3.些細な反撃
ヴィンセントとの話を終えて部屋へ戻る頃には、朝食の準備がすでに整えられていた。
窓際に置かれた丸机の上には、白い布が皺一つなく掛けられ、その中央へ銀の食器が並べられている。焼きたてらしい小さなパン、淡い湯気を立てるスープ、柔らかく煮込まれた肉と色鮮やかな野菜。果物を薄く切り分けた皿まで添えられており、どれも伯爵家で供されるものに相応しい料理だった。
料理の香りを感じた途端、空腹を思い出した身体が反応する。
地下牢へ閉じ込められていた間、聖花へ与えられた食事は最低限のものだった。味の薄いスープや硬いパンが多く、身体を維持するために必要な量さえ足りていたのか分からない。
そのため目の前の食事は、見ただけでも十分すぎるほど贅沢に感じられた。
聖花は椅子へ腰を下ろすと、まずスープを口へ運んだ。
温かい液体が喉を通り、空腹だった胃へゆっくりと落ちていく。塩気も香草の香りも程よく、丁寧に時間を掛けて作られたことが伝わる味だった。
美味しくないはずはない。それにもかかわらず、聖花の心はほとんど動かなかった。
口へ運べば確かに味はするのに、どこか遠く感じられる。牢で食べていた冷えた食事と同じように、ただ空腹を満たすためだけのものに思えた。
料理そのものが冷めているわけではない。足りないのは温度ではなく、そこにいる人間だった。
聖花はスプーンを持ったまま、広い部屋を見回した。
当然ながら、食卓についているのは自分一人だけである。向かい側の椅子は使われることなく、窓から差し込む朝の光に照らされていた。
食事が運ばれてきた時、聖花は案内をしていた女性へ、家族はどこで朝食を取るのかと尋ねていた。
養女として迎え入れられる以上、少なくとも表向きにはヴィンセントと同じ食卓につくものだと思っていたのである。
それに、ヴィンセントがどれほど危うい人物であっても、今後の関係を完全に断つわけにはいかない。食事の場で顔を合わせる機会があれば、彼が何を考え、どのような人物と関わっているのかを少しずつ探ることもできる。
そう考えての質問だった。
だが女性から返ってきた答えは、聖花の予想とは違っていた。
ヴィンセントには妻も、実の子供もいない。
彼は普段、使用人と食卓を囲むこともなく、執務室で一人きりのまま食事を済ませているらしい。今後、誰かと結婚する予定もなく、養女となる聖花と共に食事を取る考えも、今のところはないようだった。
説明を終えると、女性も仕事が残っていると言って部屋から出ていった。
こうして聖花は、広い部屋で一人、豪華な料理と向き合うことになった。
情報を得るために家族との交流を深めたいというのは確かに嘘ではない。けれど、聖花自身も気づかない心の奥には、もっと単純な願いが残っていた。
たとえ本当の家族ではなくとも、誰かと同じ食卓につきたかった。食事をしながら他愛もない話をして、同じ料理を味わい、時には笑う。ヴェルディーレ家で当たり前のように繰り返していた時間を、どこかで求めていたのだ。
しかし、ゴルダール家にはそれがなかった。
広い屋敷と大勢の使用人がいるにもかかわらず、ヴィンセントは一人で食事をし、新しく養女となった聖花も別の部屋で一人きりである。
家族という名だけを結んでも、そこに暮らしの温かさまで生まれるわけではないらしい。
(家族になったっていうより、必要だから同じ家に置かれただけだもんね)
聖花はパンを小さく千切り、スープへ浸した。
(最初から分かってたはずなのに、何を期待してたんだろ)
自嘲するように心の中で呟く。それでも胸へ残った寂しさは、簡単には消えてくれなかった。
料理を食べ進めているうち、空腹は満たされていった。身体が弱っているため一度に多くは食べられず、皿には少し料理が残ってしまったものの、地下牢にいた頃よりは十分な量を口へできた。
聖花は食器を一つずつトレーの上へ戻し、乱れていた配置を軽く整えた。
食事を終えても、すぐに次の予定があるわけではない。午後から教師を迎えて授業が始まると聞いているが、それまでにはまだ時間があった。身体を休ませるよう言われているため、寝台へ戻って眠ることもできる。
