第109話 「資料保管室」
「資料保管室を確認しろ。今すぐに」
ギルタルの命令と同時に、護衛たちが走り出した。
迎賓館の廊下に張り詰めた空気が広がる。
先ほどまで危機対応試験だと思われていた出来事は、別の意味を持ち始めていた。
リリが見つけた紙片。
そこに記されていたのは、資料保管室への経路だった。
アルトは黒い影の男を見る。
「拘束してください」
「はっ」
護衛たちが男を押さえつける。
男は何も話さない。
だが、その沈黙が逆に不自然だった。
アルトは候補者たちへ視線を向ける。
「皆様も同行してください」
候補者たちは驚かなかった。
むしろ当然だと思った。
もし本当に何かが起きているなら、それもまた選抜の一部になる。
いや――。
選抜以上に重要な何かかもしれない。
◆
資料保管室前。
護衛たちはすでに周囲を封鎖していた。
ギルタルが先頭に立つ。
「開けろ」
扉が開かれる。
中は静かだった。
整然と並ぶ棚。
書類箱。
封印された記録。
一見すると異常はない。
だが、ギルタルの目が細くなる。
「誰か入ったな」
護衛が即座に確認する。
「封印が一つ切られています」
全員の視線が向く。
棚の奥。
帝国紋章が押された箱。
その封印だけが不自然に切れていた。
セレナが呟く。
「狙い撃ちですね」
「ええ」
アルトも頷いた。
無差別ではない。
最初から目的があった。
ギルタルが箱を開ける。
中には複数の資料が入っていた。
連合裁定の資料。
輸送路計画。
候補者評価記録。
そして――。
ギルタルの表情が変わる。
「これは……」
アルトが横から確認する。
そこには。
『皇太子妃選抜候補者評価一覧』
と書かれていた。
ミレーユが目を丸くした。
「私たちの資料?」
「正確には途中評価です」
アルトが答える。
候補者たちの視線が集まる。
誰が高く評価されているのか。
どんな記録が残されているのか。
知りたくないと言えば嘘になる。
だがアルトは箱を閉じた。
「見せません」
レティアが苦笑する。
「でしょうね」
「公平性が失われます」
アルトは淡々と言った。
ギルタルが周囲を調べる。
「他には」
護衛が報告した。
「一枚だけありません」
「何だ」
「候補者評価総括書です」
空気が変わった。
セレナが即座に理解する。
「個別評価ではなく、全体比較資料」
「その通りです」
ギルタルは頷いた。
つまり。
誰が有力候補なのか。
帝国が何を重視しているのか。
それがまとめられた資料。
それだけが持ち出されていた。
リベナが静かに言う。
「候補者本人を狙ったのではなく、選抜そのものを見に来たのですね」
「ええ」
アルトも同意した。
「かなり冷静です」
エルシアは棚を見つめた。
(評価資料……)
誰かが欲しがる理由は分かる。
有力候補が分かれば動き方を変えられる。
交渉もできる。
排除もできる。
テジナが腕を組む。
「で? 誰の仕業なの?」
全員が思っていることを、そのまま口にした。
ギルタルは即答しない。
代わりにリリが床へしゃがみ込んでいた。
誰も気づかなかった。
彼女はすでに痕跡を追っている。
「一つ」
リリが呟いた。
全員がそちらを見る。
リリは床の隅から小さな布片を拾い上げる。
黒い布。
だが、先ほど捕らえた男の服とは違う。
もっと高品質だ。
リベナが目を細める。
「二人いた?」
「少なくとも」
リリは答えた。
「侵入者は一人ではありません」
ギルタルの表情が険しくなる。
「陽動か」
「はい」
リリは頷く。
「捕まった男は囮です」
静寂。
つまり。
本命は別にいた。
危機対応試験の混乱。
灯りの消失。
転倒騒ぎ。
黒い影。
すべてが利用された。
アルトは静かに目を閉じる。
数秒後。
ゆっくり開いた。
「面白いですね」
その声は冷たかった。
候補者たちが初めて見る声だった。
いつもの穏やかな皇太子ではない。
帝国の中枢を預かる者の声。
「私たちの試験を利用するとは」
ギルタルが問う。
「追いますか」
「当然です」
アルトは答えた。
そして候補者たちを見る。
リベナ。
テジナ。
セレナ。
レティア。
エリ。
エルシア。
ミレーユ。
ユリア。
全員を見渡し、静かに告げた。
「皆様」
誰も口を挟まない。
「皇太子妃選抜は続行します」
一拍。
「ですが、ここから先は少し状況が変わります」
候補者たちの空気が引き締まる。
アルトは続けた。
「帝国の敵は外だけではありません」
その言葉が、重く響いた。
「誰が資料を狙ったのか」
「何を知ろうとしたのか」
「そして、その背後に何があるのか」
アルトの紫の瞳が静かに光る。
「それも含めて、見させていただきます」
候補者たちは理解した。
選抜は新しい段階へ入ったのだと。
ただ能力を競うだけではない。
帝国の現実。
権力。
陰謀。
そして国家そのもの。
それらの中で、誰が皇太子の隣に立てるのか。
その試験が、始まろうとしていた。




