12.一方ヴェルディーレ家では②
マリアンナが闇属性を持つ少女に襲われたとされる事件から、ちょうど一週間が過ぎようとしていた。
あの日、屋敷の中へ突然現れた見知らぬ少女は、自分こそが本物のマリアンナであると繰り返し訴え、目の前にいた令嬢を偽物だと叫びながら襲いかかった。家族や使用人たちにとって、それはあまりにも唐突で、理解の及ばない出来事だった。
犯人とされた少女は王宮の地下牢へ送られ、襲われたマリアンナは無事に家族の元へ戻った。
表面的に見れば、事件はすでに終わっている。
屋敷の壊れた調度品は取り替えられ、騒ぎの際に乱れた部屋も元通りに整えられた。事件直後には緊張した面持ちで廊下を行き交っていた使用人たちも、徐々に以前と同じ仕事ぶりを取り戻している。
ヴェルディーレ家もまた、完全ではないにせよ、少しずつ元の日常へ戻ろうとしていた。
ただ、家族たちは以前よりもずっと慎重にマリアンナを扱うようになっていた。
屋敷の中を移動する際には、必ず侍女か護衛が付き添う。外出は原則として認められず、気分転換を望んだ時でさえ、本邸の庭を歩くことしか許されなかった。事件の直後などは、専属侍女であるメイが夜間を除いてほとんど付ききりとなり、自室の中にまで控えていたほどである。
家族の誰もが、マリアンナは表に出さないだけで深く傷ついているのだと考えていた。自分と同じ顔を持つ不審な少女に襲われ、家族の目の前で偽物だと罵られたのだから、心に傷を負っていないはずがない。今は元気そうに見えても、無理をしているだけなのかもしれない。
だからこそ、彼女の前では事件の話題へ触れないことが、いつの間にか家族と使用人たちの暗黙の了解となっていた。
けれど、当の本人――マリアンナの身体を奪った奏にとって、その気遣いはありがたさよりも煩わしさの方が大きかった。
「もう、一週間か……」
自室の窓辺に立った奏は、薄暗くなり始めた庭を眺めながら、小さく呟いた。
夕方の光を受けた庭木は長い影を落とし、遠くでは護衛の騎士が一定の間隔を保ちながら巡回している。窓から見える範囲だけでも、屋敷の警戒が以前より厳しくなっていることは明らかだった。
奏にとって、この一週間は予想以上に息苦しいものだった。
廊下へ一歩出れば、必ず誰かが付き添う。庭へ出たいと言えば、侍女に加えて屈強な騎士まで同行する。自室で一人になりたいと訴えても、初めの三日ほどは、メイが少し離れた場所へ控えていることさえ許されなかった。
奏は、心を落ち着けるために一人で過ごしたいのだと、傷ついた令嬢らしく控えめに訴えた。
それによって、ようやくメイは部屋の外で待機するようになったものの、完全な自由を取り戻せたわけではない。少し大きな音を立てればすぐに声を掛けられ、呼び鈴を鳴らさなくても、食事や着替えの時間になれば扉の向こうから確認の声が聞こえてくる。
家族に大切にされているのだと考えれば、悪いことではない。乙女ゲームの主人公として愛され、何不自由なく暮らせる生活を望んでいた奏にとって、本来ならば理想的な環境であるはずだった。
しかし、実際にその立場へ収まってみると、ゲームの画面越しには見えなかった面倒がいくつも存在していた。
(想像していた以上に過保護なのよね……)
奏は窓辺から離れ、部屋の中央に置かれた長椅子へ腰を下ろした。
(この状態で、本当に学園へ通わせてもらえるのかしら。事件があったから危険だ、なんて言われて屋敷へ閉じ込められたら、計画が全部狂ってしまうわ)
ゲームの物語が本格的に始まるのは、マリアンナが学園へ入学してからである。
攻略対象との出会いも、友情も、愛情も、ほとんど全てが学園を舞台として進んでいく。奏がこの身体を手に入れた最大の理由は、ゲームの主人公として、その物語を自分のものにするためだった。
それなのに、事件を理由に入学そのものを延期されては意味がない。
(お母様からお父様へ話してもらうのが一番かしら。ルアンナはマリアンナへ甘いようだし、私が少し落ち込んだ顔をすれば、学園へ行くことが心の回復につながると考えてくれるかもしれない)
父であるダンドールへ直接頼むより、母を通した方が話は進みやすいだろう。フィリーネもマリアンナを大切にしているため、上手く頼めば味方につけられる。
攻略対象ではないギルガルドについては、多少扱いづらいところがあるものの、妹へ強い関心を示しているようには見えない。無理に近づかなければ、大きな障害にはならないはずだった。
そう考えながら、奏は一週間前の光景を思い出した。
