第8話
「ぜひ、ご一緒させてください」
そう答えると、クラウスは強張っていた肩をわずかに下ろし、小さく息を吐いた。
「よかった。声をかける前に、通りの端で三度引き返しかけたんだ」
「そんなに迷っていらしたのですか」
案内されたのは、石造りの静かな喫茶店だった。
木枠の窓際の卓に腰を下ろすと、香ばしい珈琲と焼き菓子の甘い匂いに包まれる。向かい合って座ると、調剤台を挟んでいた頃より距離が近い。二人とも、少しだけ目のやり場に困った。
注文を取りに来た給仕に、私は林檎と蜂蜜を煮詰めた温かい果実茶と、焼きたての胡桃のタルトを頼んだ。
「クラウス様は、何になさいますか?」
「濃い珈琲を。それと、干し葡萄のバター包みを一つ」
品が運ばれてくると、クラウスは陶器の壺から角砂糖をつまみ上げ、迷いなく一つ、二つ、三つと黒い水面へ落とした。
匙でゆっくりかき混ぜるその手元を、私はまじまじと見つめてしまった。
「……何か、気になるか」
「いえ。保養院では、山桃の砂糖漬けを二粒しかくださらなかったのに、ご自分はそんなに甘くなさるのだなと思って」
「あれは口直しだ。足りなかったなら、言えばよかった」
真面目な顔で弁明しているが、耳たぶが赤い。
「今は薬を飲んでいるわけじゃない。単に、甘いものが好きなだけだ」
「あの苦い煎じ薬を作っていた方と、同じ人とは思えませんね」
「苦い苦いと言いながら、全部飲み干したのは君だろう」
むっとしたように言い返す顔がおかしくて、張り詰めていたものがほどけていった。
私はタルトを二つに切り分け、小皿に移して彼のほうへ押し出した。
「半分、いかがですか? 胡桃がとても香ばしいんです」
「いいのか。……ありがとう」
クラウスは行儀よくフォークを使い、タルトを口に運んだ。頬がゆるむのを眺めながら、私はこのひと月のことを少しずつ話した。
トーレ書房の店主が、納めた写しを一文字ずつ確かめてくれたこと。店の飼い猫が、最初は毛を逆立てて唸っていたのに、今では私の膝で眠ってしまうこと。
「猫に好かれるのはいいことだ。警戒心の強い生き物は、無理に間合いを詰めてこない相手を選ぶ」
「そうなのですか? クラウス様も、猫に似ていらっしゃいますね」
「私がか?」
「ええ。最初は眉間に皺を寄せて近寄りがたかったのに、甘いものの前では素直ですから」
クラウスはカップを持ったまま、降参したように苦笑した。
「言い返すのが、ずいぶん上手くなったな」
「鍛えられましたから。保養院の調剤所で」
会話が途切れた。
店の奥で誰かがカップを置く音と、通りを行く荷馬車の車輪の音だけが聞こえる。黙っていても気まずくはなかった。同じ卓で湯気を眺めているだけで、呼吸が深くなる。
クラウスがカップを置いた。カチャリと小さな音が鳴る。
「さっき、思い出して寄ったと言ったが」
「はい」
「あれは、嘘だ」
黒い瞳が、まっすぐに私を捉えた。
「君に会いに来ようと決めたのは、王都へ来る前だ。研修は三日で終わる。買い付けも問屋で済ませれば、四日目の朝の便で帰れた。だが、ヨハンに乾燥室の当番を頼んで、休みを二日足した。今朝着いて、荷を置いてすぐ、この通りを探して歩いた」
「私に、会うために?」
「そうだ。具合を確かめたかったわけじゃない。君が元気なのは、顔を見れば分かる」
クラウスは一度、言葉を探すように卓の上へ目を落とした。
「ただ、君と話したかった。保養院のベンチで話していたような、何でもない話を。それだけのために、ここまで来た」
すぐには、声が出なかった。
手元の果実茶は、とっくに冷めている。ひと口飲んで落ち着くより先に、答えたかった。
「私もです、クラウス様」
膝の上で握りしめていた指をほどいて、卓の上に置く。
「王都へ戻ってから、元気になればなるほど、あなたのことを思い出していました。今日あった可笑しいことや、教わったお茶が美味しかったことを、誰より先にあなたに話したくて。手紙を何度も書きかけては、引き出しにしまっていたんです」
「手紙を?」
「はい。病気の報告でもないのに、お忙しいあなたに送っていいものか、迷ってしまって」
「迷惑なものか」
低いが、強い声だった。
「次からは、一行でもいいから送ってくれ。私も書く。苔の話くらいしか書けないかもしれないが」
「苔のお話、楽しみにしています」
そう答えると、クラウスの口元がほどけた。眉間の皺は、どこにもなかった。
店を出ると、通りはもう夕暮れの色に染まっている。冬の風が石畳を吹き抜けていく。
並んで歩き出したとき、外套のかくしから出たクラウスの手が、私の左手の甲に触れた。
一度、ためらうように止まる。それから、冷えていた私の指先を、大きな手のひらが包んだ。
強く握るのではない。いつでも振りほどけるくらいの力で、指が絡んでくる。
「冷えているな」
「少しだけ。でも、温かいです」
顔を見合わせて、二人同時に目を逸らした。
彼は私の手を包んだまま、歩調を緩める。
「エレオノーラさん」
「はい」
様、が外れていた。
気づいているのかいないのか、クラウスは前を向いたまま続けた。
「来月の半ばに、また王都へ来る。今度は買い付けも研修もない。ヨハンと相談して、休みを取るつもりだ」
「来月の、半ばですね」
「ああ。もしよければ、西の並木通りの冬市へ行かないか。焼き栗の美味い屋台がある」
「行きたいです。楽しみに待っています」
昔の私は、誰かが来てくれるのを、暗い部屋でただ耐えながら待っていた。
今は違う。自分の足で歩いて、自分の暮らしを回しながら、約束の日を指折り数えて待つ。
冷たい風が、頬をかすめていく。
繋いだ手だけは、少しも冷えなかった。




