13.脱獄 前半
昼間であれば、貴族や官吏、王宮に仕える使用人たちが絶えず行き交い、静けさとは無縁の王宮も、夜が深まるにつれて少しずつ別の顔を見せ始める。
煌びやかな広間を彩っていた照明の多くは落とされ、長く伸びる廊下には、一定の間隔で置かれたランタンの明かりだけが残されていた。日中はひっきりなしに開閉されていた扉も固く閉ざされ、人の話し声や衣擦れの音はすっかり鳴りを潜めている。
今、王宮内を歩いているのは、夜間警備を担当する騎士や、必要最低限の使用人だけだった。
それでも王族の暮らす場所である以上、完全に人の目が消えることはない。誰か一人にでも見つかれば、その瞬間に計画は破綻する。
だからこそアーノルドは、決行の時間が訪れるまで、自室で普段と変わらぬ姿を装っていた。
机の上には処理途中の書類が広げられ、ランプの火も消していない。もし誰かが部屋の外から様子を窺ったとしても、第二王子は今夜も遅くまで執務を続けているようにしか見えないだろう。
寝台にも細工を施してあった。
いくつかの枕と毛布を組み合わせ、外から見れば人が横たわっているように形を整えている。扉には内側から鍵を掛け、廊下側には僅かな物音が漏れるよう、風の魔術を使って一定の間隔で紙を捲る音まで作り出していた。
そこまで準備を済ませたアーノルドは、普段身に着けている華美な衣服を脱ぎ、動きやすい黒一色の装束へ着替えた。
身体の輪郭を隠すように布を巻き、口元も覆う。
腰には剣を提げていたが、王家の紋章が刻まれた鞘は布で隠している。
鏡へ映る姿だけを見れば、王族というより、夜陰に紛れて人を襲う暗殺者と呼ぶ方が相応しかった。
「……十分だな」
誰へ聞かせるでもなく呟くと、アーノルドは机の上へ置いていたランプの明かりを僅かに落とし、窓を開けた。
冷えた夜風が室内へ流れ込み、書類の端を揺らす。
窓の下には、王宮を囲む庭と石畳が広がっている。地面までの高さは、普通の人間であれば飛び降りようと考えることすらないほどだった。
だが、アーノルドは躊躇しなかった。
窓枠へ片足を掛け、周囲に人影がないことを確かめると、そのまま身を躍らせる。
身体が夜の空気を切り裂き、一気に落下した。黒い外套が風を受けて僅かに膨らみ、地面が見る間に迫ってくる。
石畳へ叩きつけられる寸前、アーノルドは片手を下へ向けた。足元に巻き起こった風が落下の勢いを押し返し、身体を柔らかく受け止める。
彼はほとんど音を立てることなく地面へ降り立った。
靴底が石畳へ触れた時に生じた僅かな音さえ、周囲へ展開していた防音の魔術によって完全に消されている。
アーノルドはすぐに姿勢を低くすると、王宮の壁沿いに移動を始めた。庭を横切るような危険な真似はしない。
騎士が見回りに使う経路も、物陰から見えやすい場所も、事前に全て把握している。建物の影と庭木の間を縫うように進み、巡回の騎士が近づけば足を止め、視線が外れた瞬間だけ動いた。
昼間であれば、王族がこのように隠れて移動する必要などない。堂々と歩き、誰かに尋ねられれば視察だと答えれば済む。
しかし今夜に限っては、アーノルドが地下牢へ近づいたという事実そのものを、誰にも知られるわけにはいかなかった。
やがて彼は、王宮の中心部から離れた場所に建つ、小さな建物の前へ辿り着いた。石造りの壮麗な王宮とは対照的に、その小屋はひどく古びていた。
木製の壁はところどころ黒ずみ、屋根の一部には苔が生えている。事情を知らない者が見れば、長年使われていない倉庫だと思うだろう。
だが、その建物の地下には、王宮で管理される罪人たちを収容する牢獄が存在していた。
小屋の脇には、全身を鎧で覆った騎士が一人立っている。
警備という役目を与えられているにもかかわらず、男の瞼は半分ほど閉じ、時折大きく頭を揺らしていた。眠気に耐えながら立っていることは明らかで、周囲へ十分な注意を払っているようには見えない。
アーノルドは建物の影へ身を隠し、暫く騎士の様子を観察した。
もう一人交代の者がいる気配はない。周囲に他の騎士が近づいてくる足音も聞こえなかった。
彼は口元を覆う布を僅かに押さえると、風上からゆっくりと騎士へ近づいた。
音を消す魔術を使っているとはいえ、姿を見られれば意味はない。気配そのものを薄くし、一歩ずつ距離を詰めていく。
騎士が異変に気づいたのは、アーノルドが手を伸ばせば触れられるほど近くまで迫った時だった。
「なっ――」
男の目が大きく開かれる。腰の剣へ手を伸ばそうとしたものの、その動きは途中で力を失った。
