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2.闇への執着

 浴室へ連れてこられてから、どれほどの時間が経ったのだろう。


 聖花が自分で何かをする余地はほとんどなく、身体を洗われ、髪へ香油を馴染ませられ、湯から上がった後には柔らかな布で水分を丁寧に拭き取られた。用意されていた清潔な肌着と衣服へ着替えさせられた頃には、牢で過ごした一週間の痕跡は、外見だけならばほとんど分からないほど薄れていた。


 もちろん、痩せた身体や頬に残る疲労まで隠すことはできない。それでも、絡み合っていた青い髪は一本ずつ丁寧に梳かされ、傷んだ毛先も目立たないよう整えられている。肌へ薄く化粧を施されると、不健康な青白さも幾分か和らぎ、少なくとも貴族家の令嬢として人前へ出られる姿にはなっていた。


 湯浴みを終えた聖花は、浴室に併設された身支度用の部屋へ座らされていた。


 背後では、彼女をここまで連れてきた女性が、乾かした髪を櫛で整えている。動きに迷いはなく、髪を引っ張って痛みを与えることもない。必要以上に話し掛けてこないところも、今の聖花にとってはありがたかった。


 鏡へ映る女性の表情は、最初に部屋へ現れた時よりも僅かに和らいでいるように見えた。整えられた髪の出来を確認し、ほんの少しだけ満足そうに目を細めている。


 厳しい顔立ちのため、初対面では機嫌が悪いように見えたが、聖花を嫌って溜息を吐いたわけではなかったらしい。むしろ、牢で満足な世話も受けられなかった彼女の状態を放置できず、自分の役目として整えてくれたのだろう。



(この人、顔つきのせいで誤解されやすそうだけど、そこまで悪い人じゃないのかも)


 この数か月で、聖花は実にさまざまな人間と出会ってきた。


 何の見返りも求めず愛情を注いでくれたヴェルディーレ家の人々。相手の立場や家格だけで態度を変える貴族。表面上は親切そうに振る舞いながら、裏では他人を陥れようとする者。反対に、言葉や態度は不器用でも、困っている者を見過ごせない人間もいた。

 カナデやアーノルドのように、何を考えているのか簡単には読み取れない相手とも関わってきた。


 そうした経験を重ねた結果、以前よりは相手の表情や仕草を観察する余裕が生まれている。もちろん、聖花に人間の本質を見抜けるような特別な力があるわけではない。アーノルドのように感情を隠すことへ慣れた者や、奏のように信じ込ませることが上手い者を、短い会話だけで見抜くことなどできないだろう。


 それでも、目に映る印象だけで人を決めつけず、相手が実際に何をしたのかを見ることはできる。


 女性は愛想こそないが、聖花を乱暴に扱うことはなかった。汚れた身体へ嫌悪を露わにすることもなく、傷んだ髪や痩せた腕を見て、責めるのではなく必要な手入れを施してくれた。


 それだけでも、少なくとも聖花へ悪意を持っている可能性は低いように思えた。


 女性は最後に髪の左右を見比べると、櫛を化粧台へ置いた。それから鏡越しに聖花と目が合った途端、先ほどまで僅かに浮かべていた満足そうな表情を消し、何事もなかったように背筋を伸ばす。


 聖花に見られていたことが気まずかったのか、小さく咳払いをしてから、いつもの硬い口調へ戻った。

 


「……それでは、参りましょう」


 何の説明もなく立ち上がった女性に、聖花は椅子へ座ったまま僅かに首を傾げた。


 今の時刻は、まだ朝食には早い。貴族の家であれば、家族が食卓へ集まるまでにも相応の準備が必要であり、昨夜遅くに到着した聖花が、いきなり他の者たちと共に食事を取るとも思えなかった。


 それならば、身支度を整えた後に向かう場所は限られている。


 昨夜は顔を合わせただけで終わったヴィンセントが、今日は詳しい話をすると告げていた。養女となるための手続きや、今後の生活について説明を受けることになるのだろう。

 


(朝食の前に話を済ませるつもりなんだ。だったら、行き先はヴィンセントのところかな)


