10.決めた覚悟
アーノルドが聖花の前へ姿を現し、一週間後に答えを聞きに来ると言い残して地下牢を去ってから、約束の日までの時間は、聖花が想像していたよりもずっと静かに、そして不思議なほど早く過ぎていった。
この牢獄には、地上の時刻を知るための窓も時計も存在しない。壁に掛けられたランタンの炎は昼夜を問わず同じ明るさで揺れ、見回りの騎士が通路を巡る時間にも多少のずれがあったため、初めのうちは今が朝なのか夜なのかさえ判断できなかった。
それでも、食事が運ばれてくる回数や、見回りの交代、通路の奥から聞こえてくる人々の動きを頼りに日数を数え続け、聖花は一日、また一日と、約束の時が近づいてくることを意識していた。
何もせずに床へ座っているだけの時間は、以前ならば気が遠くなるほど長く感じたに違いない。実際、牢へ入れられた直後の聖花にとって、数時間は一日にも一週間にも思えた。
けれど、今は違った。
アーノルドへ何と答えるのか。この身体の持ち主であるカナデとは誰なのか。自分の身体を奪った少女へ、どうすれば近づくことができるのか。ヴェルディーレ家の人々へ、もう一度会うことはできるのか。
考えなければならないことは、いくらでもあった。
その全てに明確な答えを出せたわけではない。
むしろ、考えれば考えるほど、自分がほとんど何も知らないまま重大な選択を迫られていることを思い知らされた。
アーノルドは王族であり、正式な手続きを経ずに罪人を地下牢から連れ出そうとしている。彼の言葉が真実ならば、外へ出た後には新たな身分と居場所が与えられるというが、それがどのような家で、どのような生活になるのか、聖花には何一つ説明されていなかった。
そもそも、なぜ彼がそこまでしてカナデを助けようとするのかさえ分からない。
以前街で出会ったというだけの相手へ、王族が自ら危険を冒し、脱獄を手助けするなど、普通に考えれば有り得ないことだった。
善意だけでは説明できない。アーノルドには、聖花へ明かしていない目的がある。その考えは、一週間の間に疑いから確信へと変わっていた。
けれど、それを理由に彼の提案を拒絶したところで、聖花に残されているのは、誰からも信じられないまま刑を待つ未来だけである。
利用される可能性があるからと、差し出された手を振り払うのか。それとも、相手の思惑が分からないことを承知のうえで、その手を利用して外へ出るのか。
どちらが正しいのかは分からない。ただ、何も選ばず、この場所で死を待つことだけは、もう選びたくなかった。
聖花は壁へ背を預け、胸元へ片手を添えた。
ヴェルディーレ家で過ごした時間を思い出せば、今でも胸が苦しくなる。
ダンドールたちが自分を信じなかった瞬間や、罪人として連れていかれる自分へ向けられた視線は、何度忘れようとしても鮮明に蘇ってきた。
けれど、あの日のことを思い出すたび、以前のようにただ泣き崩れることはなくなっていた。
悲しみが消えたわけではない。全てを諦めたわけでもない。
ただ、泣いているだけでは何も変わらないのだと、ようやく理解し始めたのである。
奪われたのなら、取り戻す方法を探さなければならない。戻れないのなら、せめて何が起きたのかを知り、自分がどのように生きるかを決めなければならない。
身体を奪った少女に、何も知らないまま全てを明け渡すことだけはしたくない。
その思いが、絶望の中へ沈みかける聖花を何度も引き上げた。
何より、鏡の中に感じたギルガルドらしき気配が、彼女の心へ小さな期待を残していた。
あれが疲労による幻であった可能性は高い。それでも、もし彼が自分を探しているのなら。もし、ヴェルディーレ家にいる少女へ疑問を抱き、自分の姿を確かめようとしてくれたのなら。
いつかもう一度、兄と話せるかもしれない。その可能性を自ら捨て、ここで命を終えることはできなかった。
そうして考え続けているうちに、牢の中で過ごす時間は、不思議なほど早く流れていった。