膝が崩れ、身体が前へ傾く。アーノルドは倒れ込む騎士を片腕で支え、鎧が地面へぶつかる前に静かに横たえた。
男の意識は、すでに完全に失われている。
アーノルドはここへ到着するより少し前から、周囲へごく薄い睡眠作用のある霧を流していた。匂いも色もほとんどなく、吸い込んだ者の意識を徐々に鈍らせる。騎士が眠気を感じていたのも、夜勤の疲労だけが原因ではなかった。
アーノルド自身は口と鼻を布で覆い、風の流れも調整していたため、その影響を受けていない。
「安心しろ。暫く眠るだけだ」
アーノルドは、すでに眠っている騎士へ小さく声を掛けた。
当然、返事はない。
騎士の呼吸と脈を確認し、命に別状がないことを確かめると、アーノルドは呆れたように男の顔を見下ろした。
王宮の地下牢へ続く入り口を一人で守っているにもかかわらず、異変へ気づくのが遅すぎる。
もし相手が罪人を逃がそうとする王族ではなく、王家へ害意を持つ者だったなら、地下牢だけでなく王宮そのものへ侵入されていた可能性さえある。
「警備の見直しも必要か」
今夜、自ら警備を突破しようとしている者が口にする言葉としては、あまりにも身勝手だった。
だがアーノルドは気に留める様子もなく、騎士の腰から鍵束を取り外すと、小屋の扉を開けて中へ入った。
室内には、地下へ続く石造りの階段がある。下から吹き上げてくる空気は冷たく、湿気と古い鉄の匂いを含んでいた。
アーノルドは扉を静かに閉めると、階段を下り始めた。
靴音そのものを完全に消しているわけではない。石段へ足を置くたび、硬い音が周囲へ響いている。
ただし、アーノルドの周囲には風によって作られた薄い壁があり、その内側で生じた音は、一定の範囲から外へ漏れないようになっていた。
見回りの騎士と遭遇する可能性はあるものの、遠くから足音を聞きつけられる心配はない。
地下へ下りるにつれて、光は弱くなっていく。一定の間隔で壁へ掛けられたランタンが、僅かに通路を照らしているだけだった。
アーノルドは躊躇なく奥へ進んだ。
途中で二人の騎士と遭遇したが、地下のように空気の流れが悪い場所で睡眠の霧を使えば、聖花や他の罪人まで巻き込む可能性がある。
そのため、今度はより直接的な手段を選んだ。
一人目には、声を上げる暇を与えず背後から首筋へ一撃を加えた。
二人目は異変に気づき剣を抜こうとしたものの、その腕を取られて壁へ押しつけられ、次の瞬間には意識を失っていた。
どちらも命に関わる傷は負わせていない。ただ、目を覚ました時には、しばらく首や背中の痛みに悩まされることになるだろう。
アーノルドは二人を目立たない壁際へ移動させると、何事もなかったように歩き始めた。
夜間に罪人の監視を任される騎士たちは、王宮内でも立場が強い者ばかりではない。過去に何らかの失態を犯した者や、表立って処罰できない事情を抱えた者が、この場所へ回されることも多かった。
彼らは朝になって聖花が消えたことへ気づいたとしても、すぐに上へ報告するとは限らない。
自分たちが任務中に気絶させられ、罪人を逃がしたと知られれば、重い処罰を受ける。そう考えれば、まずは互いに口裏を合わせ、自分たちの失態を隠そうとする可能性が高い。
アーノルドは、そこまで見越して今夜の計画を立てていた。
やがて彼は、見慣れた鉄格子の前へ辿り着いた。
薄暗い牢の中では、青い髪の少女が冷たい石床へ横たわっている。身体を小さく丸め、アーノルドへ背を向けていたため、眠っているのかどうかは分からなかった。
「カナデ。起きているか」
声を掛けても、すぐには反応がない。牢へ近づき、もう一度呼ぼうとしたところで、石床に横たわっていた少女の肩が僅かに動いた。
「……はい」
間を置いて返ってきた声は、疲れ切っているように掠れていた。
「全く眠れませんでした。待っている時というものは、なかなか時間が進まないものですね。すっかり待ちくたびれてしまいました」
聖花はそう言いながら、床へ手をつき、ゆっくりと身体を起こした。
長い間じっと横になっていたためか、立ち上がる動作はひどく重い。それでも、乱れた青い髪の隙間から覗く黒い瞳には、昼間までとは明らかに違う光が宿っていた。
身体は疲れ切っていても、気持ちは眠っていない。
アーノルドは、その様子を確認するように聖花の顔を見つめた後、僅かに眉を下げた。
「遅くなって、すまない」
「承知の上です」
聖花は平静を装って答えた。
だが、内心では思わず聞き返しそうになるほど驚いていた。
(素直に謝った!?)