 聖花は椅子から立ち上がり、衣服の裾を整えた。鏡の中には、昨日まで地下牢へ閉じ込められていた少女とは思えない姿が映っている。


 淡い色の衣服は、今の青い髪によく似合っていた。ただし、身体に合わせて急いで用意したためか、肩や腰回りには僅かな余裕がある。


 聖花は女性の反応を確かめるため、あえて行き先を口にしてみることにした。

 


「分かりました。ヴィンセント伯爵様の元へ向かうのですね」


 女性の眉が僅かに動いた。


 ほんの一瞬の反応だったが、予想が当たっていることは十分に伝わってくる。彼女は聖花を数秒ほど見つめた後、それ以上の感情を表へ出すことなく、浴室の扉へ手を掛けた。

 


「……こちらでございます」


 それだけ告げると、女性は廊下へ出た。

 聖花もその後へ続く。


 先ほど浴室まで半ば引きずられるように連れてこられた際には、足元へ注意を向けるだけで精一杯だった。そのため、朝のゴルダール伯爵家をゆっくり眺めるのは、これが初めてとなる。


 昨夜は手提げランプの光が届く範囲しか見えず、広い廊下の奥は暗闇へ沈んでいた。人の気配もなく、まるで誰も暮らしていない屋敷へ忍び込んだような、不気味な静けさが漂っていた。


 しかし、朝を迎えた屋敷は全く異なる姿を見せている。


 大きな窓から差し込む陽光が磨き上げられた床へ反射し、壁へ掛けられた絵画や装飾品を明るく照らしていた。昨夜は心許なく揺れていた蝋燭も、今は朝の光を受けて美しく輝き、屋敷全体へ柔らかな温もりを与えている。


 そして何より、廊下には多くの使用人が行き交っていた。


 食事の準備をしているのか、大きな籠を抱えて急ぎ足で進む者。掃除道具を手に部屋へ入っていく者。複数人で小さく言葉を交わしながら、洗濯物を運んでいる者もいる。


 その動きには無駄がなく、互いの進路を妨げることもない。ゴルダール伯爵家という大きな屋敷を維持するため、朝早くから多くの人間が働いているのだろう。


 皆が忙しそうにしているため、聖花の存在へ気づいても、足を止める者はほとんどいなかった。見慣れない少女へ一瞬だけ視線を向け、そのまま自分の仕事へ戻っていく。


 昨夜、秘密裏に連れてこられた聖花について、まだ詳しい説明を受けていない者も多いのかもしれない。


 ヴェルディーレ家では、聖花が朝早く廊下へ出る機会はあまりなかった。貴族である家族が起き出す時間には、すでに多くの準備が整っていたため、使用人たちが慌ただしく働く様子をここまで間近に見ることも少ない。


 同じ貴族の屋敷でも、家によって空気は随分と異なるものらしい。


 聖花は周囲へ視線を向けながら、女性の後を歩き続けた。湯浴みで身体が温まったとはいえ、体力が完全に戻ったわけではなく、長い廊下を歩くだけでも足には僅かな重さが残っている。


 女性は一度だけ振り返り、聖花が遅れていないことを確かめると、そのまま歩調を変えず進んだ。


 やがて二人は、昨夜も訪れた屋敷中央の扉の前へ辿り着いた。

 外壁に面していないため窓がなく、一見しただけでは内部にどのような部屋があるのか分からない。昨夜の顔合わせが行われた、外へ音を漏らさないための部屋である。


 女性は扉の前で足を止めると、姿勢を正して二度ノックした。


 室内から短い返事が届く。

 それを確認してから扉を開き、聖花へ入るよう促した。

 


「到着いたしました。どうぞ、お入りください」


 聖花は小さく息を吸い、女性と共に部屋へ足を踏み入れた。


 昨夜と同じく、部屋の中央には応接用の椅子と机が置かれている。外から朝日が差し込むことのない室内は、壁へ設置された魔術灯によって均一に照らされ、昼夜の違いをほとんど感じさせなかった。


