第108話「影の侵入者」
エルシアは続ける。
「レティア様は人の流れをお願いします。セレナ様は灯りが落ちた原因の確認を。エリ様は周囲の者たちを落ち着かせてください」
「任されました」
「分かりました」
「はい」
最後に、エルシアはリベナを見る。
「リベナ殿下」
「何でしょう」
「裏を見てください」
リベナは、ほんの少しだけ目を細めた。
「よろしいのですか? タン王国の者に、その役を任せて」
「今は、誰の国かよりも、誰が何を見られるかが重要です」
その言葉に、リベナの口元がわずかに上がる。
「良い判断です」
「リリ様も動けますね?」
その言葉に、暗がりのどこかから小さな声が返った。
「もう動いています」
ミレーユが思わず周囲を見回す。
「え、どこから!?」
リベナは涼しい顔で答えた。
「気にしない方がいいですよ」
そのやり取りで、緊張がわずかに緩む。
だが、事態は終わっていなかった。
廊下の奥で、黒い影が動いた。
テジナが即座に反応する。
「いたわね」
彼女は床を蹴った。
速い。
だが、追いかけるのではなく、影の進路を塞ぐように動く。
エルシアの言葉を守っている。
九割だけ。
黒い影は一瞬動きを止め、横の扉へ逃げようとした。
その扉の前には、いつの間にかユリアが指示して配置した侍従がいた。
道が塞がっている。
影は逆方向へ動く。
だが、そこにはレティアが人の流れを整理した結果、ぽっかりと空いた空間があった。
逃げやすく見える。
しかし、そこはセレナが見ていた。
「そこは行き止まりです」
セレナの声が響く。
影が一瞬だけ迷った。
その瞬間。
暗がりからリリが現れた。
音もなく、影の背後に回り込んでいる。
「動かないで」
短い声。
影は振り返る。
だが、次の瞬間には腕を取られ、壁へ押さえつけられていた。
「……っ!」
その動きに、テジナが口笛を吹く。
「やるじゃない」
リリは表情を変えない。
「逃げる方向が単純でした」
リベナが静かに歩み寄る。
「それで、あなたは何を見に来たのかしら」
影の人物は答えない。
黒い布で顔を隠している。
その時、廊下の奥から足音がした。
アルトとギルタルが姿を現す。
護衛も数名、後ろに控えている。
候補者たちは一斉に姿勢を正しかけた。
だが、アルトは軽く手を上げる。
「そのままで構いません」
彼は周囲を見た。
倒れた侍女。
整理された人の流れ。
確保された避難路。
押さえられた黒い影。
そして、候補者たちの立ち位置。
アルトは静かに頷いた。
「危機対応試験は、ここまでです」
その言葉に、候補者たちの間に沈黙が落ちた。
ミレーユが目を丸くする。
「試験……だったんですか?」
ギルタルが答える。
「はい。灯りの消失、侍女の転倒、警備の一時的な乱れ。すべて、皆様の危機対応を見るために用意したものです」
テジナが腕を組む。
「趣味が悪いわね」
「否定はしません」
ギルタルは淡々と返した。
レティアは苦笑する。
「ですが、効果は高いですね」
「ええ」
アルトは候補者たちを見渡した。
「危機の中では、普段より本質が出ます」
その視線が、エルシアでわずかに止まる。
「特に、誰が何を見て、誰をどう動かすか」
エルシアは静かに目を伏せた。
その時だった。
リリが、押さえていた黒い影の手元を見て、低く言った。
「いいえ」
全員の視線がリリへ向く。
リリは黒い影の袖から、小さな紙片を抜き取っていた。
ギルタルの目が細くなる。
「何ですか」
リリはアルトを見た。
「まだ終わっていません」
廊下の空気が、一瞬で変わった。
リリは紙片を広げる。
そこには、迎賓館の見取り図の一部が描かれていた。
しかも、印がつけられていたのは候補者たちの部屋ではない。
アルトの控室でもない。
資料保管室だった。
リベナが静かに呟く。
「今の混乱に、試験ではない動きが混じっていました」
アルトの表情から、わずかな柔らかさが消える。
ギルタルもすぐに護衛へ視線を向けた。
「資料保管室を確認しろ。今すぐに」
「はっ」
護衛が走る。
黒い影の人物は、初めてわずかに身じろぎした。
それを見て、テジナが笑みを消す。
「本物が混ざってたってこと?」
セレナが静かに言った。
「試験の混乱を利用した者がいる、ということですね」
レティアは目を細める。
「誰が得をするのでしょうね」
エリは目を伏せる。
「風が、少し乱れました」
エルシアは、静かに息を呑んだ。
試験は終わった。
だが、危機は終わっていなかった。
候補者たちはそこで初めて知った。
皇太子妃選抜は、帝国が用意した試験だけで進むわけではない。
各国の思惑。
帝国内部の火種。
そして、誰にも見えない影。
それらもまた、この選抜の中へ入り込み始めていた。