昼間までのやり取りを思い返せば、アーノルドは自分の非を簡単に認めるような人物には見えなかった。
何かを言い返しても上手く煙に巻き、むしろこちらの方が悪いように思わせる。そんな性格の男が、言い訳もせず謝罪したのである。
(いや、失礼だけど、本当に意外すぎる。明日、何か起きるんじゃないよね)
今まさに脱獄という大事件を起こそうとしているのだから、明日何かが起きるどころの話ではない。
自分でそう気づき、聖花は心の中で僅かに呆れた。
アーノルドが彼女の内心に気づいたかどうかは分からない。ただ、彼は僅かに目を細め、何かを面白がっているような薄い笑みを浮かべていた。
「悪いが、ゆっくり話している暇はない」
すぐに表情を改めると、アーノルドは通路の奥へ一度視線を向けた。
「ここの騎士は一通り無力化したが、交代の者が予定より早く来る可能性もある。王宮内の別の騎士に姿を見られれば、私でも言い逃れは難しい。なるべく早くここを出るぞ」
「はい」
聖花は短く答えた。
昼間、自信満々に計画を語っていたアーノルドであっても、実際に動き始めれば警戒を怠ることはないらしい。
(やっぱり、見つかったら殿下でもまずいんだ)
当然と言えば当然である。王族だからといって、罪人を勝手に逃がしてよいはずがない。
むしろ王族であるからこそ、事が明るみに出れば、国を揺るがす問題にまで発展する可能性がある。
聖花が鉄格子へ近づきながら、扉へ取り付けられた大きな錠前へ目を向ける。
「鍵は、どうなさるのですか」
尋ねた次の瞬間、アーノルドは懐から鍵束を取り出し、その中の一本を錠前へ差し込んだ。
かちゃん、と、あまりにも呆気ない音が鳴る。大きな錠前は何の抵抗もなく外れ、牢の扉が僅かに開いた。
「……え?」
聖花は思わず錠前とアーノルドを交互に見た。
もっと複雑な魔術を使うのか、特殊な道具で鍵を破壊するのだと思っていた。それが実際には、正規の鍵を差し込んで開けただけである。
(普通に鍵を持ってきたんだ……)
緊迫した状況であるはずなのに、あまりにも堂々とした手段へ、何とも言えない気持ちになった。
「その鍵は、どちらから持ってきたのですか」
「王宮内の保管庫だ」
アーノルドは錠前を外しながら、平然と答えた。
「王族であれば、鍵の管理状況を確認するという名目で入ることができる。保管庫を利用する者も珍しくないため、私が出入りしても不審には思われん」
「複製した鍵ではないのですね」
「その必要はない」
アーノルドは牢の扉を静かに開いた。
「この牢の鍵や格子には、魔術による複製や変形が難しい特殊な金属が使われている。簡単に偽物を作れるようであれば、とうの昔に多くの罪人が逃げ出しているだろう」
聖花は一瞬、何も言えなかった。
(それを今から正規の鍵で逃がそうとしてる人が言う?)
あまりにも堂々とした説明に、思わず心の中で突っ込む。
(壊したり偽物を作ったりするのは駄目だけど、保管庫から本物を持ってくるのはいいんだ。いや、いいわけないけど)
聞かなければよかったような気さえした。
アーノルドの行動は、慎重である一方、王族としての権限を悪用しているとしか思えない。
以前よりも素の性格を隠さなくなったというより、聖花が彼の本性へ少しずつ気づき始めただけなのかもしれなかった。
「何をしている。早く出ろ」
考え込んでいた聖花へ、アーノルドが声を掛ける。
「はい」
聖花は開かれた扉の前に立った。
鉄格子の外へ足を出せば、もう後戻りはできない。昼間に覚悟を決めたはずなのに、境界を越えようとした瞬間、僅かに足が止まった。
一週間、自分を閉じ込めていた牢。恐怖と絶望の中で何度も泣き、死ぬことさえ考えた場所。
そこから本当に出られる。
嬉しいはずだった。
けれど、扉の向こうが自由ではなく、何が待っているか分からない暗闇だと思うと、胸の奥へ再び恐怖が込み上げてくる。
(大丈夫。もう決めたんだから)
聖花は自分へ言い聞かせた。
(ここに残っても何も変わらない。外に出なきゃ、何も確かめられない)
一度大きく息を吸い、鉄格子の外へ踏み出す。
片足に続いてもう片方の足も通路へ出た時、聖花は僅かな違和感を覚えた。
同じ地下牢の中であり、景色も空気もほとんど変わらない。それでも、鉄格子を挟んで見ていた通路へ立っているというだけで、世界が大きく変わったように感じられた。
