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27/102

1.再始動

 窓の外から聞こえてくる小鳥たちの囀りに導かれるように、聖花はゆっくりと意識を浮上させた。


 最初に感じたのは、身体を柔らかく包み込む寝具の温かさだった。冷たく硬い石床ではなく、どれほど体勢を変えても骨の痛みから逃れられなかった地下牢の粗末な寝床とも違う。背中も肩も、清潔な羽毛へ深く沈み込んでおり、頬に触れる布からは、日なたで乾かしたような穏やかな匂いがした。


 あまりにも心地よかったため、聖花はしばらく目を開けることができなかった。このまま眠りへ戻ってしまえば、昨日までの出来事を思い出さずに済むような気がしたのである。


 けれど、窓辺から差し込む朝の光は瞼越しにも眩しく、外から届く鳥の声も次第にはっきりしてくる。やがて聖花は眠気に抗うことを諦め、恐る恐る目を開いた。


 視界へ最初に映ったのは、淡い色の天蓋と、朝日を受けて白く輝く羽毛布団だった。


 地下牢ではない。


 その事実を理解するまでに、僅かな時間が掛かった。


 身体を起こそうと布団へ手をつくと、長い間ほとんど動かしていなかった筋肉が鈍く痛んだ。一晩眠った程度で、それまでに蓄積した疲労が消えるはずもない。腕へ力を込めるだけでも身体はひどく重く、頭の奥には深い眠気が残っている。


 それでも聖花は時間を掛けて上半身を起こし、寝台の上から部屋を見回した。


 昨夜は小さなランプの光だけを頼りに寝台まで進み、そのまま倒れ込むように眠ってしまったため、室内を詳しく見る余裕がなかった。朝の光の中で改めて確認してみれば、与えられた部屋は想像していた以上に広く、置かれている家具にも品があった。


 窓には淡い青色のカーテンが掛けられ、その隙間から差し込んだ陽光が、磨き上げられた床の上に長い帯を作っている。寝台のほかにも大きな衣装棚や化粧台、書き物机、小さな長椅子が揃えられており、急に客人を迎えるため用意した部屋には見えなかった。


 まるで最初から、ここで暮らす誰かを待っていたかのようだった。


 清潔な部屋と温かな寝具に囲まれていると、これまでの出来事が長い悪夢だったのではないかと錯覚しそうになる。


 身体を奪われたことも、家族に信じてもらえなかったことも、闇属性を持つ罪人として地下牢へ閉じ込められたことも、すべて疲労によって見た夢だったのではないか。


 だが、布団の上に置かれた自分の手を目にした瞬間、その考えは静かに否定された。


 以前より細くなった指。艶を失った肌。肩へ落ちた青い髪は十分に手入れされておらず、毛先のところどころが絡み合っている。身に着けている服も昨日までと同じく、薄汚れて草臥れたものだった。


 清潔な部屋の中にいる自分だけが、ひどく場違いに見えた。


 


(夢じゃないんだ)


 聖花は自分の手を見つめたまま、昨日の出来事を一つずつ思い返した。


 


(本当に牢から出たんだ。昨日は必死すぎて、全然実感がなかったけど……もう、あそこに閉じ込められてないんだよね)


 胸の奥へ、遅れて安堵が広がっていく。


 アーノルドの計画が完全に成功したかどうかは、まだ分からない。王宮ではすでに聖花が消えたことへ気づき、騒ぎになっているかもしれなかった。


 見張りの騎士たちが自分たちの失態を隠そうとしていたとしても、いつまでも誤魔化せるはずはない。やがて牢の中に聖花がいないことは知られ、王都のどこかへ逃げたと判断されるだろう。


 このゴルダール伯爵家が絶対に安全な場所である保証もなかった。


 アーノルドも、この屋敷の当主も、何の見返りも求めず聖花を助けようとしているとは考えにくい。彼らには彼らの目的があり、聖花はそのために必要とされているだけなのかもしれなかった。


 それでも、鉄格子に囲まれた牢の中で処刑を待っているだけだった昨日までとは違う。


 今の聖花には、自分で考える時間がある。


 自分の足で歩き、これから何をするのかを選ぶことができる。


 その違いは、何よりも大きかった。


 聖花は胸元へ手を添え、ゆっくりと息を吸った。窓の隙間から流れ込む朝の空気が、冷え切っていた身体の奥へ少しずつ染み込んでいく。


 そうしているうちに、昨夜この屋敷へ到着してからの記憶が、鮮明に蘇ってきた。





 アーノルドと別れ、迎えに来た使用人のザックに案内されながら夜の王都を歩き続けた末、聖花は一つの大きな屋敷の前へ辿り着いた。


 夜の闇に包まれていても、それが高い身分を持つ貴族の邸宅であることは一目で分かった。高い鉄柵に囲まれた敷地の奥には、横へ大きく広がる建物が佇み、いくつかの窓には二人の到着を待っていたかのように明かりが灯っている。


