第89話「共和国の才女②」
「取引記録?」
「はい。公開されている範囲のものだけですが」
彼女は微笑みを崩さない。
「皇太子妃選抜に参加する以上、帝国のお金の流れを知らないままでは失礼でしょう?」
門兵長は返事をしなかった。
この少女は、帝国の市場を見に来ている。
通貨、港、関税、取引、流通。
ブロドン共和国の武器は剣ではない。
商売上の数字だ。
門兵長は帳簿を閉じ、別の箱を確認する。
「これは」
「茶葉と香辛料です。贈答用ですね。必要であれば、一部を開封して構いません」
「こちらは」
「布です。帝国の気候に合わせたものと、ブロドン製のものを比較できるように持ってきました」
「比較?」
「帝都の流行を知るためです」
レティアはにこやかに言う。
「何が好まれ、何が売れ、何が受け入れられないのか。衣服は、人の好みを見るには便利ですから」
門兵長は、そこで完全に理解した。
彼女は荷物を持ってきたのではない。
情報を取りに来たのだ。
持ち込んだ品物は、そのための道具。
帝国の反応を見るための餌でもある。
「……ブロドンらしいですね」
門兵長が小さく言う。
レティアは嬉しそうに笑った。
「褒め言葉として受け取っておきましょう」
「褒めたつもりはない」
「では、半分だけ受け取ります」
その軽さに、近くの門兵が一瞬だけ表情を崩しかけた。
だが門兵長は笑わない。この少女の反応は柔らかい。
しかし、柔らかいものほど形を変えて隙間に入り込む。硬い敵より、厄介な場合もある。
検査は順調に進んだ、武器らしい武器は何もない、危険物もない。
だが、帳簿、見本品、商談用と思われる書類が多すぎた。
門兵長は最後に確認する。
「持ち込み品に問題はない。だが、帝都内での商取引は取引許可がない場合は禁止されている」
「承知しております」
レティアはすぐに答えた。
「私は商売に来たのではありません」
一拍置く。
「価値を見に来ただけです」
門兵長の目が細くなる。
「価値?」
「はい」
レティアは帝都の奥へ視線を向けた。
「帝国が何に価値を置いているのか。人、法、金、土地、港、通貨。そして皇太子殿下が、何に価値を見出すのか」
その声は穏やかだった。
だが、言葉は鋭い。
「皇太子妃選抜とは、そういう場なのでしょう?」
門兵長は答えなかった。
彼は答える立場にはいない。
だが、レティアはその沈黙だけで十分だと判断したようだった。
「ありがとうございます。では、通っても?」
門兵長は少しだけ間を置いてから告げた。
「通行を許可します」
「感謝いたします」
レティアは丁寧に礼をした。
そして馬車に戻る前に、門前の商人たちへ一度だけ視線を向ける。
待たされていた者たち。護衛の者たち。
馬車の中へ入る直前、レティアは一度だけ振り返った。
門兵長と目が合う。
ほんの一瞬。
だが、その視線には、先ほどまでの柔らかな笑みとは違うものがあった。
値踏みする目。
商人が品物を見る時の目ではない。
交渉相手が、相手の手札を読む時の目だった。
扉が閉まる。
ブロドン共和国の使節団は、軽やかな車輪の音を響かせながら、ゆっくりと門をくぐった。
色とりどりの布が朝日に揺れる。
積まれた箱が小さく音を立てる。
商隊にも見えるその一団は、まるで帝都に新しい市場でも開きに来たかのようだった。
だが、門兵長は笑わなかった。
隣の若い兵が、少し気の抜けた声で言う。
「揉めませんでしたね」
「ああ」
「揉めないから問題がないとは限らん」
若い兵は首を傾げる。
「どういうことですか」
「獣王国は力で来た。シドルは仕組みを見た」
門兵長は、遠ざかるブロドンの馬車を見つめる。
「流れ、ですか」
「人の流れ、物の流れ、金の流れ。不満がどこに溜まるか、価値がどこで生まれるか。あの娘は、門に入る前からそれを見ていた」
若い兵は何も言えなくなった。
たしかに、レティアは一度も声を荒げていない。
規則にも従った。
むしろ、検査しやすいように荷物を整えていた。
だが、それは従順だからではない。
自分にとって最も損が少ない動き方を選んだだけだ。
門兵長は短く言った。
「報告を上げろ」
「内容は」
「ブロドン共和国候補、レティア・ゲンデル。帝都入城時、規則には従順。持ち込み品は帳簿、商品見本、贈答品多数」
一拍置く。
「市場と人の流れへの観察力あり。警戒対象」
若い兵は急いで記録を取った。
その時だった。




