第120話 帝国の警告
皇城。
帝国中枢区画。
重厚な扉が開かれる。
案内された男は、静かに室内へ足を踏み入れた。
バルド・グランツ。
タン王国最大商会、グランツ商会会頭。
港を支配する男。
王国最大の富豪。
だが今、この場ではただの商人だった。
部屋の中央には長い机。
その奥。
アルト・シクタルンが座っていた。
隣にはギルタル。
そして少し離れた位置にリベナ。
室内にいるのはそれだけ。
だが。
バルドは入った瞬間に理解した。
ここには見えない圧力がある。
「これはこれは」
バルドは笑みを浮かべる。
「皇太子殿下より直々にお招きいただけるとは光栄ですな」
返事はない。
アルトは資料を読んでいた。
ただそれだけ。
だが。
沈黙が続く。
十秒。
二十秒。
三十秒。
誰も何も言わない。
バルドの笑顔が少しだけ硬くなる。
そして。
アルトがようやく顔を上げた。
紫の瞳。
静かだった。
だが。
その視線だけで空気が変わる。
「グランツ商会」
アルトが口を開く。
「従業員三万二千四百八十七名」
バルドの眉が僅かに動く。
「保有船舶四百十二隻」
「王都支部資産、金貨二億三千万枚」
アルトは資料を閉じた。
「間違いありませんか」
バルドの笑顔が固まる。
表に出ていない数字。
商会内部でも限られた者しか知らない情報。
それを。
目の前の十六歳の皇太子が当然のように口にした。
「……その通りですな」
アルトは頷いた。
「そうですか」
それだけだった。
だが。
バルドの背中に汗が流れる。
アルトは続けた。
「三年前」
「西港倉庫火災」
バルドの瞳が揺れる。
「保険金詐欺」
沈黙。
「二年前」
「競合商会買収」
「裏で海賊を雇用」
ギルタルですら無言だった。
アルトは止まらない。
「半年前」
「王国税務官三名買収」
「先月」
「帝都潜伏工作員六名」
一枚。
また一枚。
資料が机へ置かれる。
その全てが事実だった。
バルドの額から汗が落ちる。
(なぜだ)
(なぜそこまで知っている)
(あり得ない)
だが。
目の前の皇太子は淡々としていた。
感情が見えない。
怒りもない。
喜びもない。
ただ事実を並べているだけ。
それが逆に恐ろしかった。
アルトは静かに言う。
「捕らえることは簡単です」
バルドの呼吸が止まる。
「今日にでも可能です」
「商会」
「船団」
「港湾権」
「資産」
「全て失うでしょう」
会議室が静まり返る。
バルドは理解した。
脅しではない。
事実だ。
帝国ならできる。
本当に。
今日中に。
全てを失わせることができる。
アルトは続けた。
「ですが私はしません」
バルドが顔を上げる。
初めてだった。
アルトが少しだけ興味を示したように見えた。
「なぜだと思いますか」
答えられない。
商人として何十年も生きてきた。
王族とも渡り合った。
貴族も利用してきた。
だが。
今だけは何も言えない。
アルトは静かに言った。
「あなた程度を潰しても意味がないからです」
空気が凍る。
リベナですら息を呑んだ。
バルド・グランツ。
タン王国最大商会会頭。
その男を。
「あなた程度」
と言い切った。
アルトは立ち上がる。
「帝国は港を奪い合うために存在しているわけではありません」
窓の外。
巨大な帝都が見える。
「帝国は世界を繋ぐために存在しています」
「港一つ」
「商会一つ」
「その程度で止まる国ではありません」
バルドの足が震える。
少年ではない。
目の前にいるのは。
次代の皇帝だった。
アルトは真っ直ぐに見つめる。
「今回だけは警告です」
紫の瞳が静かに光る。
「次に帝国へ手を出した時」
「グランツ商会という名は歴史から消えます」
沈黙。
長い沈黙。
バルドは何も返せなかった。
返せる言葉がなかった。
やがて。
面会は終わる。
退出したバルドは廊下へ出た。
そして。
壁へ手をついた。
呼吸が乱れる。
額から汗が流れる。
手が震えていた。
「……化け物だ」
思わず漏れる。
「あれが……アルト・シクタルン」
帝国が恐れられる理由。
その答えが目の前にいた。
商人として。
富豪として。
王国最大の権力者として。
初めて理解した。
自分は。
生かされているだけなのだと。
その頃。
会議室では。
ギルタルが静かに尋ねていた。
「泳がせるのですか」
アルトは窓の外を見る。
帝都の灯り。
広大な街。
帝国の中心。
「ええ」
短い返答。
ギルタルは続ける。
「黒幕ではないと」
アルトは頷いた。
「この程度の商人が」
「私の幼少期記録を欲しがる理由がありません」
リベナの表情が変わる。
アルトは静かに言った。
「彼は駒です」
会議室が静まる。
「本当に探すべき相手は」
一拍。
「まだ別にいます」
紫の瞳が細くなる。
事件は終わっていない。
むしろ。
今からが本番だった。