 ヴィンセントは奥の椅子へ腰掛け、机の上に並べられた書類へ目を通していた。聖花たちが入ってきてもすぐには顔を上げず、最後の一枚へ署名を終えてから、ゆっくりと視線を向ける。


 女性は部屋の中央まで進むと、ヴィンセントへ深く頭を下げた。

 


「失礼いたします、ご当主様。お待たせして申し訳ございません。ご指示どおり、カナデ様をお連れいたしました」


 ヴィンセントは聖花の姿を一度確認した後、女性へ冷ややかな視線を移した。

 


「うむ。だが、思っていたよりも遅かったな。何をしていた」


 昨夜と同じ人物とは思えないほど、声には温かみがなかった。


 聖花へ向けられていた穏やかな態度は消え、使用人へ命令する当主としての冷たさだけが表れている。その視線には、遅れた理由によっては責任を追及するという明確な圧力があった。


 聖花は思わず女性の方を見そうになったが、すぐに視線を正面へ戻した。ここで驚きを露骨に表へ出せば、自分が他人の態度を観察していることを悟られるかもしれない。


 昨夜のヴィンセントは、少なくとも表面上は人間味のある男に見えた。聖花の疲労を気遣い、詳しい話を翌日へ回す程度の配慮も示していた。


 しかし今、目の前にいるのは、使用人を対等な人間として見ているのかさえ疑わしくなるほど冷淡な当主だった。


 どちらが本来の姿で、どちらが作られたものなのか。考えるまでもないのかもしれない。聖花へ見せた親しげな態度は、新しく手に入れた養女を安心させるためのものだったのだろう。


 女性はヴィンセントの鋭い視線を受けても怯まず、姿勢を崩すことなく答えた。

 


「カナデ様が、あまりにも人前へお出しできる状態ではございませんでしたので、私の判断で先に湯浴みと身支度を済ませて参りました。ご報告が遅れましたことは、お詫び申し上げます」


 言い訳をする様子はなく、自分の判断で行ったことをはっきりと認めている。


 ヴィンセントと女性の視線が正面からぶつかった。室内へ重い沈黙が落ちる。

 互いに一言も発していないにもかかわらず、二人の間では言葉以上のやり取りが行われているように感じられた。ヴィンセントは当主の命令を優先しなかったことを咎め、女性は屋敷の体面を保つために必要な判断だったと譲らない。


 聖花は二人から少し離れた場所で立ち尽くし、表情だけは平静に保ちながら成り行きを見守った。

 


(すごい空気だな。間にいる私まで怒られてる気分になる)


 女性にとっては、この程度のやり取りは日常なのかもしれない。ヴィンセントへ睨まれても、顔色一つ変えていなかった。


 やがて、これ以上問い詰めても時間の無駄だと判断したのか、ヴィンセントが先に視線を外した。少し伸びた髭へ手を添え、考えるように指先を動かす。

 


「まあ、よい。その件については不問としよう。結果として、昨夜よりは見られる姿になっている」


 褒めているのかどうか分からない言い方だったが、女性は何も返さなかった。


 ヴィンセントは今度こそ聖花へ視線を向けると、机の上の書類を一つにまとめる。

 


「ここからはカナデ嬢と二人で話がしたい。意味は分かるな」


 言葉だけを聞けば確認のようだが、実質的には退出を命じていた。


 女性もそれを理解しているらしく、深く一礼する。

 


「畏まりました。それでは、私は失礼いたします」


 彼女は踵を返し、聖花へ視線を向けることなく扉へ向かった。


 扉が閉じ、足音が完全に遠ざかる。待っていたかのように、ヴィンセントの表情が変化した。

 先ほどまで使用人へ向けていた冷ややかな目つきが和らぎ、口元には昨夜と同じ穏やかな笑みが浮かぶ。声も一転して親しげなものとなり、初めから冷たい態度など見せていなかったかのようだった。


 あまりにも鮮やかな切り替えに、聖花はかえって警戒を強めた。


 使用人の前では厳格な当主を演じ、聖花の前では親切な義父を装う。

 あるいは、聖花へ先ほどの態度をわざと見せ、自分に逆らえばどうなるかを無言のうちに理解させようとしている可能性もある。


 どちらにしても、表情の一つ一つを素直に信じるべき相手ではなかった。

 


