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いよいよ夏季休暇も後半に迫った時だった。

しかし、気温はより一層ヒートアップしていて窓を全開にしてもまるでサウナのような蒸し暑さが俺の集中力をそいでいった。

 補習に対しての意識は最初の頃よりもむしろ上がっていると思う。しかし、それと補習に対しての集中力は比例しない。相変わらず、白河さんからは「本当に何をしているのか分からない」といった辛辣な言葉を浴びせられることも多々あった。


 奥村が突然、プリントを刷り忘れたと言って教室を出て行った。せっかくの夏休みだというのにご丁寧かつ忙しい、教師には絶対になるまいと固く誓った。


「なあ」


 適当に、特に用事があるわけでもないのだが隣にいる彼女に話しかけてみる。彼女は一生懸命に何やら課題に集中している様子だった。目の下にはわずかにクマがある。よほど、勉強しているに違いない。真面目なものである。

 もはや彼女と話すことや、話しかけることに抵抗などなくなっていた。彼女は変わっているが悪い奴じゃない。いや、良い奴だとか悪い奴だとか、そういうのは関係なかった。慣れといったそういうものでもなく、類は友を呼ぶといったところか、なんとも表現しがたい親近感のようなものを感じていた。友達ではないかもしれないが補習という名の同じ穴の狢、お互い学校で嫌われ者(これは俺の勝手な推測であるが)という名の狢、読書家という名の狢、その他にも彼女と俺には共通点が多いように感じた。彼女は絶対にそれを認めないのだろうが。


「何、今は話しかけないでくれるかしら? 日本史の理解に忙しいの」


「現代文じゃねえのかよ!」


 おもわずツッコミをいれてしまう。


「時間は有限よ。私はあなたと違って忙しい、それはもう充実した日々を送っているの。少なくとも、何も考えてなさそうな顔をしているあなたよりかは」


「遠回しに俺のルックスに口出しされている気がするよ。失礼な話だ」


 彼女の毒舌にも慣れた――わけではないな。うん、ないない。


「で、何の用かしら?」


 彼女がこちらを向く。凛とした目つきでこちらを見つめる。少しドキリとしてしまうが平常心を保つ。それは会話をする意思があるときのサインである。どんな相手にもひるまず、相手の目を見て言葉を発したり聞いたりするのは彼女の美徳だと思う。


「おやおや、何か用がないと話しかけちゃあ駄目なのかい?」


「あたりまえじゃない。私とあなたはそんな世間話をする間柄じゃないと思うの」


「ショックだなあ……」


 かなりの頻度で世間話をしているような気がするのだが……彼女にとって今までの俺との会話は何だったのだろう。ショックなのもわりと本気である。分かってはいたがやはり、親近感を覚えていたのは俺だけだったらしい。


「で、何か用があるの、ないの?」


「ある、あるから!」


 嘘である。今、無理やり話題を作ったというのが正しい。


「えっと、あれだよあれ。『絵を置く旅人』を読んだって話だよ」


 彼女が分かりやすく反応する。これも彼女の美徳だ、たぶん。


「随分と遅かったじゃない。逆に今まで何をしていたのかと問いたいくらいだわ」


「はいはい、これでも結構忙しかったんだよ。それに、俺はあまり読むのが早い方じゃないからな」


 嘘だ。本当はかなり前に読み終わっていたのだが言い出すタイミングがなかったのである。自然と言えるタイミングをうかがっていたともいえる。


「どうだった?」


「ああ、面白かったよ、すごく」



『絵を置く旅人』

 ひとりの「少年」の絵描きがさまざまな国や街を旅している様子を描いた一話完結型のオムニバス作品だ。「少年」は訪れる国や街に必ず一枚の絵を献上する。その国や街に見合った絵を描くまでの「少年」の純粋で繊細な心の動きが鮮明に描かれていた。

 それはまるで、小説というよりは何枚もの絵画であった。

 自分は絵画や芸術作品に詳しくないが、それが絵画的であったといえるのは何となく分かる。



「特に、ラステル公国の話はよかった。主人公が不法入国の濡れ衣を着せられて獄中の壁に石でバレないように少しずつ絵を描いていく話」


「第四章ね、あの話は私もハラハラしたわ」


彼女がうなずく。あきらかにテンションが上がっているのが分かった。


「そうなの、だから私は――」


 後半の言葉は分からなかった。聞こえなかった。プリントを刷り終えて戻って来た奥村の声にその言葉はかき消されてしまった。


「戻ったぞー。まったく、補習のときくらい静かにしとけっての。たまたまさっきここを通った教頭が怒っていたぞ。今、自分たちがどれだけたいへんな位置にいるのか、彼らは分かっているのか、ってさ」


