第110話 帝国の敵
資料保管室から戻った後。
迎賓館には重い空気が流れていた。
候補者たちは、それぞれ用意された応接室へ案内されている。
誰も騒がない。
誰も不安を口にしない。
だが、全員が理解していた。
これはもう、ただの選抜ではない。
帝国の内部で何かが動いている。
そして、自分たちはその渦の近くに立っている。
◆
皇城。
会議室。
そこには再び帝国中枢が集まっていた。
皇帝レオンハルト・シクタルン。
王妃レイラ・シクタルン。
皇太子アルト・シクタルン。
ギルタル・アルノー。
ヴィクトル・アルノー公爵。
ゼドリック・モンテリオ公爵。
エドガー・ラインハルト公爵。
レグナ・デスト公爵。
机の上には、一枚の報告書が置かれている。
『資料保管室侵入事件』
レオンハルトは静かに報告書を閉じた。
「外か」
短い言葉だった。
だが、全員が意味を理解する。
ギルタルが首を横に振った。
「可能性は低いかと」
会議室の空気が変わる。
レオンハルトの金の瞳が向く。
「理由は」
「候補者評価総括書のみが狙われています」
ギルタルは答えた。
「帝国の軍事資料でもない。国境防衛計画でもない。連合の機密でもない」
アルトが続ける。
「選抜に関する資料です」
ヴィクトルが腕を組む。
「つまり」
「皇太子妃選抜そのものに関心がある者」
アルトは静かに言った。
「それも、かなり近い位置の者です」
レイラが少し眉を寄せる。
「候補者たちでは?」
「違います」
アルトは即答した。
「少なくとも、あの八人ではありません」
レオンハルトが小さく笑う。
「随分と信用したな」
「信用ではありません」
アルトは答えた。
「観察です」
一拍。
「もし候補者本人が狙うなら、自分の評価だけで十分です」
エドガーが頷く。
「確かにな」
「総括書を欲しがるのは、選抜全体を動かしたい者です」
静寂。
その意味は重い。
誰が有力か。
誰を落とすべきか。
誰を押し上げるべきか。
それを知りたい者。
つまり――。
「帝国内部か」
レグナ・デストが呟いた。
ギルタルも頷く。
「その可能性が最も高いです」
◆
沈黙が落ちる。
帝国は広い。
貴族も多い。
皇太子妃の座に価値を感じる者など数え切れない。
レオンハルトが椅子に深く座る。
「面倒だな」
「ええ」
アルトは否定しない。
「ですが、予想の範囲内です」
ゼドリックが目を細めた。
「予想していたのか」
「はい」
アルトは静かに答える。
「皇太子妃選抜です」
一拍。
「各国が動くのは当然です」
さらに続ける。
「ですが、それ以上に帝国内が動きます」
エドガーが苦笑する。
「耳が痛いな」
「事実です」
アルトは淡々と言った。
「皇太子妃は未来の皇妃です」
「帝国の中枢に入る」
「皇族になる」
「権力に触れる」
アルトは机の上の資料を見る。
「価値が大きすぎる」
誰も否定できない。
◆
その時だった。
会議室の扉が叩かれる。
「入れ」
レオンハルトが告げる。
現れたのは、近衛騎士だった。
「報告します」
全員の視線が向く。
騎士は一礼する。
「拘束した男の身元が判明しました」
ギルタルが問う。
「どこだ」
騎士は答えた。
「帝都南区の下級貴族の私兵です」
会議室の空気が変わる。
アルトの目が細くなる。
「家名は」
「カルバート男爵家」
聞いた瞬間。
ヴィクトルが鼻で笑った。
「小物だな」
だが、アルトは首を横に振る。
「違います」
全員が見る。
アルトは静かに言った。
「男爵家が単独で動ける案件ではありません」
「だろうな」
レオンハルトも同意する。
皇太子妃選抜。
各国候補者。
迎賓館。
警備網。
そこへ手を出す。
男爵家単独では不可能だ。
つまり。
背後がいる。
◆
レイラが静かに言った。
「表に出てきた者は、捨て駒ですね」
「その可能性が高いです」
ギルタルが答える。
レオンハルトは笑う。
だが、その笑みは冷たい。
「面白い」
誰も笑わない。
皇帝が本当に怒る時ほど、声は静かになる。
アルトも理解していた。
帝国内部で。
皇太子妃選抜を利用した者がいる。
それはつまり。
帝国そのものへ手を伸ばしたということだ。
レオンハルトは立ち上がった。
黄金の魔力が、わずかに漏れる。
会議室の空気が震えた。
「調べろ」
短い命令。
だが重い。
「男爵家だけで終わらせるな」
「金の流れ」
「人の流れ」
「命令系統」
「全部掘れ」
ギルタルが一礼する。
「承知しました」
◆
その頃。
迎賓館。
エルシアは窓際に立っていた。
夕暮れの帝都を見ている。
その隣にはミレーユ。
「難しくなってきたね」
ミレーユが呟く。
エルシアは静かに頷いた。
「ええ」
「選抜だけじゃなくなった」
「そうですね」
ミレーユは空を見る。
「アルト殿下って、大変なんだね」
その言葉に。
エルシアは少しだけ目を伏せた。
帝国。
連合。
各国。
貴族。
皇族。
敵。
味方。
その全ての中心に立つ者。
アルト・シクタルン。
彼が見ている景色は、自分たちが思っていたより遥かに広い。
エルシアは静かに呟いた。
「だからこそ……」
ミレーユが見る。
エルシアは遠くの皇城を見つめた。
「隣に立つ者も、覚悟が必要なのでしょう」
夕日が帝都を赤く染める。
だが、その影では。
誰かが動いていた。
皇太子妃選抜を利用しようとする者。
帝国を揺らそうとする者。
そして、それを追う帝国中枢。
選抜は続く。
だが、その裏で始まった戦いもまた、静かに動き始めていた。