自分こそが本物のマリアンナだと訴え、家族へ縋ろうとした馬鹿。
見知らぬ姿となった彼女へ、ダンドールやルアンナが疑念と敵意を向けた瞬間。自分が怯えたふりをすればするほど、家族の意識がこちらへ集まり、聖花の言葉が届かなくなっていったあの状況。
思い出すだけで、胸の奥へ甘い満足感が広がった。
けれど、それを表情へ出すわけにはいかない。
誰かに見られている場所で、あの時のことを楽しげに振り返れば、不審に思われる可能性がある。
幸い、今は部屋の中に一人だった。奏は僅かに唇を歪めたものの、すぐにその笑みを消した。
廊下にはメイが控えている。
声が漏れれば、何をしていたのか尋ねられるかもしれない。自室でさえ、完全に安心できる場所ではないのだ。
(本当に面倒。初めから私がマリアンナとして生まれていれば、こんな苦労はしなくて済んだのに)
不満を胸の内で吐き出したところで、控えめなノックが響いた。
「お嬢様、そろそろ夕食のお時間でございます」
扉越しに聞こえてきたのは、メイの落ち着いた声だった。
奏は反射的に表情を整え、長椅子から立ち上がる。窓の外へ目を向けると、いつの間にか日はほとんど沈み、庭を覆う影も濃くなっていた。
「分かりました。毎日、長い時間付き合わせてしまってごめんなさい。入ってもよいわ」
「失礼いたします」
静かに扉が開き、メイが室内へ入ってくる。
奏は、ゲームの中で見たマリアンナの仕草を思い出しながら、申し訳なさそうに微笑んだ。
自分のために侍女が部屋の前へ立ち続けていることを気遣う、心優しい令嬢。その役を演じることには、この一週間で随分慣れてきた。
メイは手早く奏の身なりを確認し、僅かに乱れていた髪を整えると、夕食へ向かう準備を済ませた。
その間、奏は鏡越しにメイの表情を窺っていた。
何かを疑っている様子はない。事件以前のマリアンナと、今の自分の違いへ気づいているようにも見えなかった。
それでも、油断するつもりはなかった。
メイはマリアンナの専属侍女として、日常の些細な癖や好みまで知っている人物である。一つ一つは小さな違いでも、積み重なればやがて疑念へ変わるかもしれない。
「それでは、参りましょう」
「ええ」
奏はメイに促され、自室を後にした。
夕食の用意された部屋へ向かう間も、メイは半歩後ろを歩き、常に奏の動きを見守っている。
奏は歩幅を意識し、姿勢を正し、ゲームの中のマリアンナがそうしていたように、静かで上品な振る舞いを保った。
完璧に演じられているはずだ。
少なくとも奏自身は、そう信じていた。
食堂の扉が開かれると、すでに家族全員が席へ着いていた。
「遅くなってしまい、申し訳ございません」
奏は僅かに頭を下げた。
ダンドールはすぐに穏やかな笑みを浮かべ、気にする必要はないとでも言うように片手を上げた。
「マリーが謝ることではないよ。支度に時間が掛かることなど、些細なことだ。それより、これで皆揃ったね。料理を運ばせよう」
「ありがとうございます、お父様」
奏が自分の席へ着くと、控えていた使用人たちが静かに動き始め、間もなく温かな料理が次々に並べられていった。
部屋の空気は穏やかだった。
家族たちは奏を気遣っているのか、事件へ関係する話題を避け、庭の花や領地から届いた報告、最近王都で評判になっている菓子店の話など、当たり障りのない会話ばかりを選んでいる。
フィリーネは、以前から気になっていた店の焼き菓子を、今度一緒に食べようと誘った。
ルアンナは、無理に外出する必要はないけれど、気分がよくなったら庭でお茶をしましょうと優しく提案した。ダンドールも、何か欲しいものがあれば遠慮せず言うようにと繰り返した。
誰もが、奏を傷つけないように細心の注意を払っていた。
奏としても、その方が都合がよかった。事件の話を細かく尋ねられれば、答えの矛盾から疑いを持たれる可能性がある。
何より、聖花が絶望した顔で連れ去られていった場面を思い出せば、ふとした拍子に笑みを浮かべてしまうかもしれない。
今の奏にとって、家族が事件へ触れないことは、願ってもない状況だった。
このまま何事もなく食事を終え、湯浴みを済ませ、自室へ戻る。そうして、ゲームが始まるまでの退屈な日常が、今日も静かに過ぎていくのだろう。
奏はそう考えていた。
だが、その日の食卓では、唯一、ギルガルドだけが周囲と同じ態度を取っていなかった。彼は食事が始まってからほとんど会話へ加わらず、時折視線を上げては、奏の様子を静かに観察していた。
