9.逡巡と希望
思考メインになります
アーノルドが聖花のもとを去ってから、すでに数時間が経っていた。
地下牢には外の様子を確かめられる窓がなく、昼なのか夜なのかさえ分からない。壁に掛けられた灯りだけが湿気を含んだ石壁をぼんやりと照らしており、ときおり炎が揺れるたび、鉄格子の影が床の上で細長く形を変えていた。
それでも、アーノルドが去ってから相当な時間が経っていることだけは分かる。聖花は彼が立ち去った時からずっと、冷たくざらついた石床へ膝をついたまま、その場を動いていなかった。長い間同じ姿勢でいたため、膝から下はすっかり感覚が鈍くなり、衣服越しにも床の冷たさが伝わってくる。けれど、今の聖花には身体の辛さを気にする余裕などなく、ただ俯いたまま、自分がこれからどうすればよいのかを考え続けていた。
(どうしよう……。私は、どうしたらいいの……)
心の中で何度問い掛けても、答えは見つからない。
何故、自分はマリアンナとしてこの世界へ転生したのか。何故、今になって別の誰かへ身体を奪われるようなことになったのか。そして、意識を入れ替えるなどという現象を、あの少女はどうやって引き起こしたのか。どれほど考えてみても、答えへ辿り着ける気はしなかった。そもそも自分がこの世界へ来た理由さえ分からないのだ。その後に起きた出来事を整理しようとしたところで、分からないことが増えていくばかりで、今の聖花には確かめる術もない。
だから、そんなこと考えても仕方がない。そう結論づけ、聖花は一度その疑問を頭の隅へ追いやった。原因を知ることができれば、元の身体へ戻る手掛かりになるかもしれない。けれど、この牢の中でいくら思考を巡らせたところで、何か浮かぶ訳もなかった。ただ同じところをグルグルと回り続けるだけだ。
それよりも、今まで意識的に考えないようにしていたことがあった。
(そういえば、本来のマリアンナは……どこへ行ってしまったのかしら)
自分が気づいた時には、すでにマリアンナの身体の中にいた。けれど、その時までこの身体にいたはずの少女が、どこへ行ってしまったのかを聖花は知らない。もし自分と入れ替わる形で、マリアンナが元の聖花の身体へ移っていたのだとすれば、彼女はあの事故に巻き込まれ、そのまま亡くなってしまったのだろうか。
けれど、それもあくまで聖花の想像に過ぎなかった。彼女自身がこの世界へ来たように、マリアンナもまた別の場所で過ごしている可能性は存分にある。今の聖花には、どちらが正しいのか確かめる術はないのだ。
分からないことを最も悪い方へと決めつけて、自分で自分を追い詰めても意味がない。今までの聖花であれば、そのまま不安に押し潰され、何もできなくなっていたかもしれないが、それではいけないのだ。真実を知りたいのであれば、まずはここから出なければならない。聖花は心の中でそう言い聞かせ、次に頭へ浮かんだ名前へ意識を向けた。
(『カナデ』……)
第二王子であるアーノルドは確かにそう呼んでいた。どこかに引っ掛かる、不思議な響きの名前だった。初めて聞いたはずなのに、まったく知らないものとは思えない。以前にどこかで耳にしたような気もするが、それがいつ、どこであったのかまでは思い出せなかった。前の人生について思い出そうとしても、記憶はひどく曖昧で、指の隙間から零れ落ちていく砂のように形を留めてはくれない。
それでも聖花は、カナデという少女が何者なのかが気になった。第二王子の記憶に残っていて、彼女の名前がすぐに出る程度には何らかの接点があったことは明確だったから。しかしカナデと身体を奪った少女が同一人物なのかどうかも、ほとんど確信には近いものの、聖花にはまだ断定できていない。ただ、名前を聞いた時に感じた違和感は、どうしても無視できるものではなかった。
もし外へ出ることができれば、彼女について調べることもできるかもしれない。会って何を言うのかまでは分からないけれども。何故こんなことをしたのか問いただしたい気持ちはあったが、再び何かをされるのではないかという恐怖もある。それでも、何も知らないまま逃げ続けることはできない。身体を取り戻したいのであれば、いつかは向き合わなければならない相手なのだろう。
(それにしても……)
そこで聖花は、もう一つの疑問へと辿り着いた。
(どうしてアーノルドは、私を助けようとするのかしら)