 白河さんがこちらを少し恨めしそうな視線で見てくる。そりゃあ、最初に話しかけたのは俺の方であるが、今の流れからすると同罪だとも思う。しかし、後が怖いので一応、形だけの謝罪を軽くしておいた。

 奥村は教壇に立つとたった二枚のプリントをこちらに見せて口を開いた。


「さて、補習もいよいよ後半戦に突入したわけだが……ここで一度、小テスト的なものをしておこうと思う。まあ、追試の事前練習だとでも思っておいてくれ」


 彼は問題の書かれたプリントを俺たちに渡すと「じゃあ、各自はじめて」と言った。

 問題自体は思ったよりも簡単――とはいえず、それなりに難易度が高かった。いや、かなり高かった。正直、分からないところも多々あった。これが今まで補習をなめていた罰というやつなのかもしれない


 奥村の「そこまで」という言葉を聞くのに、随分と長い時が流れたような気がした。あまりにも難しすぎて、途中で回答を放棄した箇所が何点かあったからかもしれない。


「じゃあ、回答の紙配るからお互いの採点をしてあげてくれ」


「なぜなんですか?」


 白河さんが問う。不服そうではなく、本当に、なぜそんなことをするのかを聞きたがっている様子だった。


「小学生の時なんかはよくやっただろ? 高校三年にもなって点数をずるして書く奴もいないだろうけど、どちらにせよこちらの方が効率的なんだよ。第三者の視点から人の回答を見るのは少なからず勉強になるし、俺一人で採点するよりも早く終わる」


 なるほどな、と思う。


「現代文のような完璧な正解のない教科ならなおさら、だ。教師だってお互いこれは正解か否かを相談し合いながら採点してんだぜ?」


 そういうものなのか。教師は教師でたいへんらしい。テストの採点など、どんな業務よりも楽なものだと思っていたが。


「何よりも大切なのは相手がなぜ、この問題を間違えたのかを考えることだ。それは自分が何かを考えるときにも役に立つ。相手のことを考えるというのは自分のことを考えているのと違うようで実は同じ、ってことだな」


 珍しく、奥村の舌がさえている――そう言われるとそんな気がしてきた。誰かの受け売りなのかもしれないがその通りだと思った。


「分かりました、ありがとうございます」


 彼女は少しだけ頭を下げると、自身の答案用紙をこちらに渡してきた。俺も便乗して答案用紙を渡す。

 その第一印象はとても字が綺麗ということだった。少し、丸みがきついような気もするがまとまった、流れのいい字だった。俺は逆に、昔からミミズが踊っているような字だと言われ続けられてきたのですごいと思った。これが本来の答案用紙のあるべき姿なのかもしれない。

 字ばかりに気を取られているわけにもいかないので採点を始める。インクがかなり切れた赤のボールペンは少し別の紙に試し書きをすることで正常に稼働した。

 点数を見れば、大体のその人の賢さが分かるのは常識である。結論を述べると、彼女の頭の良さは俺の想像をはるかに超えていた。この問題の難易度で見事、満点をたたき出した――それが補習を受けるレベルじゃないことくらい、理解できる。自分が馬鹿なだけなのか、いや、たとえそうだとしてもここまで顕著にあらわれることはないはずだ。



「で、この結果だったわけだが」


 奥村が二枚の答案用紙を確認して言う。

 結果は白河が先程のとおり百点、俺は六十五点というものだった。たしか追試の突破条件が八割以上の点数だった気がするので惨敗である。

 奥村は俺の点数に触れなかった。見限られたのか、いや、違う。

 それよりも重要なことがあったのだ。


「反省したか――白河」


 奥村は静かに、俺の隣にいる彼女を見て言った。


「なんのことでしょうか、奥村先生」


 彼女もまっすぐ奥村を見て言う。

少しずつ、この教室の雰囲気が悪くなっていっていることを感じるのには十分すぎるほどの問いかけと返答だった。この空間から逃げ出したいと本気で思った。


「とぼけるなよ、一人の教師としてはその冗談はあまり好きじゃない。どうせおまえも本当は分かっているんだろ。中間テストと期末テストの全教科白紙回答のことだよ」


 奥村の言った意味が分からなかった。なぜなら、そんなことは彼女に関してでいえばおよそありえないことだったからである。そうでなくとも、さすがに全教科白紙というのは一度も耳にしたことがなかった。耳にすることもないとすら思っていた。