けれど、昨夜から十分すぎるほど眠っていたせいか、今は再び横になる気にはなれなかった。
使用人が食器を回収しに来るまでの間、聖花は椅子へ座ったまま、何とはなしに部屋の中を眺めた。
朝、目覚めた時には清潔で広い部屋という印象しかなかったが、改めて見回してみると、家具の配置には僅かな違和感がある。
衣装棚や化粧台は大人が使っても不自然ではない造りをしているものの、机や椅子はやや小さい。壁へ飾られた絵には可愛らしい花や動物が描かれ、寝台の近くには子供向けらしい小さな置物が並んでいる。
客人用に整えられた部屋というより、以前は年若い少女が暮らしていた部屋のように思えた。
聖花は机の方へ視線を移した。机には複数の引き出しと小さな棚があり、その一角へ一冊の薄いノートが置かれている。周囲には分厚い本や装飾された箱が並んでいるため、簡素なノートはかえって目立っていた。
聖花は少し迷った後、椅子から立ち上がって机へ近づいた。
他人の持ち物を勝手に見るべきではない。そう思ったものの、この部屋は今後聖花が使うために与えられた場所であり、置かれている物について何の説明も受けていなかった。
それに、ノートには鍵も掛けられておらず、隠すようにしまわれていたわけでもない。
聖花は表紙へ指を掛け、慎重に開いた。最初の頁には、子供が書いたらしい少し崩れた文字が並んでいた。
(これ、日記かな)
文章は短く、使われている言葉も幼い。
最初に記されていたのは、父親に字を褒めてもらったという出来事だった。
文字の形を覚えたばかりなのか、同じ大きさに揃っておらず、ところどころ線が歪んでいる。けれど、一文字ずつ丁寧に書こうとしたことは伝わってきた。
聖花は自然と口元を緩めた。
日記の持ち主は、よほど父親が好きだったのだろう。
次の頁には、食事の時に父親と話したこと、その次には新しい服を買ってもらったことが書かれていた。どれも大きな出来事ではないが、書き手にとっては日記へ残したくなるほど嬉しいことだったらしい。
一つ一つの文章から、幼い少女の喜びが伝わってくる。
孤独な朝食を終えたばかりの聖花にとって、他人の日記であっても、そのささやかな温かさは心を和らげてくれた。
聖花は椅子へ座り直し、頁をゆっくりめくっていく。初めのうちはほぼ毎日書かれていた日記も、進むにつれて少しずつ間隔が空いていた。
子供が日記を途中で忘れることは珍しくない。聖花も前世で日記帳を買い、数頁だけ書いて放置した経験がある。
そのため、最初は特に不思議には思わなかった。
しかし、半分にも満たないところで、書かれた頁は突然途切れていた。
聖花の指が止まる。
それ以降は、真っ白な紙が最後まで続いている。最後に書かれていた日記も、ごく短いものだった。
明日、母親と一緒に出掛ける。それだけで終わっている。
書き手は翌日の外出を楽しみにしていたらしい。文章の最後には、花のような小さな絵まで添えられていた。
けれど、その翌日の日記はない。
外出先で何を見たのか、母親と何を話したのか、何も記されていなかった。
単に日記を書くことへ飽きただけかもしれない。新しいノートへ書き始めた可能性もある。それでも、聖花には、なぜかそれだけではないように思えた。
部屋の家具。幼い少女のために揃えられた装飾。妻も子もいないヴィンセント。
その家に、少女の日記が残されている。ばらばらだったものが、一つの形へまとまりそうになる。
「これって……」
聖花は思わず声に出し、すぐに口を閉じた。
誰かに聞かれたわけではない。それでも、触れてはいけないものへ手を伸ばしてしまったような感覚があり、急に周囲が気になった。
扉は閉じられている。廊下から足音も聞こえない。
聖花は日記を閉じると、元あった位置へ慎重に戻した。向きや置かれていた角度まで、できるだけ変わらないように整える。
(この部屋、前は誰かが使ってたんだ)
考えれば当然だった。
これほど生活に必要な物が揃っている部屋を、昨夜突然来た聖花のために一から用意したとは考えにくい。
(ヴィンセントには妻も子供もいないって言ってた。でも、本当に最初からいなかったのかな)
今はいない、というだけなのかもしれない。