眠っている時間も多かった。
疲労と空腹のために意識を保っていられない時もあり、目を閉じてから次に開くまで、どれほどの時間が経ったのか分からないこともあった。
だからこそ、約束の日を迎えた時、聖花は本当に一週間が過ぎたのかと疑うほどだった。
その日も、牢獄は何一つ変わらず静まり返っていた。聖花は壁際へ座り、膝を抱えることもなく、両手を足の上へ重ねたまま目を伏せている。
やがて、通路の遥か向こうから、硬い革靴が石床を叩く音が聞こえてきた。
こつ、こつ、と一定の間隔で響くその足音は、見回りの騎士たちのものとは僅かに違っていた。
急ぐことも、立ち止まることもなく、自分が進む場所を疑っていない人間の歩き方だった。
顔を上げて確かめるまでもない。
アーノルドだ。
聖花はすぐにそう悟った。
(もう、一週間も経ったのね)
驚きはしたものの、彼女は座った姿勢を変えず、足音が近づいてくるのを待った。
以前であれば、期待と不安に耐えられず、鉄格子へ駆け寄っていたかもしれない。けれど今は、あえて動こうと思わなかった。
彼が本当に約束を守るのかを確かめたかったこともある。同時に、自分が彼へ縋るだけの人間ではないと示したい気持ちも、僅かながら生まれていた。
足音は少しずつ大きくなり、やがて聖花の牢の前で止まった。
「一週間ぶりだな、カナデ。元気にしていたか?」
声には、以前と変わらない軽さがあった。
まるで親しい知人の部屋を訪ねたかのような口調であり、ここが王宮の地下牢であることも、鉄格子の内側にいる聖花が罪人であることも、彼だけは意識していないように聞こえる。
聖花は答えなかった。
相変わらず顔を伏せたまま、膝の上へ置いた手を僅かに握り締める。
アーノルドの周囲には、今回も騎士の姿がなかった。
それどころか、先ほどまで遠くから聞こえていた水滴の音や、別の牢から漏れる咳払いさえ消えている。薄暗い地下牢の中で、まるで二人だけが世界から切り離されたような静けさが生まれていた。
アーノルドは鉄格子の前に立ったまま、返事を急かそうとはしなかった。
俯いて座り込む聖花を見下ろし、彼女が口を開くのを静かに待っている。
しかし、どれほど待っても、聖花は顔を上げなかった。
アーノルドの表情から、少しずつ笑みが消えていく。
彼が求めていたのは、助けを乞い、すぐにでも外へ出たいと訴える言葉だったのだろう。
一週間前、彼の提案へ心を揺らしていた少女ならば、約束の日を待ちわび、姿を見た瞬間に答えを告げると考えていたに違いない。
だが、目の前にいる聖花からは、生きようとする熱も、外へ出ることへの喜びも感じられなかった。
ただ生気を失い、冷たい床へ座り続けているだけの、憐れな罪人にしか見えない。
(見込み違いだったか)
アーノルドの胸中に、失望に似た感情が生まれ始める。
彼が以前、街でカナデを助けた時に感じたもの。一瞬だけ彼女の内側から溢れ出した、言葉にできないほど悍ましく、同時に強烈な気配。
それこそが、アーノルドが彼女へ興味を持ち、こうして再び会いに来た理由の一つだった。
だが、今の少女からは、あの時の面影がまるで感じられない。記憶を失った影響なのか。絶望したことで、内側にあったものまで失われたのか。
いずれにせよ、自ら生きることを選べない人間へ、これ以上時間を費やす価値はない。
アーノルドの瞳が、次第に冷たさを帯びていった。
「……そうか」
誰へ聞かせるでもなく、小さく呟く。
返事をしないということが、聖花の答えなのだと受け取ったのだろう。アーノルドは彼女を見下ろすことをやめると、未練を残さないように踵を返した。
「じゃあな」
その声はあまりにも小さく、防音の魔術がなければ聖花の耳にも届かなかったかもしれない。
もうここへ来ることはない。
彼の背中が、そのことを言葉以上にはっきりと告げていた。
革靴が石床を叩き、再び足音が遠ざかり始める。