家族の誰かが話しかければ必要最低限の返事はするものの、その関心は明らかに目の前の料理ではなく、マリアンナの姿をした少女へ向けられている。
奏も何度か視線へ気づいたが、特に気には留めなかった。
ギルガルドは元々無口で、何を考えているのか分かりにくい人物である。
妹が事件に巻き込まれたのだから、多少気に掛けているのだろう。その程度にしか考えていなかった。
しかし、ギルガルドが奏を見つめていた理由は、家族が想像するような心配ではない。
彼の中では答えが出ていた。
目の前にいる少女は、確実に前の彼女ではない。
ギルガルドはその事実を、まだ家族へ話していなかった。証拠が足りないからではない。話す気がなかったのだ。
ギルガルドは、奏が家族との会話へ応じる様子を注意深く観察した。
言葉遣いは似せている。姿勢や食器の扱いにも、大きな乱れはない。おそらく、事前にマリアンナの振る舞いについて調べていたのだろう。
しかし、どれほど外側を整えても、完全に同じ人間になることはできない。
以前の彼女であれば、フィリーネから菓子店の話を聞いた時、もう少し素直に目を輝かせていたはずだ。ルアンナから庭での茶会を提案されれば、相手へ気遣わせていることを申し訳なく思い、戸惑いながらも礼を言っただろう。
今の少女も、表面上は同じように微笑み、礼を述べている。
だが、その反応にはどこか計算された間があり、相手の愛情を喜ぶより先に、どのような返事をすれば正しく見えるかを選んでいるように感じられた。
家族の者が見れば、事件によって以前より慎重になったのだと考える程度の違いでしかない。
けれど、すでに真実へ辿り着いているギルガルドにとっては、その僅かなずれの全てが、目の前の少女が偽物であることを示す証拠に見えた。
やがて食事が半ばまで進んだ頃、ギルガルドは手にしていた食器を静かに置いた。
「……あの事件から、一週間が経ったな」
その言葉が発せられた瞬間、穏やかだった食卓の空気が凍りついた。
誰もが、事件についてはマリアンナの前で触れないようにしていた。その暗黙の了解を、よりにもよって普段ほとんど自分から会話を始めないギルガルドが破ったのである。
ダンドールは驚いたように息子へ視線を向け、すぐに止めるよう目で訴えた。ルアンナは心配そうに奏の顔を窺い、フィリーネも僅かに眉を寄せながらギルガルドを見た。
奏自身も、思いがけない話題に一瞬だけ身体を硬くした。
(何を言い出すのよ)
顔には出さないよう努めたものの、胸の内には焦りが走る。
(皆がわざわざ触れないようにしてくれているのに、どうして今その話を出すの。事件のことを詳しく聞かれたら、答えを考えなければならないじゃない)
ダンドールは、ギルガルドへ僅かに首を振り、それ以上続けるなと伝えようとした。フィリーネも口を開きかけたが、それより先にギルガルドが言葉を続ける。
「皆の前では以前と変わらず過ごしているようだが、本当に無理をしているわけではないのか」
彼は奏から一度も視線を逸らさなかった。
声だけを聞けば、事件へ遭った妹を心配しているように思える。けれど、その眼差しには、労わりとは別の鋭さが込められていた。
曖昧な返事や、周囲の助けを許さず、奏自身の口から答えを引き出そうとする強い圧力がある。
フィリーネは兄の意図を測りかねたまま、結局何も言えずに口を閉ざした。
奏は、ほんの僅かな間だけ返答を考えた。
事件を思い出して辛いと答えれば、家族の心配はさらに強くなり、学園へ通うことが難しくなるかもしれない。かといって、全く気にしていないように振る舞えば、不自然に思われる可能性がある。
「ご心配ありがとうございます、お兄様」
奏は、少し困ったような笑みを浮かべた。
「確かに、初めは怖い思いをいたしました。けれど、皆様が傍にいてくださいますから、今は大丈夫です。無理をしているわけではございません」
恐怖を完全に否定せず、家族への感謝へ結びつける。
我ながら、悪くない返答だと思った。ダンドールやルアンナの表情も、少しだけ安堵したように緩んだ。
奏はそれを見て、心の中で胸を撫で下ろす。
(何だ。単に心配してくれていただけなのね)
ギルガルドへ対する警戒も、すぐに薄れていった。
(無口で近寄りがたいけれど、本当は妹思いという設定なのかしら。攻略対象ではなかったけれど、顔は十分整っているし、もう少し親しくなっておいても損はなさそうね)
そう考えた瞬間、奏の微笑みへ僅かな甘さが混じった。
兄から心配される妹を演じるための笑みというより、好ましい異性から関心を向けられたことを喜ぶような、ほんの僅かな変化だった。
