第90話「世界樹の巫女①」
門の外に、次の一団が姿を見せた。
ブロドン共和国とは、まるで違う静けさだった。
馬車の音が、ほとんどしない、護衛たちの足音も軽い。
風が通る音の方が、まだ大きく聞こえるほどだった。
掲げられた紋章は、深い緑の大樹。
門兵長が小さく呟く。
「……次は、エストル樹国か」
若い兵が顔を上げる。
「エルフの国、でしたか」
「ああ」
門兵長は目を細めた。
「ブロドンとは正反対だ。騒がず、急がない」
「では、楽そうですね」
「そうとは限らない」
門兵長は即座に返した。
「静かな相手ほど、何を見ているか分からん」
エストル樹国の馬車は、ゆっくりと門前に近づいてきた。
木で作られた馬車だった。
だが、粗末ではない。
磨かれた木目は美しく、金属の飾りよりも落ち着いた品がある。
車輪には特殊な加工が施されているのか、石畳の上を進んでもほとんど音を立てなかった。
扉の横には、小さな蔦の意匠。
派手な旗もない。
宝石の輝きもない。
だが、見れば見るほど丁寧に作られている。
門前に止まると、側近らしき女が静かに降りた。
「エストル樹国より参りました。皇太子妃選抜候補者をお連れしております」
声は柔らかい。
だが、芯がある。
門兵長は姿勢を正した。
「身分確認と荷の検査を行います。候補者の名前をお願いします」
女は深く一礼した。
「エストル樹国、世界樹の巫女。エリ様にございます」
その名が告げられた瞬間、門前の空気が少しだけ変わった。
若い兵が、思わず門兵長を見る。
「巫女様……ですか」
エストル樹国において、世界樹の巫女はただの宗教職ではない。
そもそも、エストル樹国には王族も貴族も存在しない。
人が人の上に立ち、血筋によって国を治める国ではない。
国の中心にあるのは、世界樹。
そして、その世界樹に選ばれ、世界樹の意思を聞く者が巫女だった。
巫女は森の変化を読み、民の祈りを受け、世界樹の意思によって国の方針を定める。
だからエリは、ただの候補者ではない。
王族の代わりに送られてきた存在でもない。
エストル樹国という国が、最も重い意味を込めて送り出した者だった。
「巫女本人を送ってきたか」
門兵長が低く呟く。
若い兵はまだ驚きを隠せない。
「それほど重要な方なのですか」
「重要どころではない」
門兵長は、馬車へ視線を向けたまま答えた。
「エストルで巫女の言葉は、国の方針そのものだ。世界樹が国の根なら、巫女はその根の声を聞く者だ」
その言葉が終わる頃、馬車の扉が静かに開いた。
その言葉が終わる頃、馬車の扉が静かに開いた。
現れた少女は、驚くほど静かだった。
淡い緑がかった髪。
白い肌。
細い体。
だが、弱々しくはない。
風に揺れる枝のような柔らかさと、雪を受けても折れない幹のような芯が、同居していた。
世界樹の巫女。
エリ。
彼女が馬車から降りた瞬間、エストルの者たちは一斉に頭を下げた。
命じられたからではない。
自然と、そうなるのだ。
彼女がそこに立つだけで、周囲の空気が静まる。
それだけで分かる。
この少女は、国から送られてきた候補ではない。
国の根そのものを背負って来た候補だった。
エリは地面に視線を落とした。
石畳。
車輪の跡。
門前に溜まる砂埃。
そして次に、門の石壁を見上げる。
「……よく手入れされていますね」
ぽつりと呟いた。
門兵長の眉がわずかに動く。
「門のことですか」
「はい」
エリは静かに頷く。
「石の継ぎ目に補修の跡があります。けれど、外から見えにくいように整えられている。壊れた部分を隠すのではなく、門としての姿を保つように直している」
若い兵が思わず壁を見る。
毎日見ている門。
だが、そこにそんな視点を向けたことはなかった。
エリは続ける。
「帝国らしいです」
「帝国らしい?」
門兵長が聞き返す。
エリは門を見上げたまま、静かに言った。
「傷つかない強さではなく、傷ついても形を崩さない強さ」
門前に短い沈黙が落ちた。
ブロドンのレティアは、門の流れを見た。
この少女は、門の時間を見ている。
何が壊れ、どう直され、どれだけ長く立ち続けているか。
見ているものが、まるで違う。
門兵長は小さく息を吐き、業務へ戻った。
「荷を確認します」
「お願いします」
側近たちが静かに荷を開いた。
衣類。
薬草。
木製の箱。
数冊の古い記録。
そして、小さな苗木が一つ。
門兵の一人が眉をひそめる。
「これは?」
側近が答える。
「世界樹から分けられた苗です」