聖花は、その背中を見ていた。
顔を伏せたままではない。アーノルドが踵を返した時には、すでに僅かに顔を上げ、暗闇の向こうへ去ろうとする彼の姿を視界へ収めていた。
ここで呼び止めなければ、全てが終わる。外へ出る最後の可能性が消える。再び家族へ会うことも、身体を奪った少女へ真実を問いただすこともできなくなる。
一週間考え続けた答えを、まだ伝えていない。
「……待ってください」
初めに出た声は、僅かに震えていた。
けれど、これまでのように弱々しくはなかった。静かな地下牢の空気を切り裂き、去ろうとするアーノルドの背中へ確かに届く、力を持った声だった。
アーノルドの足が止まる。
彼はすぐには振り返らず、数秒の沈黙を置いた後、顔だけを僅かに牢の方へ向けた。その瞳には、先ほどまでの冷たさが残っている。同時に、その奥には、消えかけていた期待が僅かに灯っていた。
聖花はゆっくりと立ち上がった。
一週間の牢生活によって足は弱り、急に立ったため僅かにふらついたものの、壁へ手をつくことはしなかった。
鉄格子の前まで歩み寄り、こちらを振り返ったアーノルドと真正面から向き合う。
二人の視線が重なった。
アーノルドの眼差しは鋭く、人の心の奥まで見抜こうとするような圧力があった。一週間前の聖花であれば、それだけで目を逸らしていたかもしれない。
けれど今は違った。
怖くないわけではない。彼を信用しているわけでもない。
それでも、聖花は視線を逸らさなかった。
黒い瞳の奥には、失ったものを取り戻したいという願いと、何としてでも真実を知りたいという渇望が灯っていた。
「……何だ」
アーノルドの口元が、ごく僅かに持ち上がる。
先ほどまで見せていた失望を隠すように、あるいは、ようやく期待していたものを見つけたことを喜ぶように、不敵な笑みを浮かべた。
聖花は一度息を吸った。
伝えたい言葉は、一週間のうちに何度も頭の中で繰り返してきた。
それでも、いざ声にしようとすると、喉の奥へ何かが引っ掛かり、初めの一言は掠れてしまった。
「……ます」
「聞こえない」
アーノルドは、あえて厳しい声で言った。
「何を言っているのか分からない。自分の意思で選んだというのなら、もう一度、はっきりと口にしろ」
試されているのだと分かった。
彼は、曖昧な返事を許すつもりがない。一時の感情に流され、外へ出たいと縋っているだけの人間を連れ出すつもりもないのだろう。
聖花は胸元へ手を置き、震えそうになる声を押さえ込むと、今度こそアーノルドの瞳を正面から見据えた。
「私は……ここを出たいです」
一度言葉にすると、胸の奥へ閉じ込めていたものが堰を切ったように溢れ出した。
「ここから出て、確かめなければならないことがあります」
声は徐々に強くなっていく。
「もう一度会わなければならない人もいます。伝えなければならないこともあります。ですから私は、この場所で何も知らないまま死を待つことはできません」
両手を強く握り締める。
「ここを出たいです。外へ出て、必ずやり遂げたいことがあります」
最後の言葉は、牢の中へ響き渡るほど力強かった。
アーノルドは、僅かに眉を上げた。少なくとも、外へ出たいという意思そのものについては、疑う余地がない。
「ほう」
彼は面白そうに目を細めた。
「それで、そのやり遂げたいこととは何だ?」
「それは――」
聖花は答えようとした。
身体を奪った少女へ会い、全てを問いただす。できるならば、元の身体と家族を取り戻す。
そう口にするつもりだった。
ところが、言葉を声にしようとした瞬間、喉の奥が突然閉じたように動かなくなった。
「……っ」
息はできる。声も出せる。
それなのに、身体の入れ替わりや、現在ヴェルディーレ家にいる少女について説明しようとすると、舌が自分のものではなくなったかのように動きを止めてしまう。
聖花は驚きに目を見開いた。
(言えない……?)
