2.闇への執着
為されるがままに浴室での時間は過ぎ去った。
乾かした髪を整えながら、少し満足げな表情を浮かべた女性が聖花の目に入る。
(この人は、誤解されやすい顔だけれど、そこまで悪い人間ではない‥‥‥)
この数ヶ月で様々な人々を聖花は見てきた。
無条件に愛を与えてくれるヴェルディーレ家の人々に陰湿な貴族や心優しい貴族たち、悪意や敵意を向けてくる者に腹黒い者。
皮肉なことにそのお陰で、ある程度は観察すると、その人の人間性が分かるようになったのだ。
但し上手く隠し通す人間もいるので、本当の所はどうか分からない。
それでも、そんなことをする余裕を与えてくれた人間に聖花は心から感謝している。
「‥‥では、参りましょう」
女性は、聖花の思考を読んだかのように真顔に戻り、ゴホンッと咳払いした。
聖花の意識がそちらに向くのを見計らって合図する。
(朝食にはまだ早い‥‥‥。成る程ね)
聖花は瞬時に目的地を理解した。
ヴィンセント伯爵がいる部屋に行くのであろう、と。
同時に、きっとそこで本格的な話をするのだろう、とも思った。
「分かりました。参りましょうか?伯爵様の元へ」
もしかしたら報告を命じられているかもしれないので、聖花は念の為、少しでも頭が回ることを密かにアピールしておいた。
行き場所を敢えて伝えていなかった女性は、僅かながら反応している。
「‥‥‥‥。こちらです」
どうやら正解のようだ。
女性は数秒間聖花を無言で見た後、扉を開けて廊下へと誘導する。
先ほどよりも更に落ち着いた様子である。
女性に従って、聖花が廊下へと出る。
先ほど浴室に連れ出された時は見る暇もなく気が付かなかったが、聖花が昨夜見た景色とはまた違う光景が広がっていた。
暗くて薄気味悪かった屋敷は、硝子が陽の光を反射して輝いているように見え、夜には心許ない蝋燭も今は美しく揺れ動いている。
何よりもあちこちにメイドたちがおり、忙しく動き回っていて、活気があった。
あまりに慌ただしく、カナデの存在を気にも留めていない。
貴族たちが朝動き出すのは遅いので、ヴェルディーレ家では見られなかった光景だ。
「着きました、お入りください」
真っ直ぐに進んでいくと、昨夜訪れた部屋の前で女性は立ち止まる。ノックを二回ほどして彼の返事が来るのを待った後、彼女は扉を開いた。
聖花と共に中へと入る。
「失礼いたします、御当主様。お待たせして申し訳ございません。
ご指示通りカナデ様をお連れしました」
「うむ。メイド長よ。思ったより遅かったな。‥‥何をしていた?」
ヴィンセントの言葉に聖花は驚いたが、この緊張感の中、表情を無闇やたらに顔に出す訳にもいかなかった。
彼女は出来る限り動揺を見せないよう努めておくことにした。
それにしても、ヴィンセントが聖花に昨夜見せた様子が異なる。
威厳があるのは変わらないが、何というか言葉の一つ一つに温かみがないのだ。
昨夜はもう少し人間味が籠もっていた。
「あまりに見ていられない御姿をされており、
身勝手ながら湯浴みを済ませて参りました」
メイド長にとっては見慣れた光景であり、これがヴィンセントの本性なのであろう。
彼女は尻込みせず、依然として堂々とした態度を貫いている。
数秒間、ヴィンセントとメイド長が鋭い視線を交わせていた。
無言で見詰め合う様は、まるで目線だけで会話をしているようだ。
‥‥その空気が会話と言えるのかは別物ではあるが。
兎に角、これ以上時間を浪費することを無駄に感じたのか、ヴィンセントが先に視線を外した。
考えるように少し伸びた髭を触っている。
「まぁ、良いだろう。その件については不問とする。
ここからはカナデ嬢と二人で話がしたい。………分かるな?」
「畏まりました。では、私は一度戻らせて頂きます」
彼がゆっくりと視線を扉の方に移す。
言わずもがな、つまりはそういうことだ。
メイド長が出て行くのを確認して、ヴィンセントは聖花の方へと視線を向け直した。
先ほどまでの睨むような視線ではなく、貴族たる威厳を含む、心ある目に見える。
だが、所詮それはただの偽りに過ぎないことは明らかだった。
やはり貴族は恐ろしいな、と、聖花は笑顔を貼り付けたまま口を僅かながら引きつらせた。
もしかしたら敢えて先の会話を聞かせたのかもしれない。
「ああ、待たせてしまった。おはよう、カナデ嬢よ。
昨夜はぐっすり眠れたか?」
「………お陰様で」
そんなことを知ってか知らずか、ヴィンセントが他愛もない話を始めようとする。
彼の余りの変わり様に聖花は不信感を抱いて、彼をじっと見た。
御託はいいから早く言え、というように。
「成る程、世間話は望んでいないようだ。話が早くて助かるよ。
さて、嬢が我が家紋の養女となるのは使用人から聞いたな?
