閑話「丈夫な若様の夜」
王都へ戻る乗合馬車は、ひどく揺れた。
ファルク家の紋の入った馬車は、父が使わせなかった。行きも帰りも、見知らぬ商人や農夫と膝を突き合わせて座るしかない。
アドリアンは外套の前を掻き合わせた。
ボタンが一つ足りないせいで、隙間から冷たい風が入り込んでくる。保養院の床に転がったあのボタンを、拾いに戻る気にはなれなかった。
『お帰りはあちらです。すぐそこですから、お一人で行けますね』
エレオノーラの声が、車輪の音に混じって何度も耳に戻ってくる。
怒鳴られたのなら、まだよかった。泣いて責められたのなら、宥める言葉はいくらでもあった。
あの目には、怒りも涙もなかった。道ですれ違う他人を見る目。
胸のかくしから、折り目の擦り切れた手紙を取り出す。
もう何度読み返したか分からない。リーゼからの手紙だった。
『アドリアン様
あの夜、駆けつけてくださったことには感謝しております。
けれど、あなたがいらしたとき、私の枕元にはもう主治医の先生と母がおりました。発作は、先生のお薬で落ち着きかけていたのです。
エレオノーラ様があの晩、高いお熱で伏せっていらしたことは、後になって知りました。存じておりましたら、すぐにお帰りいただきましたのに。
父が申しますには、私の縁談のためにも、今後のご訪問はご遠慮いただきたいとのことです。
どうぞ、お健やかに』
医者は、もう来ていた。
自分が行かなくても、あの夜のリーゼは何ひとつ困らなかったのだ。
では自分は、何のために、熱で起き上がれない婚約者を置いて屋敷を出たのか。
答えを探しかけて、アドリアンは手紙を握り潰した。
背筋を、ぞくりと寒気が這い上がる。
風邪の引き始めだろう。だが構うことはない。昔から丈夫なのが取り柄だ。一晩寝れば治る。
二日半の道のりのあいだ、その寒気は一度も抜けなかった。
ファルク家の王都邸に着いたのは、夜も更けた頃だった。
出迎えた侍従は、彼の後ろに誰もいないのを見て、何も言わずに目を伏せる。
書斎では、父が待っていた。
机の上には、ハイツ家から届いた証文の写しと、あの合意書が並んでいる。三枚目が、いちばん上になっていた。
「連れて帰れなかったのだな」
父は顔も上げずに言った。
「父上、エレオノーラは今、少し意地になっているだけです。時間をかければ必ず」
「三枚目を読まずに署名した男が、時間の話をするのか」
低い声だった。アドリアンは口をつぐんだ。
「お前に王都の家を任せたのは、頭を下げて丸く収めてこいという意味だった。ハイツ男爵は、あの夜のことを世間には一言も漏らしておらん。私にだけ、書状で知らせてきた。噂を撒いたのは、お前一人だ」
「僕はただ、リーゼを看病していたと」
「熱を出した婚約者の部屋に、朝まで誰も入れるなと言い置いてな」
父は、ようやく顔を上げた。
その目に、息子を見る温かさは残っていない。
「家督はルーカスに継がせる。春になったら、お前は北の山荘へ行け。管理人の手が足りていない」
「父上!」
「今夜は部屋から出るな。頭を冷やせ」
父は侍従を呼び、短く命じた。
「アドリアンの部屋に鍵を。朝まで、誰も近づけるな」
その夜、熱が上がった。
暖炉の火は、とうに細くなっていた。借財の返済に備えて使用人を減らしたせいで、夜に火を見て回る者がいないのだと、アドリアンはぼんやり思い出す。
寝返りを打つたびに、関節が軋んだ。喉が焼けるように痛い。唾を飲み込むと、針を飲んだような痛みが走る。
水が欲しかった。
寝台脇の水差しに手を伸ばし、どうにか傾ける。空だった。
起き上がろうとして、肘に力が入らないことに気づいた。
同じ小卓に、呼び鈴がある。
手を伸ばした。指先が縁に触れ、そのまま押しやってしまう。鈴は床に落ちて、カラン、と一度だけ鳴った。
アドリアンは寝台から床へ転がり落ちた。
肩を打ち、息が詰まる。冷えた床を這って、鈴を探した。視界がぐらぐらと揺れ、胃の底から吐き気がこみ上げてくる。
指先が、冷たい金属に触れた。
掴んで、振った。
チリン、チリン、チリン。
何度も、何度も振った。
やがて、廊下に足音が近づいてきた。
扉の前で止まる。鍵は開かなかった。
「若様、お呼びでございますか」
年老いた侍従の声だった。
「熱が、ひどい。水を、頼む。医者を」
自分の声がひどく掠れていることに、アドリアンは驚いた。
扉の向こうで、侍従が少し黙る。
「旦那様から、今夜は朝まで誰もお部屋に入れぬよう言いつかっております。お熱でございますか。若様は昔からお丈夫でいらっしゃいますから、一晩お休みになれば、きっと引きましょう」
「待て、違う、本当に」
「お水は、扉の外に置いておきます。すぐそこでございますから」
盆を床に置く、小さな音がした。
足音が遠ざかっていく。
アドリアンは床を這って、扉の前までたどり着いた。取っ手に縋っても、扉は動かない。
すぐそこにある水に、手は届かなかった。
アドリアンは扉に額をつけたまま、動けなくなった。
熱で霞む頭の中に、同じ言葉が浮かんでは消える。
すぐそこに水差しがあるだろう。
君は丈夫だから。一晩寝れば治る。
自分が言ったのだ。熱で起き上がれない人に向かって、笑いながら。
去年の冬、自分が風邪で三日寝込んだとき、毎日見舞いに来たのは誰だったか。熱い薬湯を、匙で冷ましてから口へ運んでくれたのは。
母の命日を、自分より先に覚えていたのは。夜会で、自分の苦手な老伯爵の相手を黙って引き受けていたのは。誕生日のたびに、頭文字を刺繍した手巾を贈ってくれたのは。
数えれば、きりがなかった。
そのどれもが、もう二度と届かない。
扉を閉めたのは、自分だ。
「エレオノーラ」
掠れた声で呼んでも、返事はなかった。
握りしめた呼び鈴を、もう一度振る力も残っていない。
朝まで、誰も来なかった。