一週間前、アーノルドへ自分がカナデではないと告げようとした時も、結局、明確な言葉にすることができなかった。
あの時は精神的に混乱していたため、恐怖から口にできなかったのだと思っていた。
けれど今は違う。
自分の意思で話そうとしているにもかかわらず、何らかの力によって言葉そのものを封じられている。
「どうした」
不自然に口を閉ざした聖花を、アーノルドは怪訝そうに見つめた。
彼女は何度か声を出そうとしたものの、やはり肝心の部分だけを言葉にすることができない。
「申し訳ございません。今は……お話しできません」
どうにか、それだけを答えた。
アーノルドは暫く彼女を観察していた。
隠し事をしているのか。単に話したくないだけなのか。それとも、本当に口にできない事情があるのか。
何かを見定めようとするように目を細めた後、顎へ片手を添える。
「まあいい」
やがて、あっさりと興味を引いた。
「言いたくないのなら、今は無理に聞く必要もない。外へ出た後、いずれ話す気になれば聞かせてもらおう」
「……ありがとうございます」
聖花は小さく頭を下げたものの、内心では混乱が続いていた。身体を奪った少女が施した魔術なのか。
今はそんなことよりも、まずは牢から出なければならない。
そう自分へ言い聞かせ、聖花は再びアーノルドへ意識を戻した。
「では、改めて確認しよう」
アーノルドは鉄格子へ片手を掛け、先ほどまでの軽い調子を消した。
「貴女はここから出たいと言った。だが、これは正式な釈放ではない。私がこれから行おうとしているのは、王宮の管理下にある罪人を秘密裏に連れ出すことだ」
低い声が、静かな空間へ重く響く。
「成功すれば自由を得られる。だが、失敗すれば、今以上に重い罪を背負うことになるだろう。脱獄を企てた罪人として、弁明の機会すら与えられず処刑される可能性もある」
聖花は黙って聞いていた。
「それだけではない。外へ出た後、貴女は今までの名も身分も捨てなければならない。カナデとしての過去を尋ねられても、答えられないことがあるだろう。新しい家で暮らすために、自分を偽り続けなければならない時もある」
アーノルドは一つ一つ確かめるように告げた。
「家族や友人へ会いたいからといって、勝手な行動を取ることも許されない。正体を知られれば、貴女だけでなく、保護する者や、手引きをした私まで罪へ問われることになる」
そこまで言うと、彼は聖花を鋭く見据えた。
「それでも、脱獄という罪を犯す覚悟があるか。過去を隠し、別の人間として生きる度胸があるか」
聖花は迷わなかった。
「あります」
返事は、驚くほど自然に出た。
全く恐ろしくないわけではない。脱獄が失敗する可能性を考えれば、足元から冷たいものが這い上がるような恐怖を覚える。
別人として生きることについても、簡単に受け入れられたわけではない。それでも、ここで迷った姿を見せれば、アーノルドは再び背を向けるだろう。
何より、聖花自身が、もう自分の決意を疑いたくなかった。
アーノルドは彼女の返事を聞くと、上がりそうになる口角を僅かに引き締めた。だが、試すべきことはまだ残っている。
「ならば、最後にもう一つ聞こう」
彼の声音が変わった。
先ほどまでの王族らしい落ち着いた口調ではない。もっと深く、暗く、逃げ場を塞ぐような響きがあった。
アーノルドは鉄格子へ顔を近づけ、聖花との距離を縮める。
「私に――命を握られる覚悟はあるか?」
その瞬間、二人の間に流れていた空気が大きく変わった。
空間そのものが重さを増したように感じられ、聖花は無意識のうちに息を止めた。
言葉の意味を考えるまでもない。アーノルドが助けようとしているのは、無償の善意からではない。彼は聖花の命を救う代わりに、その後の人生へ干渉するつもりでいる。
新しい身分も、養女として迎える家も、逃亡後の生活も、全て彼の力によって与えられるものだ。
彼の機嫌を損ねれば、それらを失うかもしれない。秘密を漏らせば、口封じのために殺される可能性さえある。
助けられた後の聖花は、ある意味では今以上に、アーノルドへ逆らえない立場になるのだろう。
一週間前から、薄々気づいてはいた。彼の優しさの裏側に、別の思惑が存在していることも。聖花を助けるという言葉だけを信じるべきではないことも。
それでも、見ないふりをしていた。真正面から認めてしまえば、差し出された手を取ることが恐ろしくなるからだ。
けれど今、アーノルド自身がその事実を隠さず突きつけてきた。
彼は救世主ではない。聖花へ自由を与える代わりに、その命を自分の手中へ置こうとしている。
それを理解したうえで、選ばなければならない。
聖花は、ほんの僅かな間だけ黙った。
迷いがなかったわけではない。
