第115話『盗まれた報告書』
迎賓館の会議室は、重い沈黙に包まれていた。
盗まれたのは、候補者八名の極秘調査報告書。
それだけでも十分に重大な事件だった。
だが、アルト・シクタルンは慌てなかった。
机の上に置かれた報告書一覧を見ながら、静かに考えている。
ギルタルが口を開いた。
「まず、盗まれた資料の内容を共有します」
候補者たちの視線が集まる。
「報告書には、各候補者の家族構成、国内での立場、派閥、人間関係、弱点、帝国側評価が記載されています」
ミレーユが目を見開いた。
「弱点まで……?」
「はい」
ギルタルは頷く。
「皇太子妃選抜に参加する以上、帝国は皆様を徹底的に調査しています」
誰も反論しない。
帝国なら当然だ。
むしろ調査していない方が恐ろしい。
リベナが静かに言った。
「これは危険ですね」
「理由は?」
アルトが問う。
「脅迫に使えます」
リベナは即答した。
「家族、人間関係、国内事情。知られたくない情報は必ずあります」
レティアも頷く。
「商売なら最高の商品です」
ミレーユが少し顔をしかめる。
レティアは肩をすくめた。
「もちろん売りませんよ。ただ価値の話です」
セレナが静かに続ける。
「政治的価値が高すぎます」
エリは目を伏せる。
「根を傷つける道具になりますね」
ユリアも頷いた。
「選抜そのものを壊せます」
そしてエルシアが静かに言う。
「誰かが選抜を操作しようとしている」
会議室が静まる。
その言葉に、アルトはわずかに頷いた。
「その可能性は高いですね」
一拍。
そしてアルトは候補者たちを見渡した。
「では、質問です」
全員が顔を上げる。
「仮に皆様が犯人なら、この情報をどう使いますか」
静寂。
だが誰も逃げなかった。
最初に口を開いたのはリベナだった。
「敵対候補者の弱点を流します」
「なるほど」
「本人ではなく周囲へ流す方が効果的です」
アルトは頷いた。
次はレティア。
「各国との交渉材料ですね」
「交渉?」
「弱みを握れば、有利に取引できます」
アルトはメモを取る。
テジナは腕を組んだ。
「私なら興味ないわ」
会議室に少しだけ笑いが起きる。
「面倒だし」
「らしいですね」
アルトは平然と返した。
セレナが続く。
「候補者同士を疑心暗鬼にします」
「理由は?」
「信頼を壊せば、組織は崩れます」
シドル大公国らしい、構造を見る答えだった。
エリは静かに言った。
「情報を流せば、根が腐ります」
短い言葉。
だが重い。
ミレーユは困ったように言った。
「私はそんなこと考えたくないです」
「それも一つの答えです」
アルトは否定しなかった。
ユリアは静かに答える。
「選抜そのものを壊せます」
アルトは頷く。
「その通りです」
最後にエルシア。
彼女は少し考えてから答えた。
「皇太子殿下への信頼を失わせます」
その瞬間。
アルトの指が止まった。
会議室が静まる。
エルシアは続けた。
「候補者の情報が漏れたという事実だけで、帝国への信頼は傷つきます」
「……なるほど」
アルトは静かに目を閉じた。
そして開く。
「そうです」
全員の視線が集まる。
「目的は候補者ではありません」
一拍。
「私です」
空気が凍る。
ミレーユが息を呑む。
ユリアも表情を引き締める。
アルトは続けた。
「選抜を壊せば、帝国の信頼が落ちる」
「候補者同士が疑い始めれば、連合も壊れる」
「つまり犯人は、皇太子妃選抜そのものを失敗させたい」
ギルタルも頷く。
「その可能性が最も高いです」
その時だった。
会議室の扉が開く。
リリが入ってきた。
相変わらず気配が薄い。
いつ入ってきたのか分からないほどだった。
「調査結果です」
リベナが目を向ける。
「何か分かりましたか?」
「はい」
リリは短く答えた。
「捕まった男は囮です」
会議室の空気が変わる。
「囮?」
テジナが眉を上げる。
「本命は別にいます」
リリは淡々と続けた。
「資料保管室へ侵入した者と、捕まった者の行動時間が一致しません」
セレナの目が細くなる。
「別働隊……」
「その可能性が高いです」
ギルタルも頷いた。
「つまり、最初から計画されていた」
リリはさらに続ける。
「そして侵入者は、迎賓館内部構造を知っています」
会議室が静まり返る。
外部犯だけでは不可能。
つまり。
帝国内部の協力者がいる。
その可能性が高い。
だが、アルトは表情を変えなかった。
「分かりました」
それだけだった。
焦りも怒りもない。
ただ事実を積み上げる。
それが皇太子だった。
その時。
再び扉が開く。
今度は護衛だった。
「殿下!」
息を切らしている。
かなり急いできたのだろう。
アルトが顔を上げる。
「何ですか」
護衛は敬礼した。
「盗まれた報告書について、新しい情報が判明しました」
ギルタルが問う。
「内容は?」
護衛は答える。
「盗まれた報告書ですが……八冊ではありません」
会議室が静まる。
候補者は八人。
ならば。
残り一冊は誰のものなのか。
護衛は続けた。
「九冊です」
誰も言葉を発しない。
そして。
護衛は告げた。
「アルト皇太子殿下の極秘調査報告書も、一緒に持ち去られています」
沈黙。
完全な沈黙だった。
候補者たちは息を呑む。
だが。
アルトだけは静かだった。
目を閉じる。
そして小さく呟いた。
「……なるほど」
ギルタルが見る。
アルトはゆっくりと顔を上げた。
「最初から」
その瞳が静かに光る。
「私を調べていたのですね」
会議室の空気が凍りつく。
盗まれたのは候補者の情報だけではない。
犯人が本当に狙っているのは――
皇太子アルト・シクタルン本人だった。