 門に刻まれた紋章を見た瞬間、聖花の胸には説明しにくい懐かしさが込み上げた。


 初めて訪れた場所ではない。


 けれど、いつ、どのような理由で訪れたのかを思い出すまでには、僅かな時間を要した。霧の奥へ沈んでいた記憶を探るように屋敷を見つめ続けていると、やがて過去の光景が頭の中へ浮かび上がってくる。


 華やかな衣装を身にまとった貴族たち。眩しいほどの照明に照らされた広間。自分へ向けられる数多くの視線と、その人々の中に紛れていた、一人の黒髪の少女。


 ここは、ゴルダール伯爵家の屋敷だった。


 以前、聖花がマリアンナとして初めて大規模な社交の場へ出席した場所であり、同時に奏と初めて出会った場所でもある。


 あの頃見た彼女は、黒い髪と黒い瞳を持つ、見慣れない少女だった。聖花は彼女と目が合った瞬間、理由の分からない不安と恐怖を覚えたものの、それが何を意味するのかまでは理解できなかった。

 今となっては、聖花自身がその少女の身体へ入れられている。髪には青みが混じっているものの、顔立ちも瞳の色も、あの日に見た奏のものだった。



(もしかして、あの時から私を狙ってたのかな)


 そう考えた途端、過去の記憶がこれまでとは違った意味を帯び始める。



(私が何かしたわけでもないのに、どうして私だったんだろう。最初から身体を奪うつもりで近づいてきたなら、あの時に感じた怖さも、ただの気のせいじゃなかったのかもしれない)


 胸の奥に湧き上がってきたのは、恐怖だけではなかった。


 以前の聖花であれば、自分が狙われていた可能性へ気づいただけで、悲しみと怯えに押し潰されていただろう。なぜ自分ばかりがこのような目に遭うのかと嘆き、何もできないまま涙を流していたかもしれない。


 けれど今、心の中で膨らんでいたのは、もっと熱を持った感情だった。


 何も知らない自分を利用し、身体も家族も未来も奪った奏への怒りである。


 聖花は、その感情を完全に押し殺そうとは思わなかった。怒りに任せて無謀な行動へ出れば、再び失敗することになる。しかし、怒ること自体を悪いものとして否定する必要はなかった。


 それは今の聖花にとって、立ち上がり、前へ進むために必要な感情だった。


 屋敷を見上げたまま動かなくなった聖花へ、少し先を歩いていたザックが振り返る。



「こちらですよ。どうかなさいましたか?」


 突然声を掛けられ、聖花は我に返った。ザックは不思議そうに、彼女と屋敷を見比べている。



「いえ、立派なお屋敷でしたので、つい見入ってしまいました」


 聖花は僅かに笑みを作り、何でもないことのように答えた。


 本当は、この場所を知っていると口にしかけていた。けれどザックは、聖花を平民出身か、少なくともアルバ王国の貴族社会とは縁のない少女だと考えている。


 そんな彼女がゴルダール伯爵家を訪れたことがあると分かれば、当然理由を尋ねられるだろう。


 入れ替わりについて説明しようとしても、肝心な部分だけ言葉にできなくなる可能性が高い。何より、今は自分の過去を軽々しく明かすべきではないと、直感が告げていた。


 ザックは聖花の答えを疑わず、納得したように頷く。


 

「確かに、夜に見ると少々威圧感があるかもしれませんね。ですが、中へ入ればそれほど恐ろしい場所ではございません。少なくとも、地下牢よりは快適にお過ごしいただけるかと」

 

(比べる相手が地下牢なのはどうなんだろう)


 聖花は心の中でそう思ったが、口には出さなかった。


 二人は正門を避け、屋敷の裏側へ回った。表向きにはまだ存在しない養女を、夜中に堂々と正面から迎え入れるわけにはいかないためだろう。


 裏口には使用人らしき男が一人控えていたが、ザックが何かを見せると、詳しい事情を尋ねることなく扉を開いた。聖花は俯き気味に顔を隠し、そのまま屋敷の中へ足を踏み入れる。