以前には妻や娘がいたが、何らかの理由によって、この屋敷からいなくなった。そして娘が使っていた部屋を、今は聖花へ与えた。
最後の日記に書かれていた、母親との外出。
それが失踪や死と結びついていると考えるのは早計だろう。情報がほとんどない状態で想像だけを膨らませれば、事実から遠ざかってしまう。
それでも胸に生まれた不安は消えなかった。ヴィンセントが闇属性へ見せた異常な執着も、この家の過去と何か関係しているのだろうか。
妻と娘がいなくなったことをきっかけに、闇の魔術へ執着するようになった可能性もある。
あるいは、その逆なのかもしれない。ヴィンセントが闇属性や何らかの野望へ固執した結果、家族が去っていったとも考えられる。
どちらにせよ、この屋敷には聖花がまだ知らない事情がある。
(今は深入りしない方がいいかも)
聖花は自分へ言い聞かせた。
(気になるけど、勝手に探り回ってヴィンセントに知られたら危ない。まずは、この家で誰を信用できるのか見極めないと)
そう考えたところで、扉が三度叩かれた。
あまりにもよいタイミングだったため、聖花の肩が小さく跳ねる。
日記はすでに元の場所へ戻してある。それでも、隠し事を見つけられたような気分になり、聖花は一度息を整えてから返事をした。
「どうぞ」
扉を開けて入ってきたのは、朝に聖花を浴室へ連れていった女性ではなかった。
若い使用人である。
年齢は聖花より少し上に見え、簡素な侍女服を着ていた。彼女は室内へ入ると一応頭を下げたものの、その動きは形式だけで、聖花へ敬意を示しているようには感じられなかった。
若い侍女は聖花へ一瞬だけ視線を向け、そのまま食器の載ったトレーへ近づいた。手際よく皿を重ね、ワゴンへ移していく。
聖花は礼を言おうとしたが、侍女はこちらの言葉を待つ様子もなく、作業を終えるとすぐに立ち去ってしまった。
扉が閉じるまで、一度も言葉を交わさなかった。
忙しいだけなのかもしれない。新しく養女となった聖花への接し方を、まだ指示されていない可能性もある。しかし、少なくとも歓迎されてはいないことだけは伝わった。
ヴェルディーレ家の使用人たちは、朝に廊下ですれ違えば笑顔で挨拶をしてくれた。聖花が困っていれば、頼むよりも先に声を掛けてくれる者も多かった。
メイなどは、聖花の表情が少し曇っただけで理由を尋ね、心配そうに周囲を見回していた。
ゴルダール家へ来てまだ半日も経っていないというのに、家の雰囲気が大きく異なることは十分に分かった。
使用人たちは全体的に忙しく、必要な仕事だけを無言でこなしている。屋敷の主であるヴィンセントが冷淡な人物だから、その態度が使用人たちへも広がっているのかもしれない。
聖花は無意識に、ヴェルディーレ家での生活を思い返していた。朝食の席でダンドールが必要以上に世話を焼き、ルアンナがそれを笑って止める。フィリーネが姿勢を正すよう注意しながらも、聖花の好物をそっと近くへ置いてくれる。ギルガルドは家族へほとんど関心を示さなかったが、それでも同じ食卓には座っていた。
使用人たちの声や食器の音も含め、屋敷にはいつも誰かの気配があった。
思い出に胸を引かれそうになり、聖花は首を横へ振った。
(しっかりしろ、私)
今の自分は、もうヴェルディーレ家の二女ではない。
(何かあるたびにあの家と比べてたら、いつまで経ってもここで動けない。寂しいって思っても、戻れるわけじゃないんだから)
戻れない。そう言い切ることは、今も苦しかった。けれど、少なくとも今すぐには戻れない。
奏がマリアンナとして暮らしている以上、聖花が何の準備もなく姿を現せば、再び捕らえられるだけだ。
過去の温かさに縋り続けても、状況は変わらない今の聖花に必要なのは、悲しみへ沈むことではなく、動くことだった。
聖花は寝台へ戻るのをやめ、室内をもう一度見回した。
午後の授業までには時間がある。何もせず待っている必要はない。
地下牢では、本も紙もなく、ただ壁を見つめて一日が過ぎるのを待つしかなかった。考える時間だけは無限にあったが、情報を得る方法も、何かを試す手段もなかった。
今は違う。
貴族の屋敷であれば、書庫があるはずだ。闇属性について書かれた本が見つかるかもしれない。身体の入れ替わりや、魂に関する魔術の記録が残されている可能性もある。