彼に事情を話したわけではない。意識が入れ替わったことも、自分がマリアンナであったことも、身体を奪われたことも、何一つ伝えてはいなかった。聖花が彼へぶつけたのは、諦めに近い嘆きのようなものだけだ。それにもかかわらず、アーノルドはここから出ることを提案し、外へ出た後の居場所まで用意すると言っていた。
何故そこまでするのか聖花には理解できない。単なる同情なのかもしれないし、事情を知らないからこそ酷く憔悴した少女を放っておけなかっただけという可能性もある。あるいは、何か別の考えがあるのかもしれなかった。けれど、今の聖花にそれを確かめる方法はないし、彼の意図を推測し続けたところで答えは出ない。たとえ彼に何か思惑があったとしても、聖花が今すべきことまで変わるわけではないのだ。
(……私は、私のことをする)
助けてもらえるから従うのではない。アーノルドを信じ切ってしまったから選ぶのでもない。今の自分に残された可能性がそこにあるから、その道を利用する。それだけでいい。
聖花は頭の中で考えを整理すると、長い間俯けていた顔をゆっくりと上げた。すっかり静まり返った牢の中に何ら変化はない。石壁も、鉄格子も、薄暗い灯りも、すべて同じだ。それでも聖花の瞳には、ほんの僅かではあるものの失われかけていた光が戻っていた。
―――決心がついたのだ。
外へ出ることができれば、別の人間としてやり直せるかもしれない。そうなれば今度は、マリアンナの身体ではなく誰かも分からない青い髪の少女として生きることになる。他の誰でもない自身に危害を加えたかもしれない人間として。それがどれほど不安なことか今の聖花には想像もつかなかったが、それでもこの牢の中で何もせず終わるよりはよかったのだ。
外へ出ることができれば、カナデについて調べて、いつか直接向き合えるかもしれない。外へ出ることができれば、元の身体へ戻る方法が見つかるかもしれない。そして、もし本来のマリアンナがどこかにいるのであれば、彼女を見つけることもできるかもしれない。どれも確かなことではなく、そうなればいいという願望に近いものばかりである。それでも、何もかもを諦めていた時の聖花には、その願いさえ持つことができなかった。
少なくとも今は、ここから出た後のことを考えようとしている。ならば、まずは脱出しなければならない。そのためには、アーノルドの助けを借りるしかないのだろう。
けれど、ただここから出るだけでは足りないのだと、聖花は思った。人は急に強くなれるわけではないし、根っこの部分がすぐに変わるとも思えない。一見すれば立ち直ったように見えるかもしれないが。実際、今はまだアーノルドの甘言によってただ突き動かされているだけなのだ。
何か嫌なことがあれば、必要以上に落ち込んでしまう。誰かから拒まれれば、自分の存在そのものを否定されたように感じ、何もかもを投げ出したくなる。今回の出来事でも、まさにそうだった。身体を奪われ、家族から敵意を向けられたことで、聖花は自分に残されているものまで見失った。友人のことも、身体を取り戻す可能性も、自分が今後どうしたいのかという気持ちさえ、すべて手放そうとしていた。
このままでは、たとえ牢から出られたとしても、またいつか過去に捕らわれてしまうだろう。何かの拍子にダンドールたちの眼差しを思い出し、自分を責めて動けなくなるかもしれない。そんな状態のままで、アーノルドが用意すると言った居場所で本当にうまくやっていけるのだろうか。
ただ、あの事件を忘れる必要はない。忘れようとして、無理に切り捨てようとすればするほど、かえって心の中へ残り続けるのかもしれないから。
それでも、あの出来事に負けないほどの何かは必要だった。元の身体を取り戻したいという気持ち。真実を知りたいという気持ち。もう一度、自分の居場所を得たいという願い。今はまだ、それらを強い意志と呼べるほど確かなものにはできない。けれど、それでもよかった。何もないところから立ち上がるためには、ほんの僅かな理由でも必要なのだから。
「――――」
「……?」
ちょうどその時だった。声とも音ともつかない何かが、すぐ傍をかすめた。聖花は反射的に顔を上げ、誰かの姿を探すように辺りを見渡した。だが、牢の中には誰もおらず、鉄格子の向こうにも人影はない。通路から足音が聞こえてくることもなかった。
(誰か……いた?)