(やっぱり貴族って怖いな。どこまでが本当の顔なのか、全然分からない)


 聖花は笑顔を作ったものの、口元が僅かに引きつるのを自覚した。


 ヴィンセントはそんな彼女の警戒へ気づいているのか、いないのか。何事もなかったように椅子の背へ身体を預け、穏やかな声を掛けてきた。

 


「待たせてしまったな。改めて、おはよう。昨夜はよく眠れたか、カナデ嬢」


 先ほどの空気を完全に無視し、世間話から始めるつもりらしい。

 聖花は相手の意図を探るように見つめながら、必要最低限の言葉だけを返した。

 


「お陰様で、久しぶりにゆっくりと休むことができました」


 実際、地下牢へ入れられてから最も深く眠ることができたのは事実である。だからといって、今後もこの屋敷で安心して眠れるかどうかは別問題だった。


 ヴィンセントは満足そうに頷いた後も、すぐには本題へ入らなかった。

 


「部屋に不足しているものはなかったか。必要なものがあれば、遠慮せず使用人へ命じるとよい。これからは我が家の娘となるのだからな」


 聖花は黙ったままヴィンセントを見つめた。


 昨夜、詳しい話をすると告げられている。今朝早くから呼び出されたのも、そのためのはずだった。

 それにもかかわらず、ヴィンセントは聖花の反応を確かめるように、当たり障りのない言葉を重ねている。


 初対面に近い相手へ、自分から急かすことは礼儀に反するかもしれない。それでも、相手の望むまま曖昧な会話を続ければ、主導権を完全に握られてしまうような気がした。


 聖花は笑顔を崩さず、けれど返事をせず、ただヴィンセントの目を見つめ続けた。

 用件があるなら早く話してほしい。と。


 言葉にしなくとも、意図は十分に伝わったらしい。ヴィンセントは一瞬だけ目を細めた後、小さく笑った。

 


「なるほど。無駄な世間話は望んでいないようだな。話が早くて助かる」


 身体を椅子から僅かに起こし、机の上で両手を組む。その姿勢と声には、これまでの親しげな雰囲気とは異なる緊張が滲み始めた。

 


「昨夜、使用人から一通り聞いていると思うが、貴女には我がゴルダール伯爵家の養女となってもらう。必要な手続きはこちらで進めているため、今日中にいくつかの書類へ署名をすればよい」


 そこまでは、聖花も予想していた内容である。だが、ヴィンセントが彼女を養女として迎える理由については、まだ明確な説明を受けていなかった。

 行き場のない少女を哀れみ、善意だけで引き取ったわけではないことは分かっている。アーノルドも、この家なら聖花の闇属性を利用できると考えていたようだった。


 ヴィンセントは机へ置かれた聖花の手を見つめるように視線を落とすと、次第に口元の笑みを深めていった。

 


「しかし、実に素晴らしい」


 何について話しているのか分からず、聖花は眉を僅かに動かした。


 ヴィンセントは椅子から立ち上がり、抑え切れない喜びを滲ませながら続ける。

 


「闇属性だ。これほど稀少で、これほど大きな可能性を秘めた力が、なぜ世間では忌み嫌われているのか、私には到底理解できん」


 言葉を重ねるごとに、その声は熱を帯びていった。


 先ほどまでの落ち着いた当主の姿は、少しずつ失われていく。ヴィンセントの瞳は聖花ではなく、彼女の内側に存在するはずの力だけを見つめているようだった。


 闇属性を恐れない人間がいること自体は、今の聖花にとって悪い話ではない。けれど、彼の目に浮かんでいるものは、はっきり言って異質だった。

 そこに聖花個人への関心はなく、珍しい魔術を手に入れた者が、その利用方法を夢想するような、強すぎる欲望だけがあった。

 


「世の者たちは、理解できぬものを恐れる。闇という名を聞いただけで、それが災厄をもたらすものだと決めつける。実に愚かなことだ」


 ヴィンセントは机を回り込み、聖花のいる方へ一歩ずつ近づいてくる。

 


