第116話 皇太子の報告書
「アルト皇太子殿下の極秘調査報告書も、一緒に持ち去られています」
護衛の報告が終わった瞬間。
会議室は完全な静寂に包まれた。
誰もすぐには言葉を発せない。
候補者たちは理解していた。
それがどれほど異常なことなのかを。
最初に口を開いたのはリベナだった。
「……候補者ではなく、殿下が本命だった可能性がありますね」
静かな声だった。
だが、その言葉の重さは大きい。
セレナも頷く。
「選抜妨害だけでは説明がつきません」
レティアが腕を組む。
「候補者の情報だけなら、選抜を壊すためとも考えられます」
一拍。
「ですが、皇太子殿下の報告書まで持ち去る理由は別です」
エリが静かに呟く。
「根ではなく、幹を見ているのですね」
その表現に、アルトは少しだけ目を向けた。
エリは続ける。
「候補者たちは枝です」
「ですが、皇太子殿下は帝国の幹です」
「幹を知れば、木全体を知ることができます」
会議室が静まる。
テジナが鼻を鳴らした。
「面倒ね」
全員の視線が向く。
「アルトを狙うなんて馬鹿だわ」
「理由を聞いても?」
アルトが問う。
テジナは即答した。
「強いから」
会議室に小さな沈黙が落ちる。
テジナは平然としていた。
「弱い奴は狙われない」
「強い奴が狙われる」
「それだけよ」
単純だった。
だが、どこか本質でもあった。
ミレーユが不安そうに言う。
「殿下に危険はないんですか?」
アルトは落ち着いて答えた。
「現時点ではありません」
「でも……」
「心配ありがとうございます、ですが私に危険を及べせるのは皇帝陛下のみですので」
その言葉に、ミレーユは少しだけ安心したようだった。
ギルタルが資料を手に取る。
「皆様に説明しておくべきでしょう」
候補者たちの視線が集まる。
「皇太子殿下の報告書は、一般的な人物調査とは異なります」
ギルタルは続けた。
「皇帝陛下との関係」
「皇位継承権」
「直属組織」
「支持勢力」
「政治的影響力」
「帝国中枢との繋がり」
「弱点分析」
レティアの笑みが消える。
「それは……」
ギルタルは頷いた。
「国家機密です」
誰も反論しなかった。
その通りだった。
皇太子の情報。
それは個人情報ではない。
帝国そのものの情報だ。
セレナが静かに言った。
「帝国中枢の設計図に近い」
「その認識で構いません」
ギルタルが答える。
空気がさらに重くなる。
だが、その中で。
アルトだけは冷静だった。
彼はしばらく考えた後、静かに口を開いた。
「犯人は私を殺したいわけではありません」
を持つアルトを候補者たちが顔を上げる。
アルトは続けた。
「殺すだけなら、報告書は不要です」
「必要なのは理解すること」
一拍。
「つまり相手は、私と戦う準備をしています」
会議室の温度が下がったような気がした。
誰も軽く受け止められない。
相手は感情で動いていない。
準備している。
調べている。
理解しようとしている。
それは非常に危険だった。
アルトは候補者たちを見渡す。
そして、ふと別の質問をした。
「皆様は」
全員が顔を上げる。
「私の何を知りたいですか」
予想外の問いだった。
最初に答えたのはリベナ。
「何を隠しているのか」
即答だった。
アルトは頷く。
次はセレナ。
「何を基準に判断するのか」
「なるほど」
レティアは微笑む。
「何に価値を置くのか、ですね」
テジナは即答。
「どれくらい強いか」
ミレーユが苦笑した。
「それしかないんですか?」
「大事でしょ」
テジナは平然としている。
エリは静かに答えた。
「何を守ろうとしているのか」
アルトの瞳が少しだけ動いた。
ミレーユは少し考えた後、
「本当に優しい人なのか」
と答えた。
ユリアは静かに言う。
「どこまで責任を背負うのか」
そして最後。
エルシアだった。
会議室が静まる。
エルシアはアルトを見つめる。
そして静かに言った。
「何を一人で抱え込んでいるのか」
その瞬間。
アルトの表情がわずかに止まった。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ。
だが、確かに止まった。
ギルタルが気付く。
リベナも気付いた。
エリも。
だが誰も何も言わない。
アルトは静かに微笑んだ。
「難しい質問ですね」
それだけだった。
しかし、その反応自体が答えに近かった。
その時だった。
会議室の扉が再び開く。
護衛が駆け込んでくる。
「殿下!」
ギルタルが振り返る。
「何です」
護衛は息を整えた。
「追加調査の結果です」
アルトが頷く。
「報告を」
護衛は一礼した。
そして告げる。
「資料保管室から消えたのは、報告書だけではありません」
ギルタルの眉が動く。
「他にも?」
「はい」
会議室が静まる。
護衛は続けた。
「皇太子殿下の幼少期記録です」
一瞬。
アルトの瞳が揺れた。
本当にわずかだった。
だが確かに。
ギルタルが気付く。
レイラとレオンハルトなら、もっと大きく反応しただろう。
護衛は続けた。
「特に、五歳以前の記録だけが消えています」
会議室が静まり返る。
二歳。
三歳。
四歳。
五歳。
魔力授与の儀以前。
その期間だけ。
選択するように消されていた。
アルトは静かに目を閉じる。
そして、小さく息を吐いた。
「……そこを狙いましたか」
その声は静かだった。
だが。
初めて候補者たちは感じた。
皇太子アルト・シクタルンには。
まだ誰も知らない秘密がある。
そして犯人は。
その秘密へ近づこうとしている。
会議室の空気が重く沈む中。
アルトはゆっくりと目を開いた。
紫の瞳が静かに光る。
「ギルタル」
「はい」
「犯人は想像以上に深いところを見ています」
「同感です」
アルトは頷いた。
そして静かに告げた。
「ならば、こちらも本格的に動きましょう」
皇太子の声に迷いはなかった。
盗まれたのは記録。
だが。
奪われたのは情報だけではない。
犯人は今、帝国最大の秘密へ手を伸ばしている。