 夜の屋敷は静まり返っていた。


 手提げランプを持つザックの足元だけが淡く照らされ、それ以外の場所は深い影に沈んでいる。広い廊下の両側にはいくつもの扉が並び、壁には絵画や装飾品が飾られていたが、暗闇の中では細部まで確認できなかった。


 屋敷へ入ってからも、聖花の意識はゴルダール家で開かれた夜会の記憶へ引かれたままだった。


 あの日、カナデとどのような言葉を交わしたのか。彼女は自分を見ながら、何を考えていたのか。

 記憶を辿ろうとしても、肝心な部分には薄い霧が掛かっており、輪郭を掴むことができない。考え込むうち、聖花の歩みは次第に遅くなり、ザックとの距離が開いていった。



「カナデ様。立ち止まらず、こちらへお願いいたします。暗いので、お一人で歩かれると危険ですよ」


 遠ざかっていくランプの光に気づき、聖花は慌てて顔を上げた。



「申し訳ありません。少し考え事をしていました」


 小走りでザックの元へ追いつくと、彼は聖花の体力を考慮したのか、それまでよりもさらに歩調を落とした。


 二人はしばらく屋敷の奥へ進み、やがて何の変哲もない一枚の扉の前で足を止めた。位置としては建物の中央付近にあたり、外壁には面していないように思える。


 ザックは周囲に人の気配がないことを確かめ、扉へ手を掛けた。


 

「この先へは、カナデ様お一人で入るよう申しつけられております。私は外でお待ちしておりますので、どうぞ中へ」


「一人で、ですか」


「はい。当主様がお待ちです」


 ザックが開いた扉の向こうには、光のない暗い部屋が広がっていた。


 ランプを持つ彼が入らない以上、足元さえ満足に見ることができない。聖花は僅かに不安を覚えたが、ここまで来て拒むわけにもいかなかった。



(いきなり暗い部屋に一人で入れって、普通に怖いんだけど)


 心の中でぼやきながらも、聖花は慎重に敷居を越えた。


 背後で扉が閉じる。ザックのランプの光も失われ、室内は完全な暗闇に包まれた。聖花がどうすればよいのか分からず足を止めた直後、天井付近から柔らかな光が一斉に灯った。


 突然明るくなった室内に目が追いつかず、聖花は眩しさに顔を顰めた。数度瞬きをしてから改めて見回すと、そこは応接室に近い造りをしていた。


 中央には向かい合うように長椅子と椅子が置かれ、その間へ低い机が据えられている。壁には棚や装飾品が並んでいたが、窓だけはどこにも見当たらなかった。


 建物の中央に位置し、外から存在を確認できない部屋。音や光が外へ漏れないよう設計された、秘密の話をするための場所なのだろう。


 その部屋の奥では、一人の男が椅子へ腰掛けていた。

 年齢はダンドールと大きく変わらないように見える。整えられた髭と、隙のない衣服からは貴族らしい威厳が感じられ、聖花が入ってくるまで物音一つ立てずに待っていたらしい。


 男は聖花の姿を確認すると、ゆっくりと椅子から立ち上がった。


 

「初めまして、カナデ嬢。私はこのゴルダール伯爵家の当主、ヴィンセント・ゴルダールだ。貴女が来るのを心待ちにしていたよ。今夜は顔合わせだけでも済ませておきたいと思い、起きて待っていた」


 口調は穏やかだったが、その眼差しには聖花を観察するような鋭さがあった。


 聖花も、相手の視線へ怯んだ様子を見せないよう背筋を伸ばし、頭を下げる。

 


「初めまして、ヴィンセント伯爵様。このたびは私を引き受けてくださり、ありがとうございます」


「うむ。礼儀は身についているようだな」


 ヴィンセントは聖花の挨拶に満足そうに頷いた後、何かを考えるように顎へ手を添えた。



「だが、これから養女となる者が、いつまでも私を伯爵と呼んでいては不自然だ。今後、人前では私を義父と呼びなさい。あまりに他人行儀では、余計な詮索をする者も出てくる」


「分かりました。以後、気をつけます」


 聖花は素直に答えたものの、内心では僅かに戸惑っていた。


 

(いきなりお義父様って、なんか嫁いできたみたいだな)


 養女になるのだから、呼び方として不自然ではない。けれど、初対面の男をすぐに父と呼ぶことには、どうしても抵抗があった。


 聖花にとって父と呼ぶ相手は、今もダンドールただ一人だった。たとえ彼から拒絶されたとしても、これまで家族として過ごしてきた時間が消えるわけではない。


 それでも、ここでヴィンセントの要求へ逆らう理由はない。今後この屋敷で暮らし、自分の目的を果たすためには、表面上だけでも良好な関係を築かなければならなかった。


 ヴィンセントは聖花が反発しなかったことを確認すると、再び椅子へ腰を下ろした。

 


