12
時刻はもう午後九時――言うまでもなく夜だった。
いくら日の長い夏といえど、さすがに外は暗かった。
「行ってきます」と玄関で靴を履きながら言うと、一つの影が俺の前に現れた。
一瞬で、つい五秒ほど前に言った言葉を後悔した。面倒なことになると分かっていたのに、いつもの癖が、当然ともいえる挨拶の習慣が無意識となって俺に口を開かせた。
「こんな夜遅くにどこに行くの?」
「別に……遅くはねえよ」
「遅いわよ」
「遅くないって!」
「だからあなたは――!」
高校生ならこれくらい普通だろう。予備校に通っている花山なんかは帰宅すると午後十一時をまわることだってあるそうだ。俺がか弱い少女ならともかく、男の俺が少し出かけるくらい放っておいてほしいものだ――言葉は次々と浮かぶのにそれらを口に出す気力はなかった。
反抗期、というとそれまでなのかもしれない。
しかし、最近、もっと詳しくいえば現代文の単位を落とし、補習を余儀なくされた身になってからはより、その溝のようなものが深くなった気がする。補習になったのは俺が全面的に悪い、それは理解しているつもりだ。大切な受験前に単位を落とした一人息子を心配する親の気持ちも分かる。それなのに、なぜか分かり合えない。理由は分からない。何か不思議な力でもはたらいているんじゃないか――そう思ってしまうほどに、夏季休暇に入ってからはろくに会話すらしなくなっていた。俺も俺であるが母も母(もっというなら父も父)である。口を開けば「大丈夫なのか」、「勉強はちゃんとしているのか」――毎回、同じことを言われるのだから気が滅入ってしまう。
勉強しろと言われると勉強する気が失せるという言い分は何歳まで通じることなのか、子供の言い訳と言われようとも俺はとてもじゃないが自宅で勉強する気は起きなかった。
「行ってきます」という言葉が浮かんだがそれをため息という形に昇華させ、俺は玄関のドアを開けた。そのまま振り向くことなくそれを閉める――母は何も言わなかった。
夏の夜は非常に蒸し暑い。
今、この時に立っている場所が世界で最も暑い地点なんじゃないか、と思う。もちろん、そんなわけはない――悪いのは気温ではなく、おそらく湿度のせいだ。この国はいつだってそうだ。
俺の足は駅へと向かっていた。別に、電車に乗るわけではない。行きたいのは大きな建物やマンション、ショッピングモールがひしめく駅前だ。目的地はそこにある。
瓦井書店はここらで最も大きい書店だ。欲しい本はたいがいそこに置いてあり、この街で最も大きいショッピングモールのワンフロアを占めるその広大な屋内面積は専門である書籍だけにとどまらず、ありとあらゆる文房具などまで取り揃えてある。最近話題の雑貨屋を兼ね添えた大型書店というやつだ。すぐ下のフロアに行けばおしゃれなカフェまであって、そこに書店で買った物のレシートを見せると少し割引してもらえるそうだ。たしかに、カフェでブレイクタイムしながらの読書は最高だろう。至福のひと時というのはこのようなことを言うのかもしれない。しかし、俺は生憎、本はひとり静かなところで読む派なのでそこを利用したことはなかった。
誤算だった。
客の少なくなった閉店間際のショッピングモールで『本日臨時休業』と書かれた札がかけられている――一面薄暗いフロアで俺はそう思った。
そもそもなぜ、閉店間際に来たのかということであるがそれは単純な話で、今日、昼間は補習があったのと、人がひしめく空間で本を探すのが苦手だったからだ。ここは取り扱っている書籍が多いが、その利便性と共に本屋にとって大切な静寂を失ってしまったらしい――昼間はなんだかざわざわと騒がしかった。だから、この店は人が少なくなることでその真価をやっと発揮できる。少なくとも、俺はそう思っていた。やはり、本屋は静かな方がいい。
ずっとここで立ちすくんでいるわけにもいかない。現実を受けとめ、ショッピングモールの外に出る。かすかに『閉店三十分前になりました』というアナウンスが聞こえた。
「……ツイてないな」
ひとり、そう呟き、空を見上げた。星は見えなかった。
少し遠回りして帰ろう、と思う。
口論になりそうだったところを逃げるように家から出た建前、のこのこと帰宅するのはバツが悪かった。特にこれといった意味もなく母に負けた気持ちになるのが目に見えている。それは自分の中で許されることじゃなかった。いさぎよく認めよう――変なプライドである。
月は明るかった。
星が見えないのはまるで大きな月が小さな星を飲み込んでいるためのように思えた。そんなはずはないということは理解している――しかし、今の自分にはそうにしか見えなかった。
大きな月はどこか孤独で、きっと自分のせいで星が消えたことを知らないのだ。
まるで、人間のようだ――天才は凡人を痛めていることに気づかない。
自分はどちらだ?