この男を信じてよいのかという疑念は、むしろ以前より強くなっている。だが、このまま牢へ残れば、誰かに命を握られるどころか、何もできないまま国によって命を奪われるだけである。
それならば、アーノルドに利用されながらでも外へ出て、いつか自分の意思で立てるだけの力を得る方がよい。
命を握られるというのなら、いつかその手を振り払えるようになればいい。救われるだけの弱い存在として終わらず、彼の思惑さえ利用できる人間になればいい。
聖花は、ゆっくりと息を吐いた。
そして、鉄格子の向こうにいるアーノルドへ一歩近づく。
「あります」
初めの返事よりも、さらに強い声だった。
「私は、貴方に命を預ける覚悟があります。たとえ貴方に別の目的があったとしても、ここで何もできずに死ぬよりは、遥かにましです」
希望へ縋るだけではない。彼女の言葉には、相手の危険性を理解したうえで、それでも前へ進むという意思が込められていた。
アーノルドは無言で聖花を見つめる。
聖花もまた、噛みつくような強さを持った目で彼を見返した。
「ですが、殿下」
そこで一度言葉を切ると、聖花は僅かに口元を持ち上げた。
「私の命を握ると仰るのでしたら、貴方も覚悟しておいてくださいませ」
「……何だと?」
「私は、ただ命令へ従うだけの人形になるつもりはありません。貴方が私を利用するおつもりなら、私も貴方を利用します」
一週間前の聖花であれば、王族へそのような言葉を向けることなど考えられなかった。
けれど、家族も身体も名前も奪われ、一度は死を受け入れた今、身分の差へ怯えて全てを諦めるつもりはなかった。
「ですから、最後まで責任を持ってくださいね」
静かな口調だったが、その言葉には明確な警告が込められていた。
アーノルドは暫く呆気に取られたように聖花を見つめていた。
やがて、その口元が大きく歪む。
「ははっ……」
小さな笑いは次第に大きくなり、最後には心底愉快そうな声となって、防音の魔術に包まれた空間へ響き渡った。
「言うようになったではないか」
彼は目元へ浮かんだ笑いを隠そうともせず、聖花を満足そうに見つめた。
「その目だ。私が見たかったのは」
「何のことでしょう」
「気にするな。こちらの話だ」
アーノルドはそう答えたものの、以前カナデから感じた悍ましいほどの気配を思い出していた。
今の聖花から、あの時と全く同じものが感じられるわけではない。
それでも、少なくとも目の前にいる少女は、ただ怯えて救いを待つだけの存在ではなくなっていた。
絶望によって壊れたのではない。絶望を抱えたまま、他者へ牙を向けられる程度には立ち上がろうとしている。
「その方が、よく似合っているぞ」
「何がですか」
「さてな」
アーノルドは答えを濁し、楽しげに笑った。
その態度に腹立たしさを覚えながらも、聖花はそれ以上追及しなかった。
今は、彼の過去や思惑を暴くことよりも、外へ出るための話を進める方が重要である。何より、今交わした言葉によって、二人の関係が以前とは僅かに変わったことを感じていた。
アーノルドは聖花を救う者ではない。聖花もまた、無条件に救われる者ではない。互いに相手を利用し、それぞれの目的を果たすために手を組む。
信用とは程遠い。
それでも、この歪な関係は、口先だけの優しさよりも、今の聖花には信じられるように思えた。
彼が自分を利用するつもりであるなら、少なくとも必要である間は簡単に見捨てない。聖花もまた、アーノルドの力を借り、牢の外へ出ることができる。
利害が一致している間だけの関係だとしても、それで十分だった。
「交渉成立、ということでよろしいのでしょうか」
「ああ」
アーノルドは愉快そうに頷いた。
「もっとも、交渉と呼ぶには、貴女へ与えられた選択肢が少なすぎる気もするがな」
「それを用意したご本人が仰いますか」
「選んだのは貴女だろう?」
「ええ。ですから、選ばせた責任を取っていただきます」
聖花が即座に言い返すと、アーノルドは再び声を立てて笑った。
その笑い声を聞きながら、聖花は胸の内へ残る恐怖と迷いを、改めて自覚していた。
これから何が起きるのかは分からない。外へ出るまでに失敗する可能性もある。新たな居場所が、アーノルドの言うほど安全ではないかもしれない。
身体を取り戻す方法など、最後まで見つからない可能性もある。
それでも、もう後戻りはできない。いや、初めから戻る場所など存在していなかったのだ。
ならば、前へ進むしかない。
聖花は鉄格子越しに差し出されたアーノルドの手を見つめた。牢の中からでは直接握ることはできないけれど、その手が示している道を選ぶことはできる。
彼女は自分の胸元へ手を重ね、今度こそ迷いなく頷いた。
それは誰かに助けを求めるための返事ではなく、聖花自身が、自分の人生を取り戻すために下した最初の決断だった。