少なくとも、この世界の魔術について何も知らないままでいるよりはよい。
「本でも読もう」
口に出してみると、それは今すぐ実行すべきことのように思えた。
聖花は机の上へ置かれていた呼び鈴へ手を伸ばし、軽く鳴らした。
澄んだ音が部屋へ響く。すぐには誰も来なかったが、暫くすると廊下から足音が近づいてきた。
扉が開き、先ほど食器を下げに来た者とは別のメイドが姿を見せる。
今度のメイドは二十歳前後に見え、顔立ちだけならば穏やかだった。しかし部屋へ入ってきた時から表情には疲労と面倒そうな気配が滲み、呼び出されたことを歓迎していないのは明らかだった。
彼女は扉の近くへ立ったまま、聖花を見つめる。
聖花も相手が何か言うのを待ったため、数秒ほど沈黙が続いた。
メイドはようやく、小さく息を吐いて口を開いた。
「……何かご用でしょうか」
その口調は一応丁寧ではあったが、早く用件を済ませろとでも言うような響きを含んでいる。
聖花は相手の態度を気にしないふりをし、穏やかに尋ねた。
「この屋敷には、書庫がありますか。場所が分からないので、そこまで案内していただきたいのですが」
メイドは僅かに目を見開き、聖花の姿を上から下まで見た。
その視線には、先ほどまでとは異なる含みがあった。身なりを確認しているのではない。本当に文字を読めるのかと疑っているような、相手を値踏みする目だった。
「書庫はございますが……今の貴女様には、置かれている本は少々難しいかと存じます」
言葉だけを聞けば、聖花を気遣っているようにも取れる。
しかし、語尾へ僅かに混じった嘲りと、口元に浮かんだ薄い笑みは隠し切れていなかった。
平民出身で、昨夜突然連れてこられた少女。しかも、正式な養女縁組の発表もまだ済んでいない。メイドは聖花を、身分も教養もない人間だと決めつけているのだろう。
案内を断るために、読むことなどできないと遠回しに伝えている。
以前の聖花であれば、相手の態度に気づいても何も言えなかったかもしれない。波風を立てないよう笑って誤魔化し、案内を諦めていただろう。
けれど、ここで軽く扱われることを受け入れれば、これから先も同じような態度を取られる可能性が高い。
ヴィンセントの養女という立場は、聖花が望んで得たものではない。
それでも、この屋敷で自分を守るために使える数少ないものの一つだった。
相手を必要以上に傷つけたいわけではない。ただ、何をしても言い返さない人間だと思われるわけにはいかなかった。
(ここで引いたら、ずっと下に見られる)
聖花はメイドの目を真っ直ぐに見返した。
(奏やアーノルドに比べたら、この程度の嫌味なんて分かりやすすぎる)
特にアーノルドは、笑顔のまま平然と人を試し、言葉の裏へいくつもの意味を隠す。彼と何度も話した後では、目の前の侍女の悪意など、あまりにも単純に見えた。
聖花は声を荒らげず、表情も崩さなかった。
「私は、本が読めるかどうかを尋ねたわけではありません」
メイドの口元から、僅かに笑みが消える。
「書庫まで案内してほしいとお願いしたのですが、聞こえませんでしたか」
「……聞こえてはおります」
メイドは一瞬だけ怯んだものの、すぐに面倒そうな表情へ戻った。
「ですが、せっかくご案内しても、内容をご理解できなければお時間を無駄にされるかと思いまして」
どうせ何もできない。その言葉を、ぎりぎり丁寧な表現へ包んでいるだけだった。
聖花は相手を見つめたまま、ゆっくりと笑みを浮かべた。
アーノルドへ言葉を返す時のように、表面だけは穏やかで、意味だけははっきり伝わる笑顔を意識する。
「なるほど。私の時間を心配してくださったのですね」
メイドは聖花が引き下がったと思ったのか、僅かに肩の力を抜いた。
しかし、聖花はそのまま言葉を続けた。
「けれど、使用人が主人の求めていない判断まで行い、指示を拒むのは、ゴルダール伯爵家では一般的なことなのでしょうか」
メイドの表情が強張った。
「わ、私は、そのようなつもりでは……」
「私は本日より、ヴィンセント伯爵の養女となりました」
聖花は、相手が言い訳を終える前に静かに告げた。
声を大きくする必要はない。一語ずつ、相手へ意味が伝わるように話せばよかった。