そんなこと、ずっと前から知っている。
自分はきっと天才に押しつぶされた側の人間だ。
たくさんの人が自分よりも優れている。
それを嫌とは言わない。
何よりも嫌なのは――
目の前にいる人物に気づいたのはその人が道端で倒れたときだった。
倒れた、という表現はおかしい。正確には転んだのだ。たまたま落ちていた少し大きめの石に気づかず、けつまずいただけだ。それなのに、なぜ、最初見たとき倒れたと思ったのか――それは単純な話で、その人物がまるで病院から逃げ出してきたような病人にしか見えなかったからである。だからそれを無視できずに思わず、声をかけてしまったのも仕方のないことであるといえた。
「――! だ、大丈夫ですか⁉」
そう言って急いで倒れた人物に駆け寄る。汗が噴き出る。これはおそらく蒸し暑い夏の夜に走ったためではなく、その想像すらしていなかった光景に戸惑いが隠せなかったためであろう。
その人はかなり痩せこけていた。
身長はおそらく俺と同じくらい。それも相まってかその人の風貌はまさに骨と皮だけ、であった。
肌は白かったがそれは健康的なものとは程遠く、まるで亡霊のように生気のない、血の気のない青白だった。
髪は真っ白で長い――昔、絵本で見た山姥を連想させられた。
総合的にみて、彼は正直、怖かった。
そんな人物が呼びかけに応じることもなくコンクリートの地面に顔を突っ伏して動かないでいるのだ。不気味に感じないわけがない。
「あ、あの……」
返事はない。死んでいるなんてことはないよな、と最悪な事態を想像してしまいそうになったが押しとどめた。
「あの! 大丈夫ですか!」
今度は寝た子も起こす勢いで呼びかけてみる。しかし、やはり返答はない。
血の気が引く。流れていた汗が一瞬で乾くのが分かった。
「きゅ、救急車呼びますね!」
一応、行動を宣言してポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。そのままお馴染みの三桁の番号を入力する。我ながら流れるように素早い動きだったと思う。そして、いよいよ発信ボタンを押そうとしたときだった――その行動は止められる。
「大丈夫、心配ないよ」
聞いたことのない声であったがそれが今その場に倒れている人物のものであることは明らかだった。優しそうな男の声だった。
男が起き上がる。頬は痩せこけ、やはり申し訳ない話、弱弱しく見えた。突っ伏していたためか、男の顔は少し汚れている。しかし、それが美形であることはすぐに理解できた。中性的ともいうのかもしれない。その大きな目からは母性にも似た何か不思議なものを感じた。
「え……えっと……」
なんて声をかけていいのか分からない。「大丈夫」と本人が言ってのだから本当に大丈夫なのだろう。しかし、あきらかに大丈夫そうに見えなかったのもまた事実だった。それほどに彼の身体は病的だった。
「こんなところに大きい石を放置しておくなんてあまり感心できることじゃないね。転んだらどうするんだか」
彼は自分の足元に転がっている石を見てため息をついた。
「子供が遊んだまま忘れていったのかな……っと」
彼は石を掴むと道の端に寄せた。大きいとはいえ、そこまでの重さはないはずなのだが石を置くと、彼はひと仕事終えた作業員のように大きく息を吐いた。
「僕と同じ被害にあう人は事前に救っとかないと、ね。君もそう思わない?」
彼がこちらを振り向く。それが俺に向けられた言葉だというのは状況的に明らかだった。
「そうですね」
と、適当に返事をしてみる。
「心配してくれてありがとう。そしてこんばんは」
彼がぺこりと頭を下げる。身長は変わらないはずなのにそれだけでそのシルエットはとても小さく見えた。
年齢が自分よりも年上なのは明らかだった。おそらく、二十代前半といったところだろう。どこか腰が低く、物腰の軽そうな雰囲気は社会人のそれと同じような感じであった。
「別に感謝されるようなことでもないですよ。無事だったのなら何よりです」
年上に頭を下げられるのはどこか居心地が悪い。
正直に言ってしまうと、一刻も早く、この場を立ち去りたかった。あまり他人と話すのは得意じゃないし、何よりも今はあまり人と話すような気分でもなかったからだ。
彼が頭を上げる。
「君はいい人だね。最近の若者は冷たいってよく言われているけどどうやらそうでもないらしい」
そういう問題ではないと思う。たとえどんな人であっても彼のような人が突然倒れたら声をかけるだろう。少なくとも、何も感じないなんてことはないはずだ。激しく動揺するはずである。
「そんなことないですよ」
「しかも謙虚ときたもんだ」
「自分はたまたまここを歩いていただけなんで」
「いやいや、それでもとっさにこんな見ず知らずの他人に声をかけるなんて普通、できることじゃないよ」
そういうものなんだろうか?