アーノルドは牢の扉を元の位置へ戻し、鍵を掛け直した。
「閉めてしまうのですか」
「開いたままなら、見回りが来た瞬間に気づかれる。少しでも発覚を遅らせるためだ」
聖花が消えていること自体は、内部を確認されればすぐに分かる。それでも扉が閉じていれば、遠目には異常がないように見えるだろう。
アーノルドは鍵束を懐へ戻すと、短く告げた。
「行くぞ。離れるな」
「はい」
二人は会話を打ち切り、アーノルドが通ってきた道を引き返し始めた。先頭を進むのはアーノルドで、その後ろを聖花が追う。
初めは早足だった。だが、少し進んだところでアーノルドは走り始めた。
聖花も慌てて速度を上げる。
薄暗い通路は決して広くなく、床には僅かな凹凸もある。転ばないよう足元へ注意しながら走らなければならず、思った以上に身体へ負担が掛かった。
何より、アーノルドの足が速い。
細身に見える外見からは想像できないほど軽やかに走り、暗闇の中でも一度も足を取られることがない。
一方の聖花は、数日の間ほとんど牢の中から動いていなかった。
十分な食事も与えられず、眠ることさえできない日が続いたため、元々多くなかった体力は著しく落ちている。
数十歩も走らないうちに息が上がり、足が重くなった。
(速い……!)
必死に追いかけようとするが、二人の距離は少しずつ開いていく。
(待って、これ無理かも。殿下、速すぎる……というか、私の身体が全然動かない)
胸が苦しい。
冷たい空気を吸い込むたび、喉の奥が焼けるように痛んだ。足へ力が入らず、床を蹴っているはずなのに身体がほとんど前へ進まない。
(こんなに体力が落ちてたんだ……)
牢の中では歩く必要がなかったため、自分がここまで弱っていることへ気づいていなかった。あるいは身体の持ち主の体力の問題か。
このままでは、アーノルドへついていくどころか、途中で倒れてしまう。それでも、待ってほしいと声を掛けることは躊躇われた。
時間がないと聞かされている。自分のせいで計画が失敗すれば、アーノルドまで罪へ問われる。
聖花は歯を食いしばり、重い足をどうにか動かし続けた。
だが、アーノルドはすぐに異変へ気づいた。後ろから聞こえる足音が徐々に遠ざかり、呼吸が激しく乱れている。
彼は速度を落とすと、一度完全に立ち止まり、振り返った。聖花は肩で息をしながら、どうにか彼の元まで追いつく。
「……手を出せ」
「え?」
「聞こえなかったか。手を出せ」
聖花は言われるまま、片方の手を前へ差し出した。
次の瞬間、その手をアーノルドの大きな手が包み込んだ。
細身の身体からは想像していなかったほど、彼の手は骨張っていて、掌には剣を扱う者特有の硬さがある。
冷え切っていた聖花の指先へ、他人の体温が伝わった。
(手、握られた……)
普段であれば、許可もなく触れないでほしいと文句の一つでも言っていたかもしれない。
しかし今は、そんなことを気にしていられる状況ではなかった。
アーノルドは聖花の手を握ったまま、再び走り始める。先ほどよりも僅かに速度を落とし、聖花が足を動かしやすいよう、一定の力で前へ引いていた。
完全に引きずるのではなく、彼女自身が走る速度に合わせ、必要な時だけ身体を支えている。
(ペース、落としてくれたんだ)
呼吸は苦しいままだったが、先ほどよりも身体を動かしやすくなった。
(意外とちゃんと気を遣ってくれるんだな)
いつもなら、人をからかい、こちらの反応を楽しむばかりの男である。それでも今は、聖花が遅れていることを責めず、手を引いて歩調を合わせてくれている。
もちろん、それも計画を成功させるために必要な行動に過ぎないのかもしれない。
聖花がここで倒れれば、アーノルド自身も困る。そう理解していても、触れた掌の温かさは、孤独な牢の中で過ごした一週間を僅かに遠ざけてくれた。
聖花は前を走るアーノルドの背中を見つめた。
この男を全面的に信じてはいけない。
彼には、聖花へ明かしていない目的がある。外へ出た後、自分がどのように扱われるのかも分からない。
それでも今だけは、彼の手を離すわけにはいかなかった。
(今は、任せるしかない)
聖花は、握られている手へ僅かに力を込めた。それに応えるように、アーノルドの指も強く握り返す。
二人はそのまま、薄暗い地下通路の奥を駆け抜けていった。
※数日間動かずにじっとしている状態だったので
元々少ない体力が物凄く落ちております。