「正しく育て、正しく使えば、あらゆる望みを実現できるかもしれぬ力だというのに。富も、名声も、権力も……これまで手の届かなかったもの全てを、手に入れられるかもしれないのだぞ」


 低く抑えていた声が、次第に大きくなっていく。

 ヴィンセントは両腕を僅かに広げ、まだ何一つ実現していない未来へ酔いしれるように笑みを浮かべた。


 聖花は無意識に一歩後ろへ下がった。

 ヴィンセントはそれを気に留めない。それどころか、逃げようとする距離を詰めるように、さらに近づいてくる。

 


「私は長い間、貴女のような存在を求め続けてきた。闇の力を持ちながら、誰の手にも渡っていない者をな」


 その言葉に、聖花の背筋へ冷たいものが走った。


 誰の手にも渡っていない者。まるで、聖花を人間ではなく、所有すべき道具として見ているかのようだった。

 


「いつか私の手の届く場所へ現れないものかと、何度願ったことか。まさか第二王子殿下自らが、その機会を運んでくださるとは思わなかったが……運命とは、実に不可思議なものだ」


 ヴィンセントの瞳には、もはや貴族らしい理性も威厳も残っていなかった。


 闇属性に対する執着だけが異様な光となって浮かび、部屋の空気さえ歪んでいるように感じられる。聖花は椅子の背へ片手を触れ、これ以上後ろへ下がれないことを確かめた。

 声を上げて助けを求めるべきかとも思ったが、この部屋は昨夜から音が外へ漏れないよう作られている。ヴィンセントがどれほど大声で話しても、廊下を通る使用人が気づく様子はない。


 そもそも、この屋敷の当主であるヴィンセントから聖花を守ろうとする者がいるかどうかも分からなかった。

 


(まずい。この人、想像してたよりずっと危ない)


 心臓が早鐘のように鳴り始める。

 


(闇属性を嫌ってないんじゃない。好きすぎるんだ。私じゃなくて、闇属性の力しか見てない)


 このまま話させ続ければ、ヴィンセントの興奮はさらに強くなるだろう。

 かといって、闇属性を使えないと正直に告げれば、何をされるか分からない。身体が入れ替わっていることだけは、この男に知られてはならない。

 ヴィンセントが求めているのは闇属性である。中身が本来の持ち主ではないと分かれば、聖花をどのように扱うか予想もできなかった。

 場合によっては、元の持ち主である奏を探し出し、聖花は不要だと判断するかもしれない。あるいは、入れ替わりという現象そのものへ興味を持ち、聖花を実験材料のように扱う可能性すらある。


 ヴィンセントの激情をどうにかして止めなければならない。聖花は恐怖で乱れそうになる呼吸を整えながら、必死に頭を働かせた。

 落ち着くよう静かに説得しても、今の彼には届かないだろう。ヴィンセントは自分の声に酔い、聖花の反応などほとんど見ていない。


 ならば、彼以上に大きな衝撃を与え、無理やり意識をこちらへ戻すしかない。


 聖花は息を大きく吸い込んだ。

 


「お義父様!」


 部屋中へ、聖花の声が響き渡った。

 ヴィンセントの声よりもさらに大きく、相手の言葉を断ち切るような鋭い呼び掛けだった。

 


「一度、落ち着いてください!」


 ヴィンセントの身体が止まった。大きく見開かれた目が、初めて聖花本人へ向けられる。


 聖花も、自分がここまで大きな声を出すことになるとは思っていなかった。声が僅かに震えそうになるのを堪え、相手から目を逸らさない。


 数秒間、二人の間へ沈黙が落ちた。


 先ほどまで部屋を満たしていた狂気じみた熱が、急速に冷めていく。

 ヴィンセントは夢から覚めた者のように何度か瞬きをすると、自分が聖花のすぐ近くまで歩いていたことへ、ようやく気づいたらしい。


 気まずそうに一歩後ろへ下がり、乱れてもいない衣服の襟を整えた。

 


