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 連れていかれたのは車のライトが眩しい大通りではなく、猫の目が怪しく光る裏路地だった。あまり魑魅魍魎の類を信じない俺であるが、それでもさすがに少し怖いと感じてしまう。少なくとも、これが一人だったら迷わず引き返しているくらいには。


「あのう……いつまでこの道を歩くんですか?」


「怖いのかい?」


「恥ずかしながら少し……」


 ここで強がる意味はどこにもないだろう。

 道幅は狭く、まるでどこまでも入り組んだ迷路のように思えた。

まるで、この前まで読んでいた『骨咲く桜』の序盤に出てくる路地裏のようだ、と思う。物語ではこの先にやけに開けた空間があってそこには春夏秋冬に関係なく咲き続ける巨大な桜の木があるのだ。ファンタジーな世界観の多い新子八雲の作品にしては珍しく、まるで自分たちの生きる現実世界のような世界観が特徴的だった。しかし、それなのにまるで異空間のようにその現実を描く技術はさすがと言わざるを得なかった。

目の前にいる彼もこの道を知っているのだろうか。


 彼が本当に本物の新子八雲なのか、それを証明する術を持ち合わせている人物はおそらくこの地球上、どこにもいないだろう。

 だからたとえ彼が新子八雲の名を語っても、俺はそれを証明することができないのだ。

 実際に前例がないわけでは、ない。昔、というより一年に一度は新子八雲と名乗る人物が現れるのはもはや周知の事実でもあった。たいがいは、すぐに身元がバレて注目されたかったなどといった本当にくだらない理由であったりするのだが――まさか、彼のような人がそんなことをするのだろうか。それはそれで信じられないことだった。


「一つ、聞いてもいいですか?」


「なんだい?」


「あなたは本物の、あの新子八雲なんですか? 作家の……」


「ん? 僕を知っているのかい?」


「はい……まあ、有名人ですし。それに……ファンなので」


 後半の言葉を口に出すのは気が引けた。自分のファンだと言う人物と行動を共にするのは彼にとっても気が引けると思ったからだ。気を使わせてしまうかもしれない。それも、彼が本物の新子八雲だとするならの話であるが。


「それはいささか照れるものがあるね。そんなことを面と向かって言われたのは生まれて初めてだからさ」


 そんなはずはない――とは言えなかった。たしかに、ネットや雑誌などの間接的なものならば数えきれないほどの称賛の声を欲しいままに浴びているだろうが、姿を晒さない彼が直接そんな言葉をかけられることはないのかもしれない。俺が知っている「誰も知らない」新子八雲ならばそういうことになる。


「もしかして信じてくれていない感じ?」


 新子八雲を名乗る彼がそう聞いてきた。別に不服そうではなかった。


「はい、少し。気を悪くしたのなら謝ります」


「別にいいさ。信じてもらえないことには慣れっこだよ」


 彼は笑う。別に悲しそうでも複雑な気持ちを抱いている様子もなかった。本当に慣れっこなのだろう。 疑っている俺も同類なのだが、それはそれでかわいそうに思えた。そんな同情、彼には必要のないことなのだろうが。



「さあ、着いたよ」


 いつのまにか、狭い路地裏を抜け、俺は開けたそこに立っていた。

 決して広くはないがそれはまさしく、異空間というやつだった――そう見えた。

 コンクリートや鉄骨でできた無機質なビルに囲まれているにも関わらず、その地面は芝の絨毯が一面に敷いてあり、月光に照らされてキラキラと輝いている。

 それを切り裂くようにまっすぐに、一定の距離で刻まれた石畳の道――その先には魔女の家が建っていた。魔女の家といってもそれはもちろん、例え話である。ツタが無尽蔵に這っている古びた西洋風の一軒家。窓からは淡いオレンジ色の光があふれている。それはまさしく絵になっているというやつで、思わず感嘆の息が漏れた。


