第8話 違う常識
最初は単語だった。
物を指差し、名前を書く。聞き返す。書き直す。それを繰り返すうち、短い会話なら成立するようになっていた。
ライネはよく話しかけた。
「食事」
「扉」
「空」
「紙」
思いついた単語を見つける度、すぐ確かめたがる。
後ろでレイヴンが笑った。
「お嬢様、完全に教師だな」
「その呼び方やめてください」
ライネが少しだけ睨む。
セヴィは必要な時だけ口を開いた。アンセスも少しずつ、この世界の音に慣れ始めていた。
文字体系が近いからか、覚える速度は思ったより早かった。数日もすると片言ながら会話が成立し始め、紙束は減り、代わりに言葉が増えていく。
◇ ◇ ◇
辺境調査局北州局の会議室。
長机を囲むのはセヴィ、レイヴン、コヒス、ライネ。向かい側にはアンセスが座っている。
全員が席に着くと、レイヴンが机へ筆談記録を置いた。
「確認済み事項を整理する」
「お前たちはコルプティス王国所属。敗戦後、境界標付近へ出現。ここまでは合ってるか」
アンセスは頷く。
「はい」
「なら次だ」
コヒスが口を開いた。
「お前たちの世界にも帝国はあるか」
「あります」
即答だった。
ライネが少し安心した顔をする。だが、アンセスは続けた。
「一つ。でも、他もある」
レイヴンが聞く。
「他?」
「王国。沢山。共和国。都市国家」
セヴィが眉を寄せた。
「帝国の中にあるのか」
アンセスは首を振る。
「違う。別」
部屋が静かになった。
ライネが小さく呟く。
「帝国以外……」
コヒスは紙へ短く残した。
『複数政治体系』
ライネが顔を上げる。
「マナについて聞きたいです。前に術式と言っていました。魔法、という理解でいいですか」
アンセスは頷く。
「はい。あります」
「誰でも使えるんですか」
少し考える。
「理論では可能。でも学ぶ必要がある。知識が必要。貴族。学院」
ライネが首を傾げる。
「平民は?」
「一部。才能。例外」
コヒスが小さく呟く。
「知識階級か」
アンセスは意味を完全には理解出来なかった。だが、少し嫌な響きだった。
レイヴンが机を軽く叩く。
「最後だ」
ライネが筒から帝国地図を取り出した。中央には帝国、四方には外縁地帯。人の認識が曖昧になっていく場所まで描かれている。
地図が机へ広げられると、アンセスは覗き込んだ。
そして止まった。
視線が川を追い、山脈を越え、都市と街道を一つずつ確かめていく。
もう一度見る。
オリヴァーも身を寄せた。
「……無い」
アンセスが地図を指でなぞる。
北。南。西。東。
どこにも無い。
「知らない」
レイヴンが聞く。
「何が」
アンセスは顔を上げた。
「全部」
部屋が静まる。
コヒスが地図を見て、それからアンセスを見る。
「地理体系一致無し」
短く言った。
レイヴンは腕を組む。
「じゃあ、お前たちの世界は」
少し考える。
「どこにある」
アンセスは答えなかった。
答えられなかった。
地図の上に、自分たちの世界は存在しなかった。