「あ、ああ……そうだな。少々、話が逸れてしまったようだ。すまなかった」


 あれほどの異様な興奮を見せておきながら、「少々」の一言で済ませるつもりらしい。

 聖花は内心で呆れたものの、今はヴィンセントが正気へ戻ったことを優先した。表情へ恐怖を出さないよう気をつけながら、机の前へ置かれた椅子を示す。

 


「それでは、養女となるためのお話へ戻していただけますか」


 ヴィンセントは僅かに気まずそうな表情を浮かべたが、素直に元の椅子へ戻った。


 聖花も向かい側へ座り直す。身体の震えを悟られないよう、膝の上で両手を重ね、指先へ静かに力を込めた。

 


(この人には、絶対に入れ替わりのことを知られたら駄目だ)


 先ほどまでの様子を思い返すだけで、背中へ冷たい汗が滲む。

 


(知られたら何をされるか分からない。少なくとも、自分から話すのだけは絶対にやめよう)


 もともと入れ替わりについては、何らかの力に阻まれて詳しく話すことができない。それでも、言える範囲の情報まで不用意に明かすべきではなかった。


 ヴィンセントは一度咳払いをすると、机の上にまとめてあった書類を聖花の前へ差し出した。

 


「まずは、これらへ署名してもらう。いずれも養女縁組と身分登録に必要な書類だ。警戒する気持ちは理解できるが、不利益となるような内容は書かれていない。必要であれば、全て目を通して構わん」


 聖花は一番上の書類を手に取った。

 養女としてゴルダール家へ迎えられること、家の名を名乗る権利を得ること、その代わりに当主の監督と保護を受けることなどが、難解な表現で記されている。

 専門的な法律用語までは理解できないものの、少なくとも表面上はヴィンセントの説明どおりに見えた。魔術の使用権を譲渡するといった、明らかに危険な内容も書かれていない。


 とはいえ、この場で署名を拒めば、聖花には行く場所がない。王宮へ戻れば再び罪人として捕らえられ、ヴェルディーレ家へ向かうこともできない。

 選択肢が用意されているように見えて、実際には受け入れるしかなかった。


 聖花は一通り書類へ目を通し、机の上に置かれた筆記具を手に取った。

 しかし、署名欄へ書こうとしたところで手を止める。


 このままカナデという名で養女となれば、屋敷でも学園でも、今後ずっとその名前で呼ばれることになる。


 奏の身体へ入っているというだけで、奏と同じ名まで名乗り続けることには抵抗があった。何より、聖花は自分が誰であるのかを失いたくなかった。

 身体が変わり、家族から存在を否定され、以前の生活を奪われたとしても、自分自身の名前だけは手放したくない。


 ヴィンセントは、署名をせず考え込む聖花を不思議そうに見つめた。

 


「何か気になる点があるのか」


 聖花は筆記具を置き、姿勢を正した。

 


「署名する前に、一つお願いがございます」


「申してみなさい」


 ヴィンセントは、先ほどの興奮などなかったかのように答えた。


 聖花は自分の意思をはっきりと示すように、彼の目を見つめる。

 


「これから私のことは、聖花とお呼びください」


 ヴィンセントの眉が僅かに寄った。

 


「セイカ?」


「はい」


 聖花にとっては前世から使ってきた大切な名前だった。


 ヴィンセントは理由を尋ねるような視線を向けた。正直に、自分の本当の名前だからだと答えることはできない。

 聖花はあらかじめ考えていたわけではなかったが、その場で最も不自然に聞こえない説明を組み立てた。

 


「カナデという名前は、私が罪人として捕らえられていた際にも使われております。今後、以前の私を知る者と接触した場合、同じ名を名乗り続けていれば、正体を疑われる可能性がございます」


 これは完全な嘘ではない。


 王宮の騎士や村の者たちは、奏の身体をカナデという名前で認識している。脱獄した少女が、そのまま同じ名前で貴族家の養女となれば、いずれ情報が結びつく危険はあった。

 