ダンドールもルアンナも気づかなかった。奏自身も、自分の内心が表情へ滲んだことに気づいていない。
しかし、ギルガルドは見逃さなかった。
それは一瞬のことであり、何も知らない者が見れば、心配してくれた兄へ安心しただけだと受け取っただろう。けれどギルガルドにとっては、もはや確認するまでもない違和感だった。
「そうか」
彼は小さく答えた。
それ以上問い詰めることはせず、途中まで口をつけていた料理を残したまま席を立つ。
「ギルガルド?」
ルアンナが呼び止めたが、彼は振り返らなかった。
「少し、用事を思い出した」
短く告げると、そのまま食堂を出ていく。
扉が静かに閉じられた後、部屋には何とも言えない気まずさが残った。
ダンドールは困ったように眉を寄せ、ルアンナは奏の顔色を窺った。
「マリー、ギルガルドも悪気があったわけではないのよ。あの子なりに、貴女のことを心配しているのだと思うわ」
「ええ、分かっております、お母様」
奏は気丈に微笑んだ。
「お兄様が心配してくださったことは、むしろ嬉しく思っていますから。どうかお気になさらないでください」
その答えに、家族は揃って安堵した。
ダンドールは話題を変えるため、領地で近く開かれる祭りについて話し始め、ルアンナもそれに応じる。食卓には徐々に以前の穏やかさが戻り、奏も何事もなかったかのように会話へ加わった。
ただ一人、フィリーネだけは、先ほどの奏の表情を思い返していた。
何かがおかしい。
けれど、何がおかしいのかを言葉にできるほど、はっきりしたものではない。
事件の後、妹が以前より落ち着いて見えること自体は、不自然ではなかった。
極度の恐怖を経験したことで、感情を表へ出さなくなった可能性もある。家族を心配させないため、無理に笑っているのかもしれない。友人を屋敷へ招かなくなったことも、事件を思い出したくないからだと考えれば説明がつく。
先ほどの笑みについても、兄から気遣われたことが嬉しかっただけだと言われれば、それ以上疑う理由はない。
それでもフィリーネの胸には、細い棘のようなものが残った。
あの瞬間に浮かんだ笑顔は、自分がこれまで見てきたマリアンナのものとは、少し違っていたように思う。
以前の妹であれば、ギルガルドから真っ直ぐ心配されれば、驚き、戸惑い、それから照れを隠すように視線を伏せていただろう。
今のマリアンナは、ほんの一瞬だけではあるが、その状況を楽しんでいるように見えた。
だが、それだけで妹を疑うことなどできなかった。
自分の見間違いかもしれない。事件の影響によって、マリアンナの反応が多少変わっただけかもしれない。何より、今のフィリーネは、目の前にいる少女が別人であるなどとは、夢にも思っていない。
彼女の中に生まれたのは、明確な疑念ではなく、以前の妹との間に薄い膜が一枚挟まっているような、説明しにくい距離感に過ぎなかった。
(私が気にしすぎているだけなのかしら)
フィリーネはそう考え、ひとまず食事へ意識を戻した。
事件に遭った妹を疑うような真似はしたくない。
今はまだ、無理に問いただすべきではないだろう。
ただ、何かがはっきりするまでは、少しだけ注意して見ていよう。妹が本当に苦しみを隠しているのなら、いずれ支えになれるかもしれない。
そう自分へ言い聞かせながら、フィリーネは奏の横顔をそっと見つめた。
奏はダンドールの話へ穏やかな笑みを返している。
その姿は、誰が見てもマリアンナ・ヴェルディーレそのものだった。少なくとも、真実を知らない者の目には。
一方、食堂を出たギルガルドは、人気のない廊下を無言で歩いていた。
背後から家族の笑い声が微かに聞こえてきたが、彼が足を止めることはない。
地下牢の鏡を通じて見た少女。
自分を「お兄様」と呼んだ、青い髪と黒い瞳を持つ罪人。そして今、マリアンナの顔を使いながら、自分へ妹とは異なる感情を向けた少女。
もはや、迷う余地はなかった。
以前の彼女は、今も牢獄にいる。
そう確信した後、ギルガルドは自室へ戻ると扉へ鍵を掛け、誰にも見られていないことを確かめた後、以前と同じように自身の影を作り出した。
「もう一度、確かめる必要があるな」
低い声で呟き、鏡へ魔力を流し込む。
けれど彼は、まだ知らなかった。
自分が再び地下牢へ意識を向けようとしているその夜、例の彼女が、すでに牢から消えようとしていることを。
2章もそろそろラストです!
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