「全教科白紙⁉」


だから、俺は特に深い意味を認識することもなく、奥村の言葉を復唱してしまった。意味を理解する以上にその言葉に対しての驚きを隠すことができなかった。

彼女がふたたび恨めしそうにこちらを見る。いや、睨んでいる。やってしまった、とつい三秒前の行動を後悔した。


「わるい。でもよ白河さん、さすがに白紙回答はないぜ。そんなこと聞いてしまったら誰だってこんな反応してしまうよ」


「…………っ!」


 白河さんが何か言いたげな様子で唇を噛みしめる。これほどまでに悔しそうな彼女の表情は初めて見た。おもわず目を伏せてしまう。心が痛いというのはこのことをいうのかもしれない。


「二年までずっと学年トップの学力を誇っていた秀才の反抗期――職員会議にまで発展したんだぜ。お前はどうでもいいのかもしれんがな、学校側、何よりも親御さんも悲しんでいたの、おまえが一番よく知っているだろ。おまえ一人の行動がたくさんの人の迷惑になることだってあるんだ」


 奥村の言葉に彼女が目をそらす。そんなこと、本当は分かっているのに言葉が出ない――人はそんな状況に陥るとたまらずそうしてしまう。彼女の悔しそうな態度がそれを一層強くしていた。


 彼女の名前をなんとなく知っていた理由が分かった。

 うちの学校では成績上位者の名簿が張り出される仕組みになっていた。毎回、学年一位の人の名前を知らないわけがない。だから、花山はあの時電話で彼女が補習になっていることを疑問に思っていたのだ。今はそんなこと、関係のないことである。これはただの現実逃避という悪い癖だ。


「おまえも大学にはいって法曹の親御さんのように法学部で勉強するんだろ。進路希望にもそう書いていたじゃないか」


 チッと彼女が大きく舌打ちする。その目に映る影に、俺は言葉もでなかった。

 奥村は白河さんの舌打ちに何も言わなかった。ただ、彼女から目はそらさなかった。少し、息を吸い込んで、


「ちゃんと言いたいことは言わないと……何も伝わらないぜ?」


 と、至極まともな言葉を言うが彼女にはきっと届かない。彼女の闇はそんなことで晴れはしない。


「……さい」


 彼女が立ち上がって呟く。


「うるさい!」


 彼女の言葉は教室中にこだました。その声はまるで彼女の声ではないようだった。そして、何よりも正直だった。まわりくどい言い方やその話と自身の心が一致していないような物言いとは違う――それは言うまでもなく、彼女の心そのものの声だった。

 そこには一人の少女が立っていた。

 それは閉ざしていたはずの心の殻を無理やり剝がされた、弱弱しく絶望した一人の少女だった。


「うるさい……うるさい……!」


 小さく、何度もつぶやく。何にたいしての「うるさい」なのか――もちろん、分からないが一言ひとことが違う言葉のように聞こえた。

 かっこいいと思っていた彼女はそこにはいない。

 彼女のことを何も知らなかった俺は彼女に手を差し伸べることもできない。

 彼女の理解者でいるつもりでいた、理解していると勝手に思っていた。その結果がこれだ。いや、たとえ俺が彼女に干渉しなくとも、事が起こったのは自分と出会う前なので何も変わらなかっただろう。

 しかし、である。

 それならば、今の彼女を見ているとどうしようもなくなるこの気持ちは何なのだろう。

 俺は彼女の心から手を離してしまうのだろうか。


 彼女はカバンを持つこともなく、文字通り逃げるように教室を去ろうとする。

 とっさのことだった。

 気づけば俺の手は俺の意思と関係なく動いて、彼女の右手を掴んでいた。


「……離して」


 彼女は静かに呟き、俺の手を振り払った。その時、何やらおよそ人間の体臭ではない匂いが鼻腔を刺激した。俺はこの匂いを知っていた。しかし、それが何なのかまでは思い出すことができなかった。今は、そんなことはどうでもいいことに気づいた。


「白河さん!」


 そう叫んだ俺をよそに、彼女は去っていった。

 唇をかみしめる。自分がひどく情けなかった。


「どうして、おまえがそんな辛そうな顔をすんだよ。これはあいつの問題だ」


 奥村が呟く。説得力はなかった。その奥村もなんだか苦しそうな顔をしているように見えたからだ。

 今日の補習はこれでお開きとなった。

 次の日、彼女が補習に顔を出すことはなかった。




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