「それならば、名前そのものを変えてしまった方が安全かと考えました。新しい身分と共に、新しい名を名乗る方が自然ではないでしょうか」


 嘘の中へ真実を混ぜることで、言葉にはそれなりの説得力が生まれる。


 ヴィンセントは顎へ手を添え、暫く考え込んだ。聖花という名前をどこから思いついたのかについては、特に興味がないらしい。重要なのは、正体を隠すうえで合理的かどうかだけなのだろう。


 やがて彼は納得したように頷いた。

 


「確かに一理ある。カナデという名に拘る必要もない。今後はセイカ・ゴルダールと名乗るがよい」


 自分の名前の後ろへ、見知らぬ家名が続く。それを耳にした瞬間、聖花の胸には僅かな痛みが走った。

 以前は、マリアンナ・ヴェルディーレとして家族と同じ姓を名乗っていた。けれど今は、その名を口にすることすら危険である。


 それでも、聖花という名前を取り戻せたことには、小さな安堵があった。

 


「ありがとうございます、お義父様」


 聖花は書類の名前欄へ、新しい身分となる自分の名を記した。


 セイカ・ゴルダール。


 書き終えた文字を見つめる。

 まだ自分の名前だという実感は薄い。それでも、カナデとして他人の人生を生きるよりは、自分自身を保てるような気がした。


 残りの書類へも署名を終えると、ヴィンセントは一枚ずつ内容を確認し、満足そうにまとめ直した。

 


「これで養女縁組については問題ない。正式な登録が済むまでには多少時間が掛かるが、屋敷の中では今日から娘として扱わせる」


 娘という言葉に、聖花は複雑な気持ちを抱いた。


 ヴィンセントが聖花を本当の家族として迎えるつもりではないことは、先ほどの態度から明らかである。彼にとって聖花は、闇属性という希少な力を持つ存在であり、養女という関係はそれを手元へ置くための名目に過ぎないのだろう。


 それでも表向きには父と娘として振る舞わなければならない。


 ヴィンセントは書類を脇へ置き、次の話題へ移った。

 


「次に教育についてだ。昨夜、使用人から学園へ通う予定であることは聞いたな」


「はい」


「学園は現在、長期休暇へ入っている。新学期が始まるまで、それほど時間に余裕はない。貴族令嬢として必要な知識と、入学に必要な学力を短期間で身につけてもらう」


 ヴィンセントは当然のように告げる。

 


「教師はすでに手配してある。今日の午後から授業を始めるので、そのつもりでいなさい」


 聖花は僅かに驚いた。


 昨夜到着したばかりで、身体もまだ完全には回復していない。少なくとも数日ほど休む時間が与えられると思っていたが、ヴィンセントにはその考えがないらしい。


 ただ、教育を受けることそのものに不満はなかった。


 聖花はマリアンナとして暮らしていた間に、貴族社会の礼儀や習慣を学んでいる。記憶として明確に思い出せないものでも、身体が自然に動くことは多かった。


 学園の試験へ備え、国の歴史や一般的な学問についても勉強していたため、最初から全く分からない状態ではない。


 むしろ、カナデとして何も知らないふりをしながら改めて学べば、この国についてより詳しい知識を得られるかもしれない。


 奏や入れ替わりについて調べるためにも、知識は多い方がよかった。

 


(正直、知ってる内容をもう一回やることになるかもしれないけど、今は余計なことを言わない方がいいよね)


 平民出身と思われている聖花が、貴族の作法や王国の歴史へ詳しければ、不自然に思われる可能性がある。



(知らないふりをして、教えられたとおりにやろう。復習だと思えば無駄にはならないし)


 聖花は素直に頭を下げた。

 


「承知いたしました。ご用意いただいた先生から、しっかりと学ばせていただきます」


 ヴィンセントは満足そうに頷いた。


 それから少しだけ間を置き、聖花の顔を改めて見つめる。その目には再び、先ほどと同じ闇属性への執着が僅かに覗いていた。

 


「そして、貴女の魔術についてだ」


 聖花の身体が僅かに強張る。


 ヴィンセントはそれに気づかないふりをして続けた。

 


