第7話
退院の朝は、抜けるような秋晴れだった。
玄関前には、父が手配した箱馬車が待っていた。迎えに来てくれたエマが、御者と一緒に荷物を手際よく積み込んでいる。
見送りに出てきたマルタが、私の肩をぽんと叩いて笑った。
「すっかりいい顔になったね。王都へ戻っても、根を詰めすぎちゃだめだよ」
「はい。本当にお世話になりました、マルタさん」
「エレオノーラ様、これ、道中で食べてください!」
ヨハンが、紙に包んだ焼き菓子を差し出してくれた。火の番の合間に、台所の窯を借りて焼いたのだという。誇らしげな笑顔が眩しい。
最後に、少し離れて立っていたクラウスの前へ進み出た。
今日も灰色の作業着で、眉間にはいつもの皺がある。けれど朝の光の中で、その目は静かに澄んでいた。
「クラウス様。本当に、ありがとうございました」
「薬師として、当たり前の仕事をしただけだ。道中、無理はするな。馬車の中でもよく休め」
引き止める言葉も、湿っぽい台詞もなかった。ただ、彼は前掛けのかくしから小さな紙片を取り出して、私の手に載せる。
「これは?」
「王都の中央通りにある茶葉屋の名だ。焙じた麦と薄荷を合わせた茶を置いている。私が好きで、よく飲んでいる。香りがよくて、気持ちが落ち着く」
「クラウス様のお好きなお茶、ですか?」
「ああ。気が向いたら、試すといい」
喉のための指示ではなく、彼自身の好きなものを教えてくれた。そのことが、何より嬉しかった。
私は紙片を両手で包んで、顔を上げる。
「王都に戻ったら、西区のトーレ書房という古書店で、筆耕の仕事を始めます。字を書くのが、昔から好きなので」
「そうか。手を動かすのはいいことだ」
クラウスは短く頷き、それから何か言いかけたように唇を開いた。
けれど言葉にはならないまま、私の右手に触れかけた指を、そっと引っ込める。
そのためらいが、どんな言葉よりも胸に残った。
「では、行ってまいります」
「ああ。……元気で」
走り出した馬車の窓から手を振ると、遠ざかる木立の向こうで、クラウスはいつまでも同じ場所に立って見送っていた。
二日半の旅を経て、私は王都の新しい家に落ち着いた。
父が用意してくれたのは、日当たりのいい小さな庭のついた平屋だ。近所は静かな住宅街で、昼間はエマが週に何日か通ってきて、掃除や買い出しを手伝ってくれる。
誰の顔色も窺わなくていい暮らしが、こうして始まった。
数日後から、トーレ書房に通い始める。
店主のトーレ氏は偏屈で知られる老学者だったが、私が最初に納めた写しを一文字ずつ確かめると、眼鏡の奥で目を細めた。
「字画が乱れておらん。書き直した箇所も、消し跡が目立たない。筋がいい」
「ありがとうございます」
「焦らんでいい。正確に書いてくれれば、それで十分だ」
インクの匂いに包まれて、ペン先を走らせる時間が好きだった。
好きな手仕事で、誰かに喜んでもらえる。病で伏せっていた日々が、ずいぶん遠くに感じられる。
王都へ戻って半月ほど経った頃、家で写本の続きをしていると、買い出しから戻ったエマが、籠を下ろすなり声をひそめた。
「お嬢様、お聞きになりました? ファルク子爵家のアドリアン様、ご嫡男の座を弟君にお譲りになるそうですよ。春には北の山荘へ移られるとか」
「そう」
「それに、先日ひどいお熱で寝込まれたそうで。三日も下がらなかったって、ファルク家の下働きの子が言ってました」
熱、と聞いて、私はペンを止めた。
インクが切れかけていた。
ペン先をインク壺に浸して、次の行に戻る。
「お嬢様、本当に何ともないんですね」
「ええ。もう、知らない方だもの」
エマはしばらく私の顔を眺めていたが、やがて満足そうに頷いて、台所へ消えていった。
ただ、暮らしが落ち着くにつれて、胸の中に一つ、思いがけない変化が起きていた。
療養中に世話になった感謝だけなら、忙しさに紛れて少しずつ薄れていくはずだった。
なのに、元気になればなるほど、クラウスの顔が浮かぶ。
トーレ書房の気難しい店主が、猫を膝に乗せた途端に顔をくしゃくしゃにしたこと。
教わった店で買った麦と薄荷のお茶が、驚くほど香ばしかったこと。
近所のパン屋の黒パンが、保養院の朝のパンより少し硬かったこと。散歩の途中で見かけた紅葉が、あの中庭と同じ色をしていたこと。
(クラウス様に、話したいな)
便箋を机に広げた夜もあった。
けれど、喉の具合を知らせる報告はもう要らない。『今日、こんなことがありました』と書きかけては、忙しい人に迷惑ではないかと、ペンを置いてしまう。
頼りたいわけではない。毎日の小さな嬉しいことを、あの人と分け合いたいだけだ。
そう気づいたとき、頬が熱くなった。
会いたい理由は、もう感謝ではなかった。
王都へ戻って、ちょうどひと月が経った午後。
仕上がったばかりの目録をトーレ書房に納めて、店先へ出た。
初冬の冷たい風が通りを吹き抜けていく。襟巻きを直しながら顔を上げた瞬間、石畳の向こうに見覚えのある長身を見つけて、足が止まった。
飾り気のない濃紺の外套を着たクラウスが、通りの看板を見上げて立っている。手には革の荷袋を提げていた。
「クラウス様?」
声をかけると、彼は弾かれたように振り返る。
眉間にはいつもの皺が寄っていたが、私を見た途端、その目が大きく見開かれた。
「エレオノーラ様」
「どうして、王都に?」
「冬用の生薬の買い付けと、施療院の合同研修だ。今朝、着いた」
クラウスは荷袋を握り直し、居心地悪そうに目を逸らした。
「研修所は北区なんだが……君が、この書店に通うと言っていたのを、思い出して。通り道だったわけじゃない。自分で、ここへ来た」
北区から西区までは、いくつも通りを越えなければならない。この人が看板を一枚ずつ見上げながら歩いてきたのだと思うと、頬が緩むのを止められなかった。
「……もし、時間があるなら」
クラウスは真面目な顔のまま、耳を少し赤くして言った。
「その角に、静かな喫茶店があった。少し、座って話さないか」