「詳しい話は明日にしよう。貴女も随分疲れているようだし、今夜はもう休みなさい。新しい生活は、明日から始めればよい」


「お気遣いありがとうございます。それでは、お休みなさいませ、お義父様」


 聖花が早速呼び方を改めると、ヴィンセントは満足そうに目を細めた。

 


「ああ。お休み、カナデ嬢」


 顔合わせは、それだけで終わった。


 何か重要な契約や、アーノルドとの関係について説明されるものだと思っていた聖花にとっては、拍子抜けするほど短い会話だった。


 扉を開けて部屋を出ると、廊下の壁際にはザックが姿勢を崩すことなく立っていた。どれほど待たされても動じない様子から、彼にとっては当たり前の仕事なのだろう。



「お待たせしてしまい、申し訳ありません」


「お気になさらないでください。これも仕事ですので」


 ザックは真顔で答えた。


 嫌味を言っているわけではなく、本当に当然のこととして受け止めているらしい。その仕事人間ぶりへ、聖花は少しだけ苦笑した。


 その後、ザックは聖花を今朝目覚めた部屋まで案内した。別れ際には、夜中に目を覚ました時のために、小さな手提げランプまで渡してくれた。


 部屋へ入った聖花は、ランプを机へ置き、周囲を確認することさえせず寝台へ向かった。


 柔らかな布団へ身体を横たえた瞬間、それまで張り詰めていた緊張が一気に解けた。足の痛みも、牢から逃げ出した恐怖も、見知らぬ家へ養女として迎えられる不安も、何もかもが疲労へ変わり、身体を深い眠りへ引きずり込んでいった。


 そして、再び目を覚ましたのが今朝だった。





 昨夜のことを一通り思い返した聖花は、もう一度布団へ身体を沈めた。


 柔らかな寝台は、長く横になればなるほど身体を離したくなくなるほど心地よかった。一晩眠った程度では疲れが抜けきっておらず、瞼を閉じればすぐに再び眠れそうである。

 


(少しくらい、もう一回寝てもいいよね)


 今日から新しい生活が始まるとはいえ、昨日まで地下牢へ閉じ込められていたのだ。せめて午前中くらいは休ませてもらえるだろう。


 聖花が布団を頭まで被ろうとした時、部屋の扉を叩く音が響いた。


 返事をするより先に、外から落ち着いた女性の声が聞こえてくる。



「おはようございます、お嬢様。恐れ入りますが、そろそろお目覚めくださいませ。朝のお支度を始めるお時間でございます」

 

(もう起きなきゃ駄目なんだ)


 聖花は布団の中で小さく息を吐いた。


 新しい家へ来た最初の朝から寝坊すれば、怠惰な娘だと思われかねない。何より、ここでの立場はまだ安定したものではなく、ヴィンセントが本当にどこまで自分を受け入れるつもりなのかも分からなかった。


 名残惜しさを覚えながら布団を退け、どうにか上半身を起こす。


 

「起きています。どうぞ、お入りください」


「失礼いたします」


 扉を開けて入ってきたのは、四十代ほどに見える女性だった。


 濃い色の髪を後頭部できっちりとまとめ、侍女服にも一切の乱れがない。やや吊り上がった目元と、真一文字に結ばれた唇のため、第一印象は厳しく近寄りがたいものだった。


 女性は室内へ入ると、まず寝台の上に座る聖花を頭の先から足元まで確認した。


 その視線は遠慮がなく、汚れた服や乱れた髪、痩せた身体の状態を一つ残らず見定めているようだった。やがて女性は深刻そうに眉を寄せ、溜息を吐いた。

 


(いきなり嫌われたかな)


 聖花は少し身構えた。


 牢へ入れられてから十分に身体を洗うこともできず、着替えさえ与えられていなかったのだから、今の姿が貴族家の令嬢に相応しくないことは自分でも分かっている。


 それでも、初対面の相手から露骨に溜息を吐かれれば、気分がよいはずはなかった。


 女性は険しい顔のまま寝台へ近づくと、聖花の髪の一房を手に取り、傷み具合を確かめるように指先で触れた。



「まあ……これは、すぐにお支度を始められる状態ではございませんね。まず先に、済ませなければならないことがございます」


「先にすること、ですか?」


 意味ありげな言い方に、聖花は警戒するように女性を見上げた。だが相手は説明しようとせず、聖花の手を取ると、そのまま寝台から立ち上がらせた。



「歩けますか」


「はい。多少であれば」


「では、参りましょう。時間が惜しゅうございます」


 女性は聖花の返事を聞くと、半ば強引に彼女を部屋の外へ連れ出した。


 身体がまだ十分に回復していないため、聖花は足をもつれさせないよう必死についていく。何をされるのか説明もないまま廊下を進み、やがて連れてこられた場所は、大きな浴室だった。



(お風呂……?)