「現時点では、力を十分に扱えないと聞いている。まずは身体を回復させ、魔力を安定させることを優先しなさい。いずれ力が成長した時、貴女には頼みたいことがある」


 頼みたいこと。

 先ほど口にしていた野望と関係していることは間違いない。しかしヴィンセントは、その内容を明かそうとはしなかった。


 今の聖花には魔術を扱う力がなく、詳しく話しても意味がないと考えているのかもしれない。あるいは、完全に逃げられない状態となるまで、本当の目的を隠しておくつもりなのだろう。

 


「それまでは、この屋敷の中である程度自由に過ごして構わん。学園へ入れば、外へ出る機会も増えるだろう。ただし、私の許可なく危険な行動を取ることは認めない」


 父親が娘を心配しているようにも聞こえる。


 だが、実際には貴重な闇属性を失わないよう管理するという意味だろう。

 


「そして勉学だけは決して怠るな。いずれ大きな役目を果たす者が、無知であっては困るからな」


 聖花はヴィンセントの真意を問いたださなかった。


 この場で詳しい目的を聞いたところで、正直に答えるとは思えない。仮に知ることができても、今の聖花には拒む力がなかった。


 ヴィンセントの要求を受け入れるふりをしながら、少しずつ情報と力を集める。


 それが今できる、最も安全な選択だった。

 


「分かりました」


 聖花は短く答え、従順な娘を装うように頭を下げた。ヴィンセントはその態度に満足したのか、再び穏やかな笑みを浮かべる。

 


「よろしい。朝食は部屋へ運ばせる。午後の授業まで身体を休めるとよい」


「ありがとうございます、お義父様」


 話が終わったことを確認し、聖花は椅子から立ち上がった。


 扉へ向かう間も、背中にはヴィンセントの視線が向けられている。養女となる少女を見送る父親の目ではなく、ようやく手へ入れた貴重なものを確かめるような視線だった。


 聖花は振り返らず、扉へ手を掛けた。

 


「失礼いたします」


 部屋の外へ出て扉を閉じた瞬間、聖花はようやく小さく息を吐いた。


 廊下の空気は、先ほどまでいた部屋よりもずっと軽く感じられる。ヴィンセントから直接危害を加えられたわけではない。養女としての身分も与えられ、衣食住も保障されることになった。

 表面だけを見れば、処刑を待つ罪人だった昨日とは比べものにならないほど恵まれている。


 それでも、聖花はこの場所を安全な家だとは思えなかった。

 


(とりあえず、すぐに殺されたり牢へ戻されたりすることはなさそう)


 それだけは、大きな前進である。

 


(でも、自由になったわけじゃない。牢の鉄格子が、この屋敷と養女って立場に変わっただけなのかもしれない)


 地下牢と違い、ここには窓も寝台もあり、食事も教育も与えられる。


 しかしヴィンセントの目的を果たすまで、聖花が完全に自由になることはないのだろう。

 


(だったら、利用される前に私も利用しよう)


 ヴィンセントは、闇属性の力を求めている。聖花はその期待へ応えるふりをしながら、この家の身分と財力、書物や教育を利用すればよい。

 学園へ通うことができれば、奏へ近づく機会も生まれる。魔術について学べば、身体を入れ替えられた理由や、元へ戻る方法を見つけられる可能性もある。


 ヴィンセントが何を企んでいるのかは分からない。けれど、ただ怯え、言われるままに従うつもりもなかった。

 聖花は胸の内へ生まれた恐怖を振り払うのではなく、忘れないために抱えたまま、廊下を歩き始めた。


 この屋敷で生き抜くためには、相手を信じすぎてはいけない。


 必要なものを学び、力を身につけ、いつでも自分の意思で動けるようにする。

 ヴィンセントが闇の力へどれほど執着していようとも、その力も、この身体も、聖花の人生も、彼の所有物ではない。


 今はまだ、正面からそう言い切る力はなかった。


 それでも、いつか必ず自分のものを取り戻す。


 聖花はその決意を胸へ刻みながら、与えられた部屋へと戻っていった。


次回、一部ざまぁ展開です。

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新作短編作品 百番目の死神
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