「どうだい、美しいだろう?」


「はい……とても」


 雰囲気がある、風情がある、そんなことを今までにあまり感じてこなかった自分にとってそれはまさしく革命であったことは言うまでもない。


「でも驚くのはまだ早い。本屋で大事なのは外観だけじゃあない。本と一緒で表紙だけじゃなく内容もいいものじゃないと良い本屋とはいえない。そうだろう?」


「も、もちろんです」


 扉を開けるとカランカランという綺麗な鐘の音が鳴った。



 その本屋は生きていた。

 本が、一冊一冊が命の息吹を発していた。

 作者順や出版社順に並んでいる従来の、自分が知っている本やとは違う感動がそこにはあった。

 内装も西洋風で落ち着いた紳士のような雰囲気をまとっているが決して手の届かないような空間や並べ方ではない。本はたしかに命を持っていてその物語世界を静かに主張していた。一冊一冊手に取ってみたいというのはこのことをいうのかもしれない。


「いらっしゃい、新子さん。おや、今日は随分と綺麗な目をしたお客さんもご一緒で」


 カウンターに座っていたこの店の店主であろう男が立ち上がる。年齢はおそらく六十代から七十代前半といったところだろうか。この店に見合う素敵な老紳士だと思った。綺麗な目というのは十中八九、俺のことなのだろうが、言われ慣れていないせいかあまりピンとこなかった。


「でしょ? 飯田奏斗くんっていうんだ。僕のことを助けてくれようとしたヒーロー君なんですよ。良い本屋を探していたらしいからここに連れて来たって次第です」


 そう言われ、俺は少し照れくさかったが老紳士に向かって会釈する。老紳士は少し微笑んで、


「なるほど、たしかに面白そうな方だ。人間味にあふれている」


 と言った。その表現には少し違和感を感じたが、別にけなしているわけではなさそうだったのでもう一度頭を下げる。


「それで飯田様、でよろしかったでしょうか? 本日はこのおいぼれの老後の楽しみのようなものである我が店でどのような一冊をお探しで?」


 随分と自分を卑下した物言いであるが嫌味には感じない、そんな不思議な問いかけに俺は心を持っていかれた――この人になら正直に話してもいいような、表現しがたい気分になった。


「気になる人がいて……あ、といっても別に好きだとかそういうわけじゃないんですけど。その人が好きな本があって、それを読んだらなんとなくでも彼女のことが分かるような気がするんです」