「そうだ、何かお礼をしなくちゃね。困っていることはない? ヒーロー君」
彼が嬉しそうに問いかけてくる。
ヒーロー君という呼び方はおそらく、いや、絶対に俺のことをさしているのだろう。
「そのヒーロー君って何なんですかね?」
「もちろん、君のことだよ。若者冷血時代に舞い降りた天使、僕には君がそう見える」
変わっている、と思った。彼もまたその若い人達のカテゴリーに入る年齢層だろうに。
ヒーローとは何なのだろうか。
俺からしたら彼の方がよっぽどヒーローに見える。誰かが被害にあう前にその芽を摘んでおく――その所業をヒーローと呼ばずしてなんと呼ぶのだろう。いや、ある。人は彼のような人物を「徳の高い人」、あるいは「良い人」と言うのだろう。どこか親友に似た雰囲気を感じた。
「はあ、こんなことでそこまで絶賛していただけるとこちらも照れくさいです」
「自分を謙遜する必要はないよ。まあ、それが君という人なんだろうけども。で、何かないかい? こんなことを言ってはあれだけど、僕は結構ここら辺の地域に詳しいんだ」
「なぜ、地域なんですか?」
普通なら――いや、まず見ず知らずの人に何か困っていることは、と聞くのはおかしい。お金がほしいとか、何か良からぬことを頼まれてもおかしくない時代なのだから。
「だって君は、じゃあお金をください、とかそんなことを言うような人じゃないでしょ? 僕は君という人のことをこれっぽっちも知らないけど君がそんな人じゃないことくらい分かっているつもりだよ」
たった一度、心配されたくらいでここまで人を信じられるのも才能かもしれない。「良い人」であるのは間違いないだろうが、これでは「人が良い」とも表現できてしまう。「人が良い」ことが悪いことであると断言することはできないが。
「それに、今、君は何かに迷っているだろう? たとえば、家に帰りたくないとか」
「…………」
思わず、黙り込んでしまう。随分と人を見透かすような言い方であるが間違いではない。これが図星というやつなのだろう。
「まあ、若いうちは色々あるよね。僕も苦労したよ、それはもう色々と……あの頃は若かったなあ」
どこか遠い目であさっての方を向く彼――俺も彼のことは何一つとして知らないが、その風貌を見ていると彼は彼で苦労を背負ってきたことは容易に想像することができた。
「そこまで言われると、こちらも何か頼まないといけない気がしてきました」
そう言うと、彼は屈託のない笑みを見せた。
「だろう? ささ、遠慮なく言ってくれ。久しぶりに僕の頭や体や魂がフル回転しちゃうよ」
「じゃあ――」
ダメ元というやつだった。俺の中で、それはありえないことだと確信していたからだ。しかし、それはあくまで自分の中でのことであり、その考えが覆されるということをなんとなくであるが期待していたのかもしれない。
「――ここらへんで瓦井書店よりもいい本屋はありますか?」
「あるよ、ついてきなよ、ヒーロー君」
俺の想像以上に彼は即答だった。そして、彼が案内してくれることもまた予想外なことであった。
「そのヒーロー君って呼び方、恥ずかしいのでやめてください。……飯田奏斗っていいます」
「奏斗君、か。うん、いい名前だね」
「ありがとうございます。あなたは?」
彼は一瞬、目をそらして迷った様子だった。しかし、すぐにこちらを真っすぐ向いて口を開いた。
「僕のことは……新子八雲とでも呼んでくれ」