「もちろん、まだ正式な発表前ですし、私がこの家へ来たばかりであることも理解しています。ですが、伯爵家の養女へそのような態度を取ることは、私個人だけではなく、この家の名を軽んじる行為と受け取られる可能性があります」
メイドの顔から血の気が引いていく。
聖花は笑顔を崩さず、最後の一言を重ねた。
「この件について、私だけで判断するのはよくありません。後ほど、お義父様へ報告して、どのように対応すべきか伺うことにしますね」
メイドの目が大きく見開かれた。
先ほどまでの面倒そうな態度は跡形もなく消え、唇が小さく震え始める。ヴィンセントが使用人へ向けていた冷たい態度を思えば、メイドが怯える理由は十分に理解できた。
彼女も、当主へ報告されれば軽い注意だけでは済まないと知っているのだろう。メイドは慌てて姿勢を正し、深々と頭を下げた。
「も、申し訳ございませんでした。書庫へ、ただちにご案内いたします」
声は見事に裏返っていた。
聖花には、先ほどまで尊大に見えた侍女が、叱られることを恐れて震える小動物のように見えた。相手の怯えた姿を前にすると、僅かに罪悪感が生まれる。
自分は本当に、ヴィンセントへ報告する必要があるのだろうか。今後態度を改めるのであれば、今回だけは見逃してもよいのかもしれない。
しかし、すぐに奏との出来事が頭をよぎった。
最初の違和感を見過ごし、相手を疑うことを恐れ、何度も譲ってしまった結果、聖花は大切なものを全て奪われた。
もちろん、目の前のメイドと奏を同じように扱うつもりはない。それでも、一度何もなかったことにすれば、メイド本人だけではなく、周囲の使用人たちも聖花ならば軽く扱えると判断する可能性がある。
この家で自分を守るためには、最初に境界を示しておく必要があった。
(謝ったからって、すぐに全部許したら同じことを繰り返すかもしれない)
聖花は笑みを少しだけ柔らかいものへ変えた。
「では、案内をお願いします」
報告しないとは言わなかった。
メイドもそれに気づいているのか、顔色を青くしたまま何度も頷いた。
「は、はい。こちらへどうぞ」
メイドは先ほどまでとは別人のように丁寧な動作で扉を開け、聖花が通るまで脇へ控えた。
聖花は立ち上がり、彼女の横を通って廊下へ出る。歩き始めたメイドの背中は僅かに強張り、何度もこちらの様子を気にするように振り返っていた。
聖花はその後ろを歩きながら、自分の胸へ残る複雑な感情を整理した。
相手を言い負かして爽快だったわけではない。むしろ、自分が権力を盾にして誰かを脅したような気がして、気分は決してよくなかった。
それでも、黙って侮られるよりはよい。
聖花は誰かを従わせたいわけではない。ただ、この屋敷で一人の人間として扱われたかった。今の立場でそれを求めるためには、時に伯爵家の養女という肩書きを使わなければならないのだろう。
そのことを、苦い現実として受け入れるしかなかった。
(私、前より少しは言い返せるようになったのかな)
以前なら、相手の顔色を窺うばかりで、自分の意思を言葉にすることはできなかった。
(でも、やりすぎないようにしないと。ヴィンセントみたいに、立場が上だから何をしてもいいって思うようにはなりたくない)
使用人が無礼を働いたことは事実である。
だからといって、必要以上の罰を望むつもりはなかった。ヴィンセントへ報告する際には、起きたことだけを伝え、処罰を求めるのではなく、屋敷内での自分の扱いを明確にしてほしいと頼めばよい。
それで使用人たちの態度が改まるなら、十分だった。
メイドに案内されながら、聖花は長い廊下を進んでいく。
窓から差し込む朝の光は、先ほどと何も変わっていない。けれど、部屋へ戻った時よりも、足取りは僅かに確かなものとなっていた。
新しい家で迎えた最初の朝、聖花が手に入れたのは、温かな家族でも、心から安心できる居場所でもない。それでも、自分の意思を言葉にし、他人へ踏みにじられないための、小さな一歩を踏み出すことはできた。
たとえ些細な反撃に過ぎなくとも、何もできずに俯いていた頃の聖花にとって、それは確かな変化だった。
次回、教師の方と対面です!!




