18.吐き出す本音
「永野君逃げろ!」
鋭い先輩の掛け声に固まっていた体が自然と後ろへと下がった。その僅かに開いた空間を豪腕が通り過ぎていく。
ゴウッと最早人の出せる音じゃない風切り音を聞きながら、ふと視線を上げればそこには見上げるほどの巨体があった。
「グォ……オォ……」
鋭い牙を覗かせる口からは獣の唸りが溢れ出る。桧山の意識があるとは思えない様態だ。理性の飛んだ獣の目で俺を睥睨してくる。吊り上がった鋭い目は真っ直ぐに俺だけを見つめていた。
「……! 駄目! 桧山!」
「我をなくしたか……? だが、このままは拙い。永野君どうにか逃げてくれ! 君を傷付けたとなれば桧山君は深い傷を負うことになる! どうか、彼を助けるためにも逃げ果せてくれ!」
巨体の向こうから二人の叫びが届く。鬼はそんな二人には全く意識を向けることなく、俺を見下ろしたままに腕を振り上げる。盛り上がった筋肉の表面には幾つもの太い血管が浮き上がり、かなりの力が込められているのが見ただけで察せられた。
振るわれなくても分かる、一発でももらえば怪我処じゃ済まされない。
「……オォォ!」
雄叫びと一緒に拳が降ってくる。俺の頭を狙ったそれをまた後ろに下がってどうにか避けた。風切り音、そして風圧を伴った拳は何もない空間を通り過ぎて空振る。態勢を崩す鬼だが、その体の影に隠れてもう片方の腕も瞬時に真っ直ぐ突き出された。
「オォ!」
大した間もなく放たれた二撃目はストレート。どうにか横に動いて躱す。俺の顔ほどの大きさのある拳が顔の直ぐ横を通り過ぎていくのに冷や汗が止まらない。風圧だけで殴り倒されそうだ。
なんとか躱してこれたが、このままだと拙い。
続けて避けられて苛立ったのか、鬼は吼えたそのあとに力瘤を思い切り作って下から捻り上げるようなアッパーを打ち出した。食らったら体が空へと打ち上がりそうだな。でも、これはチャンスだ。
背後へ思いっ切り飛んで拳をやり過ごす。そして奴の視界が自分の腕で大きく遮られた所で反転してダッシュ。背後には木立がある。あの巨体だ、引き摺り込めば木々が邪魔して動き回るのも難解になるはず。幸い満月のおかげで木立の中でも影を追うくらいは出来る。木を盾にしていけばどうにか時間は稼げるんじゃないか?
木立に引き摺り込んで、それからどうにか桧山を正気付かせないと。
「オオォ!」
背後から怒りの咆哮が轟く。続いて重い足音も真っ直ぐにこっちへと向かってきた。想定より速い、ばっと木の影に潜り込んだ所でガリガリと盛大な破砕音が極近距離から聞こえてきた。盾にした木が震える。ばっと散る木片に焦りが募っていく。
「永野!?」
「永野君!」
二人の叫びが聞こえてくるが、出来ればこっちには来ないで欲しい。場所が狭くなった分巻き込まれが懸念される。鬼の煌々と光る目を木々の向こうに捉えながら、頭の一部冷静な部分が足を更に奥へと運ばせる。
「ゴアァ!」
移動する間も鬼からの攻撃は続く。真っ直ぐ拳が飛んできたり俺を捕まえようと手が伸びてきたり。それらを紙一重で躱していく。
俺はこんなに運動神経が良かっただろうか? そんな疑問も薄ら頭に過ぎるが、余所事を考えている余裕は実際にはない。鬼の攻撃で削られた木々の破片が何度もこっちにも飛んできて、少しでも気を抜けば被弾するのが目に見えていた。
「止めて! 止めて桧山!」
「落ち着くんだ桧山君! 冷静になれ!」
「オ、オォォ!」
暗い木立に散々と諍いの音が響く。鬼が拳を振るう度、躱して盾にした木々が揺れる。その度にザァザァと頭上から葉の擦れる音がしては一瞬仄白い光が頭上から降り落ちてくる。
場が瞬間明瞭になる。視界の中には常に鬼を捉えているから月明かりが届く度に鬼の姿も白く浮かび上がる。厳つい表情の鬼は顔に生まれる影だって俺たちとは違って濃い。憎悪を宿してこちらを睥睨する鬼は、非常に恐ろしい表情をしていて……?