それでも、聖花は確かに何かの気配を感じた。ほんの一瞬ではあったものの、誰かがすぐ近くにいて、自分を見ていたような感覚が残っている。
普通に考えればあり得ないことだ。この牢の中へ入るためには鉄格子を開けなければならない。人が通れる隙間などはなく、身を隠せるような場所もなかった筈だ。それなのに聖花は、直感的にその気配が牢の外ではなく、牢の内側から感じられたのだと思った。
不気味であるはずなのに、強い恐怖は湧いてこなかった。むしろ、どこか懐かしい。以前にも似たような気配を感じたことがあるような、不思議な感覚だった。
聖花が再び牢の中を見回した時、壁際に置かれた古びた鏡が目に入る。鏡のなかには薄暗い靄のようなものが掛かっているように見えた。
(あ……鏡が……)
ほんの一瞬のことだった。聖花が目を凝らした時には、すでに靄は消えかけている。灯りの影が揺れただけなのかもしれないし、心身ともに疲れ切った彼女自身が見せた幻である可能性もあった。それでも聖花は、何かに引かれるように鏡へ視線を向けた。
鏡は低い位置に置かれている上に、牢の中も薄暗く、そこに映るものすべてをはっきり確認することはできない。汚れた鏡面には、聖花自身の姿さえ歪み、輪郭が曖昧に映っていた。その奥に、誰かが立っているように見えた。黒い何かが、人の形を取ってこちらを見ているような、曖昧な影だった。
「おにい、さま……?」
気づけば、その言葉が口から零れていた。
何故ギルガルドだと思ったのか、自分でも分からない。顔が見えたわけではない。姿をはっきり確認できたわけでもなければ、髪や衣服が見えたわけでもなかった。それでも、考えるよりも先に、聖花の口は兄を呼んでいた。
瞬間、鏡の中にあった影は掻き消すように見えなくなった。残ったのは、薄暗い牢の中を映す古びた鏡だけだ。気配が消えてしまったのか、それとも最初から聖花が見た幻に過ぎなかったのか。当然ながら、返事はない。聖花の声は誰にも届かず、静まり返った牢の中へ虚しく溶けていった。
それでも彼女は、もう一度ギルガルドに会いたいと強く思った。何故だかは分からないが何かを話してみたくなったのだ。そう思った時、聖花はもう一つのことを思い出した。
身体を奪われたあの事件の時、ギルガルドはその場にいなかった。普段から家族と距離を置いている彼の性格を考えれば、ただ居合わせなかっただけなのかもしれない。家族全員が常に一緒にいるわけではないし、それだけで何か特別な意味があると考えるのは早計だろう。
けれど、もしかすれば、ギルガルドは何かを知っているのではないか。そんな疑問が聖花の中を駆け巡った。それこそ身体が奪われたことを知っているとは限らないし、あの黒い瞳の少女と関係があるのかどうかも分からない。ましてや両親のように何も知らない可能性だってある。
それでも聖花には、彼が他の家族とは違う何かを見ていたように思えてならなかった。確かな根拠など一つもないし、ただの思い込みかもしれない。それでも、何の手掛かりも持たない聖花にとっては、その僅かな違和感は無視できないものだった。
もう一度彼に会うことができれば、何か分かるかもしれない。たとえ何も知らなかったとしても、自分の話を直接聞いてもらえるかもしれない。聖花は鏡を見つめたまま、胸の中に小さな期待が生まれるのを感じていた。
まだ、希望と呼ぶにはあまりにも頼りない。けれど、何もかもを諦めていた時には持つことのできなかった、前へ進むための一つの理由になりつつあった。




