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第5話 マナの無い世界

 アンセスが最初に部屋の外へ出たのは、目を覚ましてから五日目の朝だった。

 脇腹の傷はまだ塞がりきっていない。立ち上がるだけで皮膚の奥が引き攣り、深く息を吸えば鈍い痛みが走る。それでも、いつまでも寝台の上で天井を眺め続ける訳にはいかなかった。

 ここがどこなのか。自分たちはなぜ生きているのか。草原で出会った男たちは何者なのか。何一つ分かっていない。

 扉の外には見張りの兵が二人立っていた。アンセスが姿を見せると一瞬だけ身構えたが、すぐ剣から手を離した。

 敵意はない。ただし、自由でもない。

 それだけはよく分かった。

 廊下は石造りだった。床石は磨かれているが豪華ではなく、壁には簡素な灯具が掛かっている。所々には紙片を貼った板が置かれ、文字も見えた。

 読める。完全ではない。だが意味は推測出来た。

 医務室。武具保管。記録室。

 軍施設か行政施設。少なくとも盗賊の隠れ家ではない。

 アンセスは歩きながら壁や窓枠、金具の形を観察した。似ている。あまりにも似ていた。

 カピトリア北部の砦にもこういう造りはある。石を積み、木で補強し、風を防ぐため窓を小さくする。合理的な構造だった。

 だが細部が違う。

 金具の留め方。窓の高さ。服の裁ち方。

 全部、少しだけずれている。

 まるで誰かが古い記憶だけを頼りに再現したみたいだった。

 窓の外には草原が広がっていた。低い丘陵。春先の風。遠くまで続く緑。

 最後に見た景色も草原だった。

 敵軍に囲まれた。逃げ道はなかった。降伏すれば終わる。だから飛んだ。部下たちもついてきた。

 崖を越えた瞬間の風の音を、まだ覚えている。

「アンセス様」

 振り返る。

 通路の先で、二人の兵に支えられた男が立っていた。

 オリヴァーだった。

 領地軍の古参兵。幼い頃から領地へ仕え、最後まで付き従った部下の一人だ。額には包帯が巻かれ、右腕は吊られている。顔色も悪い。それでも生きていた。

「オリヴァー」

 アンセスは一歩近づく。脇腹が痛む。それでも止まらなかった。

「生きていたか」

 オリヴァーが少しだけ笑う。

「アンセス様こそ」

 そこで言葉が止まった。

 互いに何を言えばいいのか分からなかった。あの崖を飛んだ時点で、全員死ぬつもりだった。

「確認出来た者は十六人です」

「全員か」

「少なくとも、崖を飛んだ者は」

 アンセスは目を閉じた。

 奇跡だった。

 いや。

 奇跡では説明がつかない。

「アンセス様。ここは敵地でしょうか」

「分からない」

「カピトリアですか」

「違う」

「では、どこなんでしょう」

 答えられなかった。

 その時、オリヴァーが声を落とす。

「魔力が、感じられません」

 背筋が冷えた。

 自分だけではなかった。

 アンセスは窓辺へ歩く。傷が痛む。だが無視した。

 左手を外へ伸ばし、風が指の隙間を抜けるのを感じながら目を閉じる。

 空気中のマナを探る。

 草木を流れる力。石へ染み込む流れ。生き物を巡る脈動。世界を満たしているはずのもの。

 感じ取ろうとする。

 何もない。

 眉を寄せる。

 もう一度。

 今度は術式を使った。

 火種。

 学院へ入る前の子供でも覚える初歩術式だった。

 呼び込む。流す。起動。

 何も起きなかった。

 指先を風だけが通り過ぎる。

「……馬鹿な」

 アンセスは自分の手を見る。

 マナが尽きた。

 違う。

 それなら感覚がある。

 これは空だった。

 空気そのものが、空っぽだった。

「アンセス様……?」

「ここには、マナがない」

 言った瞬間、自分で凍りついた。

 マナがない世界。

 そんなものがあるはずがない。

 水のない海。火のない太陽。

 それと同じだった。

 なのに、人は歩いている。草は揺れる。空は青い。世界は壊れていない。

「あり得ません」

 オリヴァーが首を振る。

「マナなしで、人が生きられるはずがありません」

「俺もそう思っていた」

 ここは死後の国じゃない。

 生きている世界だった。

 ただ、自分たちの知る世界ではない。

 足音が近づく。

 セヴィだった。

 何か言う。

 意味は分からない。

 だが、敵意は感じなかった。

 アンセスは紙を書く仕草をする。しばらくして紙と筆記具が運ばれてきた。

 壁際の小卓へ向かい、ゆっくり腰を下ろす。傷が引き攣る。それでもペンを取った。

 少し迷う。

 マナという言葉を書いて通じるのか。

 分からない。

 だが、書くしかなかった。

『この世界には、マナが無いのか』

 セヴィが紙を受け取る。途中で手が止まった。

 マナ。

 その単語のところだった。

 少し考える。

 それから別の紙へ書く。

『マナ』

『意味』

『何?』

 アンセスは紙を見つめた。

 この男は知らない。

 マナを。世界を満たすものを。文明を支えるものを。

 知らない。

 窓の外では草原が揺れている。

 マナの無い空気の中で。

 アンセスは初めて理解した。

 自分たちは、本当に別の世界へ来てしまったのだと。


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