木の揺れに合わせて影に潜んだり白く浮き上がったりしている鬼の面。一見すると恐ろしい鬼の顔にしか見えないんだが、その影の中に沈んでる表情が、なんだか……。
てっきり憎悪に歪んでいるとばかり思っていた鬼の顔は、掛かる影の中でうっすらと、目尻も口元も情けなく垂れ下がっているように見えた。
憎しみに駆られて襲い掛かってきているはずの鬼。でも、垣間見えるその顔にはとても憎悪なんて見付けられそうになかった。
「っ、だっ!」
余所事を考えていたから足下が疎かになった。木の根に躓いて足が止まってしまう。その隙を見逃さなかった鬼の拳が真っ直ぐに俺に向かってきた。
拙い! せめて頭だけは守らないと! 慌てて頭を庇う俺の頭上を、鬼の拳が通過していってそのまま背後の木へとぶつかった。ドンッという震えのくる音と一緒にパラパラと破片が降ってくる。
「……え?」
思わずと見上げた視界にこちらを見下ろす鬼の金の瞳が見えた。顔のほとんどが影の中にあってその表情は全く窺えない。でも、その光って見える瞳は酷く揺れているようにも思えて。
「! あ、会長! こっち、こっちです!」
「無事か永野君!?」
鬼の向こうから訊ねられる。傍から見れば俺は絶体絶命に見えるのではないだろうか。前面には鬼。背後には木。これでもう後ろへは下がれない。距離が空けられなければ素早い攻撃を避けるのも難しいだろう。
鬼がゆっくりと拳を振り上げる。それが微かな影の動きで理解出来た。グルルと獣染みた唸り声が鬼の顔辺りからこちらへと降ってくる。大分力を込めているはずだ。巨体な拳をぎゅうと握り締め高々と掲げて、それを俺に振り下ろそうとしている。
「待つんだ桧山君! 駄目だ、そんなことをしても君の気は晴れないだろう!? どうか冷静になってくれ!」
「駄目、駄目だよ桧山! 永野をどうにかしたからって桧山の悩みが解決するもんでもないじゃん! 永野傷付けたって、それだと桧山だって苦しむだけでしょ!?」
必死に呼び掛けられるも目の前の鬼に変化はない。聞こえていないのか、聞こえた上で無視しているのか。俺をそんなに殴りたいのか?