 それを言うと後ろで本を手に取っていた新子さんが「青春だねえ」と呟いた。それが嫌味でないことは分かったので特別気分を害することはなかった。

 正面にいる老紳士はややあってゆっくりと口を開く。


「それはなんという本で?」


「『絵を置く旅人』です。新子八雲先生のデビュー作の」


「僕の本じゃあないか。不思議な縁もあるものだねえ。あれはたしかに僕にとっても印象深い一冊だ」


 そんな言葉をよそに老紳士はやわらくほほえむと、


「もちろんございます。何せこの店一番のお得意様の本ですから」


 と言って、並ぶ本棚の中からその一冊を取り出してきた。それはもちろん、探していた『絵を置く旅人』で間違いなかった。


「ありがとうございます。あの、これください」


 老紳士は微笑む。


「もちろんでございます」


 そして俺は念願の『絵を置く旅人』を手に入れたのだった。



「ね、いいお店だったでしょ?」


「はい、本当に素敵でした。欲しかった本も買えましたし、あの、もう夜遅いのにありがとうございました。新子さん」


「お、ということは僕が新子八雲だと信じたくれたのかい?」


「いや、それはまだ分かんないんですけど……」


 そう言うと彼は屈託のない笑みを浮かべて「まあ、いいさ」と言った。気を悪くした様子ではなかった。


「あのお店は文字通り僕の人生を変えてくれた本屋なんだ。この姿を見たら分かると思うけど僕は昔から身体が弱くてね」


 そう言うと彼は自身の服の袖を捲り、その病的なまでに青白い肌を見せてきた。


「僕は生まれつき肌を守るメラニン色素が全くと言っていいほどないらしくてね、日の当たるところには出られないんだ。火傷しちゃうかもしれないしね。それでも、僕みたいな人でも普通に外を出歩いている人は大勢いる。だけど、僕の場合はそこに病弱ときたもんだからよりひどくてね。日なたは僕にとっては毒素の充満した空間になってしまっていたわけさ。だから幼い頃から自然と昼夜逆転の生活が習慣になってしまってね。学校にもほとんど通えなかった。友達も一人もいなかった。僕が起きる時間帯にはたいがいの人は家に帰ってしまっていたしね。それでも義務教育は先生の寛大な配慮で卒業させてもらった。だけど高校ではそうはいかなかった。夜間の高校に入ったんだけどあまり馴染めなくてね、すぐに退学してしまった」


「そう……だったんですか……」


 聞いていて辛かった。何よりも辛かったのは彼がそのことを無感動に淡々と話しているところだった。しかし、少しだけ彼の表情が明るくなった。


「そんな時にたまたまあのお店に出会ったんだ。あのお店は、あの店主が僕に物語というものを教えてくれたんだ。勇敢なヒーローに心を躍らせ、聡明な探偵に感心し、淫らな女性に少し性的な興奮も覚えた。物語が僕という人間を作り上げたと言っても過言じゃないくらいだよ」


 彼は嬉しそうに語った。本当に幸せそうだった。


「良いお話ですね」


 本心からそう思った。



 帰ろう。

 家に帰ろう。

 彼と出会ったことで心が落ち着いたためなのか、目的を果たしたからなのか、ただ単に帰らないといけないほどの遅い時間になってしまったからなのかは定かではないが、そう思った。少なくとも、彼と少しの間いただけでとがっていた心が少しだけ丸くなったような、そんな気がした。

 帰り道が違うと分かると彼が少し真剣なまなざしで、


「僕と友達になってくれないか?」


 と、言ってきた。答えは決まっていた。

 俺がその二文字を伝えると彼は本当に嬉しそうに微笑んで、ズボンのポケットから携帯電話を取り出した。最近では、少なくとも自分の年代ではあまり見慣れないガラケーというやつだった。というのも、スマートフォンはゲームなどの誘惑が多すぎて執筆活動に支障をきたすかもしれないので、ということらしい。

 久しぶりのメールアドレスの交換は操作に少しとまどった。しかし、ラインが主流になっていることを差し引いても少ない俺の連絡帳の一番目に彼の名が刻まれたときは素直に嬉しかった。新子八雲という名前じゃなく、彼という人物とつながりがもてたのが、である。

 彼も嬉しそうだった。たしかに、今の話を聞く限りではひとり、壮絶な過去をおくってきたのだろうから誰かとつながりをもてるというのは俺以上に嬉しいことなのかもしれない。俺もそこまで楽しい日々をおくってきたわけではないが、彼よりも恵まれているのは間違いのないことだった。何せ、俺には花山という人物と親友の関係を築き上げているし、それ以前に学校という場所に通えている。彼にとってはそれが最上の贅沢なのかもしれない。


「じゃあね、また出会えることを祈っているよ。あ、でも僕は昼間は眠っているから連絡がつながるのは夜になってからというのは覚えておいてほしい。決して君のことが嫌いで無視しているわけじゃないから」


 彼がそう言う。もしかしたら今までにそういう苦い体験が少なからずあったのかもしれない。俺がうなずくとやはり、彼は嬉しそうに笑った。


「じゃあね、ヒーロー君」


 彼はそう言って去っていった。

 ヒーロー君――俺は彼にとってのヒーローになったのだろうか。少なくとも「ヒーロー」という言葉が「友達」という意味合いをもつ言葉に聞こえたのは生まれて初めての経験だった。



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