第87話「内側から帝国を見る者」
しばらく沈黙が続いた。
重かった謁見の空気がまだ肩に残っている。
その沈黙を破ったのは、いつものようにミレーユだった。
「帝国側の候補者って、少しは有利だと思ってたんだけど」
「有利ではあると思います」
エルシアが淡々と答える。
「帝国の礼法、皇城の空気、貴族社会の仕組み。それを最初から知っているのは、間違いなく強みです」
「なら、まだいいじゃないですか」
「ですが」
エルシアは前を向いたまま続けた。
「知っているからこそ、知らないとは言えません」
ミレーユが言葉を詰まらせる。
ユリアが静かに補った。
「各国の候補者が失敗すれば、文化の違いと言えるかもしれません。けれど私たちは違う。帝国貴族として育った以上、帝国の場での失敗は、そのまま本人の未熟さになります」
「……それ、やっぱり不利じゃない?」
ミレーユが眉を寄せる。
エルシアは少しだけ笑った。
「有利で、不利です」
「一番嫌なやつだ」
「ええ。だから面白いのでしょう」
ミレーユはエルシアを見た。
「エルシア様って、たまに本当に皇城向きですよね」
「それ、褒めていますか?」
「半分くらいは」
「では、半分だけ受け取りましょう」
ユリアが小さく笑った。
その柔らかな笑いで、少しだけ空気が緩む。
けれど、すぐにミレーユは廊下の先へ視線を向けた。
「でもさ」
声が少しだけ低くなる。
「各国の候補者たち、みんな本気なんだよね」
「当然です」
エルシアが答える。
「皇太子妃という立場は、ただの婚姻ではありません。今の帝国においては、連合の中心に最も近い席でもあります」
「タン王国、アジス獣王国、シドル大公国。それにブロドン共和国とエストル樹国……どこも、ただ娘を嫁がせたいだけではないでしょうね」
ユリアが言う。
「帝国の中へ、自国の目を置きたい。あるいは、自国の価値を皇太子殿下に示したい」
ミレーユは小さく唸った。
「そう考えると、私たちって何を示せばいいんだろ」
その問いに、二人はすぐには答えなかった。
廊下の窓から夕陽が差し込み、三人の影を長く伸ばしている。
やがて、エルシアが口を開いた。
「帝国そのもの、ではないでしょうか」
「帝国そのもの?」
「はい。各国の候補者は、外から帝国を見ます。なら私たちは、内側から帝国を示す」
エルシアの声は静かだった。
「ただし、誇るだけでは足りません。帝国の強さだけでなく、重さも、歪みも、責任も理解していると示さなければならない」
ミレーユは少しだけ目を丸くした。
「……やっぱり難しい」
「難しいですね」
エルシアはあっさり認める。
ユリアが続けた。
「でも、それぞれ示せるものは違うはずです。エルシア様は帝国中央の制度と経済を知っている。ミレーユ様は辺境の現場を知っている。私は北方の維持と防衛を知っている」
「つまり、三人とも違う帝国を背負ってるってこと?」
「そうですね」
ユリアは頷いた。
「同じ帝国貴族でも、見てきた帝国は違います」
ミレーユはしばらく黙ったあと、少しだけ笑った。
「それなら、ちょっとだけ安心した」
「なぜですか?」
エルシアが問う。
「エルシア様みたいに完璧にならなくていいってことでしょ」
エルシアは一瞬だけ目を瞬かせた。
ユリアは口元に手を当て、静かに笑う。
「それは、良い解釈かもしれませんね」
「え、違う?」
「違いません」
エルシアは小さく息を吐いた。
「ただ、完璧に見えるように努力しているだけです」
ミレーユは足を止めかけた。
「え?」
エルシアは歩みを止めない。
「私も怖くないわけではありません」
その言葉に、ミレーユとユリアの視線が向く。
エルシアは前を向いたまま続けた。
「ラインハルト公爵家の娘として、失敗はできません。帝国の柱の一本の家として、無知も許されません。だから、崩れないように見せているだけです」
ミレーユは黙った、ユリアも、少しだけ目を伏せた。
エルシアは静かに言う。
「でも、そう見せることも帝国公爵としての役割です」
ミレーユは数秒黙り、それから小さく笑った。
「やっぱりエルシア様はすごいです」
「今のは何割ですか?」
「八割」
「では、ありがたく受け取りましょう」
三人の間に、ほんの少しだけ穏やかな空気が戻った。
その時、迎賓館の扉の前に立つ侍従が、三人に気づいて深く頭を下げた。
「候補者の皆様方、お待ちしておりました」
扉の奥から、微かに人の気配がした。
各国の候補者たち、帝国を外から見に来た者たち。
その存在が、すぐ向こう側にある。
ミレーユが小さく息を吸う。
「……いるんですね」
「ええ」
ユリアが答える。
「ここからは、友人同士である前に候補者です」
その言葉に、ミレーユの表情が少しだけ引き締まる。
エルシアは静かに頷いた。
「ですが、敵である必要はありません」
「え?」
「競う相手ではあります。けれど、皇太子殿下が何を見ようとしているか分からない以上、ただ蹴落とせばよいというものでもないでしょう」
ユリアが目を細めた。
「協力できるかも見られている、と?」
「可能性はあります」
エルシアは扉を見る。
「皇太子殿下は、単純な争いを望んでいるようには思えません」
ミレーユは苦笑した。
「それも測られてるってことですか」
「おそらく」
「本当に気が抜けないでしょうね」
「ええ」
エルシアは静かに答えた。
「だから、行きましょう」
侍従が扉を開ける。
迎賓館の広間から、柔らかな灯りが廊下へ流れた。
その光の向こうには、すでに何人かの候補者たちの姿がある。
リベナ。
リリ。
テジナ。
セレナ。
そして、他国から来た候補者たち。
それぞれが違う空気をまとい、帝国側の三人へ視線を向けた。
一瞬、場の空気が止まる。
外から帝国を見る者たち。
内側から帝国を知る者たち。
その視線が、初めて正面から交わった。
ミレーユが小さく呟く。
「……始まった」
エルシアは静かに一歩を踏み出す。
「ええ」
ユリアも続く。
「ここからですね」
三人は、帝国貴族として、そして候補者として広間へ入った。
皇太子妃選抜は、まだ正式な開始を告げられていない。
だが、この瞬間、全員が理解した。
もう後戻りはできない。
ここにいる誰もが、皇太子の隣に立つ資格を示すために来ているのだと