「なぁ桧山」
目の前の鬼、いや、桧山に問い掛ける。じっとこちらを見つめる金の瞳を見つめ返して、奴に届けと願いながら話し掛ける。
「お前はそんなに俺が憎いか? 恋敵の俺を殴り付けたくなるほど憎んでるか?」
返事はない。目も逸らされない。瞬きの一つもなく真っ直ぐにこちらを見下ろす。理性なんて感じさせないとても人には思えない目だが、それでもそこに確かに桧山はいるんだとそう信じた。
「気付かずに呑気な面して目の前にいた俺が憎いか? 自分の苦しみを理解もせずお気楽に過ごしていた俺が憎いか?」
「永野君? 一体何を……」
困惑したような声が届くが今は無視して桧山へと語り掛ける。頭上高く掲げられた拳はいつ降ってきてもおかしくはない。あれが俺の脳天に振り下ろされただけで恐らくは。でも、そんなことも今は気にならない。
「俺を羨ましい、憎いって言ってたな。それは間違いなくお前の本音か? 鏡に映ったってだけじゃない、間違いなく桧山、お前の本心なんだろうな?」
「……グゥ……グッ……」
「こんな追い詰めてそれで全力で殴るってくらい俺が気に入らねぇんだな? お前だって見ただろ? 今の自分の拳が簡単に木の硬い表皮だって粉々に出来るんだって。理解した上で俺を殴るんだな」
ふっふっと荒い呼気を上げる桧山に臆せず問い続ける。否定も肯定も返ってこない。僅かに眇められたらしい目が、月が欠けたような金の瞳から推察出来るくらいか。
俺と桧山。これまでのことでどうにも縺れに縺れてしまったが、それも今ここで全部解消してやる。
「俺を殺したいほど憎いか、桧山」
覚悟を込めて訊ねる。殺伐とした問いにまず反応したのは桧山じゃなかった。
「……何、を……、なんてことを口にするんだ永野君!?」
「や、止めてよ……。殺すとか、そんな話しないでよ……っ」
当然非難はされて然るべきだろう。でもこれも桧山の本音を引き摺り出すためだ。
当人はと言えば反応はない……、いや、目が。真ん丸な金色が頭上にあって、ついでぐっとそれが細まる。酷く荒い呼吸も返事の代わりと言わんばかりに降ってきた。
「それほど憎いのか?桧山。我慢が出来ないか? 今直ぐ殺したいか?」
「……フー、フー……!」
「排除したいか? 俺を退かせばお前の憂いは何もなくなるのか? それをお前は望むか?」
「……グ! グオッ、オオォォ!」
雄叫びを上げる。その際に一瞬俺から視線が逸れた。次に見えた目はまた正気をなくした獣の目だった。掲げた拳が、振り下ろされる。
「まっ……!」
「だ、駄目ーー!!」
「グオオォォ!」
美樹本の叫びが桧山の咆哮で掻き消される。ゴウと唸りを上げて近付く拳を視界の端に収めながら、今一度腹に力を入れて大きく叫んだ。
「お前の本音はなんだ、桧山! いい加減全部吐き出しやがれ!」
叫び終えるのと同時に、俺の真上に拳が降った。
間近で結構な風圧が生まれる。それは頭上すれすれ、ピタリと止まった大きな拳の名残だ。視線を上げれば直ぐそこに固く握られた指が見える。まるで時間でも止まったように宙に留まるそれの向こうに、そんな拳よりも大きな影が俺に覆い被さるようにして立っている。
振り下ろされた拳は結局俺には当たらなかった。多分、元から当てるつもりなんてなかったんだろう。
「……ィ」
小さな囁きが真上から降ってくる。拳から視線を移動させれば、影の中で金色の目だけが分かり易く光って見えた。その目は水を纏っているかのようにうるうると揺れている。
「……憎イ……。憎イッテ思ウ。永野ガイナカッタラッテ考エタコトモアル。デモ、デモ、本当ニイナクナレバトカ、コ、殺シタイトカ、ソンナノ、思ウ訳ナイジャン……!」
ひぐひぐと嗚咽が上がる。泣き出しているんだろう、目の潤みは酷い滲みとなって丸い虹彩もぼやぼやと形が変わっていく。あんなに化け物染みて見えたものが、今ではなんてことのない、ただの泣き虫にしか思えない。涙に滲んでいるらしい目が痛いほど俺に注がれる。
「ダッテ……、ダッテ永野、俺ノ友ダチダモン……! 友ダチ傷付ケタイトカ、ソンナノ思ウ訳ナイ……!」
うぐぅと、そこで感極まったのか酷い鳴き声が聞こえてきた。気付けば頭の上から腕は退いて、多分蹲って泣いているのか、金の瞳は見えなくなっていた。うぐぅうぐぅと必死に嗚咽を抑える声も随分と低い位置から聞こえてくる。
「……そうだよな」
暗闇の中で泣いてるだろう桧山にそっと答えを返す。友だちだから傷付けたくない。それは俺も一緒だ。
蹲って泣き伏せる桧山の傍で、漸く吐き出させることの出来た本音に同意しながら、そっと息を吐いた。