 予想していなかった場所へ連れてこられ、聖花は入口で立ち止まった。


 浴室にはすでに湯が張られ、白い蒸気が室内を柔らかく曇らせている。棚には清潔な布や香油が並び、すぐに身体を洗えるよう準備されていた。


 女性が聖花の姿を見て溜息を吐いたのは、彼女を嫌っていたからではなく、このまま人前へ出せる状態ではないと判断したからだったらしい。


 そう理解した聖花が僅かに安心している間にも、女性は手際よく準備を進めていく。

 


「まず、髪とお身体を綺麗にいたします。その後、お召し物を改め、旦那様の元へ参ります。昨夜のようなお姿のままでは、使用人の前へ出ることもできません」


「自分で洗うことは――」


「時間が掛かりますので、私がお手伝いいたします」


 反論の余地を与えない口調だった。


 間もなく服を脱がされ、温かな湯の中へ入れられた聖花は、女性の手によって髪と身体を隅々まで洗われることになった。


 久しぶりの温かい湯は心地よかった。

 牢で身体へ染みついた冷気や汚れが、少しずつ溶け出していくように感じられる。湯へ浸かったことで強張っていた筋肉もほぐれ、身体だけを考えれば、この一週間で最も安らげる時間だった。


 しかし、聖花の心は全く落ち着かなかった。


 

(恥ずかしい……)


 他人に身体を洗われることには、どうしても慣れることができない。

 以前、マリアンナとして暮らし始めた頃にも、侍女たちが当然のように湯浴みを手伝おうとし、聖花は顔を真っ赤にして逃げ出したくなったことがある。

 その頃は、いずれ貴族の令嬢としての生活へ慣れなければならないと思い、少しずつ侍女へ任せられるようになった。それでも、親しいメイたちならまだしも、初対面の女性に身体を洗われることには強い抵抗が残っている。


 女性は聖花の羞恥など気に留めず、仕事として淡々と髪を洗い、傷んだ毛先へ香油を馴染ませていった。

 聖花は逃げ出したい気持ちを堪えながら、目を閉じる。湯の温かさと、髪を丁寧に梳かす指先の感触が、否応なく以前の暮らしを思い出させた。


 ヴェルディーレ家の浴室。毎日のように世話を焼いてくれたメイ。湯浴みの後には、ルアンナやフィリーネと茶を飲みながら話をすることもあった。


 当たり前だと思っていた、温かな日々。


 それを思い出すと、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。

 


(帰りたい)


 その願いは、今も消えていない。


 どれほど家族に拒絶されても、あの場所で過ごした記憶まで嫌いになることはできなかった。ダンドールもルアンナもフィリーネも、以前の聖花にとっては大切な家族であり、彼らから与えられた愛情が偽物だったとは思いたくない。


 けれど、今すぐヴェルディーレ家へ戻ることはできない。


 カナデがマリアンナの身体で暮らしている以上、正面から姿を現せば、再び闇属性を持つ罪人として捕らえられるだけだろう。今度もアーノルドが助けてくれる保証などなく、同じように脱獄できるとも限らない。



(焦っちゃ駄目だ)


 聖花は、湯の中で指を握り締めた。



(まずはここで生きられるようになって、力をつける。それから奏のことを調べて、元に戻る方法も探す。今の私にできることを、一つずつやるしかない)


 戻りたいという願いだけに縋るのではなく、そのために何をすべきかを考えなければならない。牢を出ると決めた時から、聖花はそう覚悟していた。


 女性の手が、絡まっていた髪を少しずつ解いていく。その感触を受けながら、聖花は胸の内に残る寂しさを無理に押し込めるのではなく、前へ進むための理由として静かに抱え直した。


 昨日までの自分は、罪人として死を待つだけだった。


 けれど、今日からは違う。姿も家族も変わってしまったとしても、聖花の人生はまだ終わっていない。

 ゴルダール伯爵家で迎えた最初の朝。それは、奪われた人生を取り戻すために彼女が踏み出す、新たな始まりだった。

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新作短編作品 百番目の死神
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