするまでの、僅かな間。その沈黙にどのような意味があったのか、聖花には判断できなかった。
フェルナンは聖花へ伸ばしていた手を静かに引き戻し、結局触れることなく立ち上がった。
牢獄で会った少女だと確信したのか、似ているだけだと思ったのか。あるいはまだ疑っている段階なのか、聖花には尋ねることができない。
正体へ気づいたのかと聞けば、それだけで聖花自身が認めることになる。気づいていなかった場合でも、余計な疑念を与えてしまうだろう。
フェルナンは何事もなかったように机の向かい側へ回り、椅子へ腰を下ろした。先ほどの沈黙について説明する気はないらしい。
持参していた鞄を机の上へ置き、中から数冊の教材と紙の束を取り出していく。その動作には迷いがなく、本当に教師として授業へ来たことだけは間違いなさそうだった。
けれど、聖花はもう、彼を単なる教師として見ることができなかった。
衛兵か傭兵のような姿で聖花の前に現れ、今は学園の教師を名乗っている。
どちらが本当の姿なのか、なぜ彼があの場所にいたのか、ヴィンセントやアーノルドとの関係はあるのか。考え始めれば、疑問はいくらでも浮かんでくる。
フェルナンは教材を並べ終えると、両手を机の上で組み、聖花へ妖しげな笑みを向けた。
女性たちへ見せれば、多くの者が心を奪われるのだろう。けれど今の聖花には、相手の考えを隠すための仮面にしか見えなかった。
「それでは、早速始めようか」
あまりにも何事もなかったかのような言い方だったため、聖花は一瞬、何を始めるのか分からなくなった。
もちろん授業のことだ。
しかしフェルナンの声と表情には妙な含みがあり、別の意味を持っているようにも聞こえる。
「本日は、まず貴女がどの程度の知識を持っているのか確認させてもらうよ。それが分からなければ、何を教えるべきか決められないからね」
教師としては至極まっとうな説明だった。
聖花は小さく頷いたものの、警戒を解くことはできなかった。フェルナンが聖花の正体へ気づいているなら、授業の中で何らかの罠を仕掛けてくる可能性がある。
答え方次第で、正体を確かめられるような質問を投げ掛けてくるかもしれない。
反対に、今の時点では何も気づいておらず、聖花の過剰な警戒が不自然に映る可能性もあり、どちらにしても気を抜くことはできなかった。
聖花は机の下で、誰にも見えないように手を握り締めた。
(普通に授業して、普通に帰ってくれればいいんだけど)
フェルナンは聖花の緊張を知ってか知らずか、微笑んだまま最初の教材を開いた。
その笑みには教師としての親しみやすさがある一方で、相手の反応を楽しんでいるような不穏さも残っている。
聖花は彼の一挙一動から目を離すことができなかった。新しい家での生活が始まったばかりだというのに、脅威になり得る人物がまた一人増えてしまった。
ヴィンセントが闇属性へ執着していること。アーノルドが何を目的として聖花を助けたのか分からないこと。そして今、正体を知っているかもしれないフェルナンが、教師として目の前に座っていること。
聖花はただ、奪われたものを取り戻したいだけだった。それなのに、前へ進もうとするたび、新たな秘密と疑念が道を塞いでいく。
それでも、この場から逃げ出すわけにはいかない。フェルナンが何者で、どこまで気づいているのかを見極めるためにも、今は彼の授業を受けるしかなかった。
聖花は表面上だけは落ち着きを取り戻し、教師が開いた教材へ視線を落とした。胸の奥に生まれた嫌な予感は、どうしても消えてくれなかったけれども。
そして、その予感が決して考えすぎではなかったことを、聖花は授業が終わる頃になって思い知らされることになる。
※フェルナンが傭兵に扮していた理由は
学園入学後に明らかになります
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
『面白い』『今後の展開も読みたい』などと
少しでも思っていただけましたら、
ページ下方の【ブックマーク】【★★★★★評価】を
押して頂けましたら、創作の励みになります。
感想(ご意見)・レビュー等も頂けたら、
とても嬉しいです(*˘︶˘*).。*
モチベーションアップにも繋がりますので
どうぞよろしくお願いいたします。




