第92話「巫女本人」
アルト皇太子の机の上に、新たな二枚の報告書が置かれるだろう。
レティア・ゲンデル。
エリ。
市場の流れを見る者。
根の深さを見る者。
各国の候補者たちは、次々と帝都へ入っていた。
誰もが違う武器を持っている。
そして誰もが、皇太子の隣に立つ資格を示すために来ていた。
エリが帝都へ入ったという報告は、ブロドン共和国の報告よりも早く皇城内をざわつかせた。
理由は簡単だった。
エストル樹国が候補者を送ること自体は、誰もが予想していた。
だが、送られてきたのが有力氏族の娘でもなく世界樹の巫女本人だったからだ。
皇城の文官たちは、報告書を受け取った瞬間、思わず顔を見合わせた。
「……巫女本人だと?」
「間違いありません。門兵長からの報告です」
「エストルは何を考えている」
「本気、ということでしょう」
その一言で、周囲の空気が変わった。
エストル樹国に王はいない。
貴族もいない。
彼らの国の中心にあるのは世界樹であり、その声を聞く巫女こそが国の進む道を決める。
つまりエリは、他国でいう王と同じ存在だった。
そんな人物を、皇太子妃選抜へ送ってきた。
それは、エストル樹国がこの選抜をただの婚姻話とは見ていない証拠だった。
「すぐに王太子補佐長へ」
「いや、皇太子殿下にも直接上げろ」
「ブロドンの報告も一緒にか?」
「当然だ。だが優先度を上げる。エストルは巫女本人だ」
文官が足早に廊下を進む。
皇城の空気が、わずかに速くなった。
それは混乱ではない。
帝国という巨大な仕組みが、重要な情報を受け取って動き出す時の速度だった。
◆皇太子執務室
アルトの机の上に、二枚の報告書が置かれた。
一枚は、ブロドン共和国候補者レティア・ゲンデル。
もう一枚は、エストル樹国候補者エリ。
アルトはまず、レティアの報告へ目を通した。
「市場と人の流れへの観察力あり。持ち込み品は帳簿、商品見本、贈答品多数……」
淡々と読み終える。
「ブロドンらしいですね」
そばに控えていたギルタルが頷く。
「商売に来たのではなく、価値を見に来た、と門で発言したようです」
「正直でいい」
「褒めていますか?」
「半分ほど」
ギルタルは小さく苦笑した。
アルトは次に、エストル樹国の報告書へ手を伸ばした。
そして、最初の一文で指が止まる。
――エストル樹国候補、エリ。世界樹の巫女本人。
執務室に、短い沈黙が落ちた。
ギルタルが静かに口を開く。
「驚かれましたか」
「少し」
アルトは素直に答えた。
「候補者を送ることは予想していました。ですが、巫女本人とは思いませんでした」
「エストル樹国には王族も貴族も存在しません。彼らにとって世界樹の巫女は、国の意思に最も近い存在です」
「ええ」
アルトは報告書を読み進める。
「その本人を送ったということは、エストルは様子見ではない」
ギルタルの表情が引き締まる。
「本気で皇太子妃の座を狙っていると?」
「それもあります」
アルトは目を伏せたまま言う。
「ですが、それだけではないでしょう」
「では」
「帝国の根を見に来た」
アルトの声は静かだった。
「エストルは、国を森として見る。人も、法も、道も、権力も、すべて根を持つものとして捉える。巫女本人が来たということは、帝国の根がどこまで伸びているかを、直接見に来たということです」
ギルタルは黙って聞いていた。
アルトは報告書の一文を指でなぞる。
「門の補修跡、風の流れから帝国の性質を推測……」
わずかに口元を動かす。
「面白いですね」
その言葉は、ただの感想ではない。
評価だった。
「レティア殿下は流れを見た。エリは根を見た」
ギルタルが言う。
「候補者が増えるほど、視点も増えますね」
「ええ」
アルトは報告書を閉じた。
「だから、この選抜には意味があります」
ギルタルは少しだけ眉を動かす。
「婚約者を選ぶため、ではなく?」
「もちろん、それも目的です」
アルトは平然と答えた。
「ですが、各国が何を恐れ、何を見ようとしているのか。それが候補者に現れる」




