第107話「危機対応」
帝都視察を終えたその夜。
迎賓館には、昼間とは違う静けさが戻っていた。
候補者たちはそれぞれの部屋へ戻り、休息を取っている。
だが、その静けさは完全な安らぎではなかった。
市場で起きた荷車事故。
怪我をした少年。
詰まった人の流れ。
商人たちの不満。
そして、現場で露わになった制度の隙間。
それぞれが、昼間に見たものを胸の内で整理していた。
エルシアもまた、自室の机の前で資料を見つめていた。
市場通りの露店配置。
荷車の積載量。
緊急時の通行整理。
今日見たものを、頭の中で制度へ戻していく。
だが、筆はなかなか進まない。
制度にすれば、整う。
けれど、制度だけでは人は動かない。
現場には、焦りがある。
痛みがある。
怒りがある。
恐怖がある。
それを知らない制度は、ただ美しいだけの紙だ。
「……難しいですね」
エルシアが小さく呟いた、その時だった。
ふっ、と。
部屋の灯りが落ちた。
「……?」
エルシアは顔を上げる。
窓の外は夜。
廊下から聞こえていた侍女たちの足音も、急に止まった。
次の瞬間。
遠くで、悲鳴が上がった。
「きゃああっ!」
エルシアは椅子から立ち上がる。
扉の外が騒がしい。
走る足音。
何かが倒れる音。
そして、別の誰かの声。
「灯りが消えたぞ!」
「西棟だ!」
「侍女が倒れている!」
エルシアは一瞬だけ目を伏せた。
そして、息を整える。
昼間とは違う。
これは事故か。
襲撃か。
それとも――。
彼女はすぐに扉を開けた。
廊下は薄暗かった。
完全な闇ではない。
非常用の小さな魔灯が壁際に灯っている。
だが、普段より明らかに暗い。
廊下の先では侍女が一人、床に倒れていた。
近くにいた別の侍女が震えながら立ち尽くしている。
「誰か、誰か来てください!」
その声に、真っ先に飛び出してきたのはミレーユだった。
「倒れてる人はどこ!」
昼間と同じだった。
迷いがない。
ミレーユは倒れた侍女のそばに膝をつく。
「息はある。意識は……ないだけかな。頭は打ってない? 誰か、布と水! あと医師を呼んで!」
侍女たちが慌てて動こうとする。
だが、廊下は狭く、人が集まり始めていた。
その人の流れを見たレティアが、すぐに声を上げる。
「全員がこちらへ来ると詰まります。歩ける方は壁側へ。侍女の方々は二人だけ残ってください。他の方は向こうの広間へ」
柔らかい声。
しかし、不思議と人が従う。
レティアは笑みを浮かべたまま、的確に人を分けていく。
「慌てても早くはなりません。流れを作りましょう」
その反対側。
暗い廊下の奥へ、テジナが歩き出していた。
「前は私が見るわ」
「テジナ殿下」
エルシアが声をかける。
テジナは振り返らない。
「何かいるなら、早く潰した方がいいでしょう?」
その言葉と同時に、廊下の奥で金属音がした。
警備兵が何かを落とした音。
続けて、短い呻き声。
テジナの目が鋭くなる。
「やっぱり、何かあるじゃない」
彼女は一気に駆け出そうとした。
だが、その前にエルシアが言った。
「お待ちください」
テジナの足が止まる。
「今、単独で前へ出れば、後ろが乱れます」
「なら、どうするの?」
テジナの声には苛立ちが混じっていた。
だが、エルシアは怯まない。
「テジナ殿下は正面をお願いします。ただし、一人で追いかけないでください。正面を押さえるだけで十分です」
「命令?」
「お願いです」
「ふうん」
テジナは少しだけ口元を上げた。
「いいわ。九割くらい聞いてあげる」
「残り一割は?」
「相手が目の前に出たら殴る」
「それは構いません」
テジナは笑った。
「なら問題ないわね」
その間に、ユリアは廊下の構造を見ていた。
「このまま全員を中央広間へ流すと、階段前で詰まります」
彼女は静かに壁の見取り図を見る。
「東側の回廊を開けるべきです。西棟から離れる者は東回廊へ。怪我人はこの場に留めた方がよいです」
「ユリア様、避難路をお願いします」
エルシアが言う。
ユリアは頷いた。
「分かりました。侍従の方、東回廊の扉を開けてください。走らせず、二列で移動させてください」
声は大きくない。
だが、落ち着いている。
その落ち着きが、人を落ち着かせた。
セレナは壁の魔灯を見ていた。
「灯りの落ち方が不自然です」
「どういうことですか」
エルシアが問う。
セレナは廊下の天井を見上げる。
「迎賓館全体ではありません。この西棟の一部だけです。しかも完全に消えているのではなく、主灯だけが落ちて非常灯は残っている」
「偶然ではないと?」
「偶然にしては整いすぎています」
セレナは静かに言った。
「誰かが、この区画だけを暗くした」
その言葉に、リベナが小さく笑った。
「騒ぎを起こしたいだけなら、もっと派手にやるでしょうね」
リベナは暗い廊下の奥を見る。
「目的は混乱そのものではない。混乱に紛れて、何かを見るか、何かを取ること」
その後ろで、リリはすでに姿を消していた。
侍女のように控えていた少女が、音もなく影へ溶ける。
エルシアは一瞬だけその動きを目で追った。
そして理解する。
リリは候補者ではない。
だが、この場で最も自由に動ける者の一人だ。
エリは倒れた侍女のそばに膝をつき、ミレーユの隣にいた。
「息が乱れています」
「怖がってるんですか?」
「はい。体は大きく傷ついていません。でも、心が驚いています」
エリは侍女の手をそっと握る。
「大丈夫です。風はまだ通っています。ゆっくり、戻ってきてください」
その声は、暗い廊下の中で不思議なほど澄んでいた。
周囲で怯えていた侍女たちの呼吸まで、少しずつ整っていく。
エルシアは周囲を見渡した。
ミレーユは怪我人。
テジナは正面。
ユリアは避難路。
レティアは人の流れ。
セレナは原因。
リベナは裏の意図。
リリは影。
エリは混乱の鎮静。
なら、自分は。
エルシアは一歩前へ出た。
「皆様、役割を分けます」
その声に、候補者たちの視線が集まった。
「テジナ殿下は正面の警戒を。ユリア様は避難路を確保してください。ミレーユ様は倒れた方の処置を続けてください」
「はい!」
「承知しました」
テジナは何も言わず、前を向いた。