闇属性の魔術は何とも素晴らしい。何故、皆が恐れるのか到底理解できん。野望を叶えることさえも可能だというのに…!!」
ヴィンセントが座っていた椅子から立ち上がりながら、何かに取り憑かれたように恍惚とした顔で語り出した。
そこに威厳などは消え失せ、部屋中に尋常じゃないほどの狂気が漂っている。
聖花は身の危険を肌で感じとって、思わずたじろいだ。
ヴィンセントがコツコツと近付いてくる。
「私は、嬢のような存在を、
ずっと、ずっと、求めていたのだ………!!
私の手の届く所に舞い降りないものかと何度思ったか、!」
彼の激情は留まることを知らず、段々と昂ぶっていく。
しかし部屋は防音なのか、外に音は響いていない。
聖花は彼の感情を何とかして収められないものかと、慌てながらも頭をフル回転させた。
「お義父様!!!落ち着いてください!!!!」
結果、出た言葉がこれである。
聖花はヴィンセントより一際大きな声を張り上げた。
目には目を歯には歯を、とは言うように、感情には感情をぶつけたのだ。
しかし、彼には効果的だったようで、ハッとしたように歩を止めた。
ほんの少し前までの様子が嘘のようだ。
「あ、あぁ。話が逸れてしまったな。すまない。」
「それで、養女の話から続きを」
聖花は、一見平静な気持ちを取り繕って、話を戻してもらうよう彼に促した。
加えて、彼女が目的を果たすまで、入れ替わりの事実を彼にだけは絶対に知られてはいけないと思っていた。
何をされるか分かったものじゃない。
「……うむ。一先ず、カナデ嬢には契約書にサインしてもらおう。
警戒せずとも、全て養女についてのものだ。安心しなさい。
それから、呼び方を改めさせてもらう。
娘に嬢は可笑しいだろう?」
ヴィンセントが同意を求めるかのように、カナデをじっと見る。
彼女はここぞとばかりに彼にお願いをすることにした。
「確かに、そうですね……。名前のことなのですが、
お義父様にお願いがあるのですが、よろしいですか?」
「申してみい」
「これから、私のことは『聖花』と呼んでください」
一刻真剣な顔でソレを口にする。
ヴィンセントは訝しげな様子で彼女を見ている。
理由を伝えろ、と目が訴えていた。
聖花は続ける。
「万が一、前の名前を知る者がいたら、何かを疑う者が出ることでしょう。ですのでいっそのこと、名前を変えてしまう方が良いかと思いました」
嘘と真実を織り交ぜた話はより信憑性が増す。
実際にヴィンセントも納得したようだった。
因みに、名前の由来については特に興味がないようで、彼が尋ねる様子はなかった。
「次に、教育についてだ。入学については事前に聞いた通りだ。
時間に猶予がないので、今日の午後から早速始めることとする。
……丁度、学園が長期休暇に入っておるのだ。
手頃な教師を呼びつけておいたから、しっかりと学ぶように。」
「はい」
特に問題もなかったので、聖花は素直に返事をした。
といっても、元々マリアンナに転生した彼女には、詳しくは分からずとも自然に貴族の作法が出来るようにはなっていたのだ。
記憶の中から引き出すことは叶わなかったが、日々のマリアンナ本人の研鑽のお陰だろう。
加えて、学園の試験に備えて国の歴史を猛勉強した彼女にはある種不要でもあった。
しかし、彼女は面倒事を避ける為、知らん振りをして教育に励むつもりでいた。
「カナ‥‥、いやセイカの魔術が成長してきた後に頼みたいことがある。それまではある程度、自由にしていい。但し、勉学だけは怠るな」
聖花は何も聞かずに頷いた。
今はまだ、彼の野望とやらを話すつもりがないのであろう。
身の安全が確保された所で、彼女はヴィンセントの部屋から立ち去った。
次回、一部ざまぁ展開です。




