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【SS追加!】私が倒れても、幼馴染が大事ですか  作者: 九葉(くずは)


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第6話

 退院を明日に控えた午後、部屋で荷物をまとめていると、マルタがノックをして入ってきた。


「お嬢さん。下に、ファルク子爵令息様がお見えだよ」


 マルタは扉に手をかけたまま、声を落とした。


「お父上からの手紙のことは聞いてるけどね。会いたくなけりゃ、体の具合を理由に追い返してあげる。どうする?」


 断ることもできる。


 それでも、これきりにするための言葉は、自分の口で伝えたかった。


「会います。一階の小さな面会室で、少しだけ」


「そうかい。なら、あたしは扉の外にいるからね。何かあったら、すぐ呼ぶんだよ」


 マルタが出ていってから、机の上に出しておいた呼び鈴を手に取り、上着のかくしに滑り込ませた。


 身なりを整えて、階下へ降りる。


 面会室の扉を開けると、窓辺に立っていたアドリアンが勢いよく振り返った。


 仕立てのいい外套は相変わらずだ。けれど頬はこけ、目の下には青黒い隈が浮いている。外套の金ボタンが一つ、糸一本でぶら下がっていた。


 それでも彼の顔には、安堵と、どこか確信めいた笑みが浮かんでいた。


「エレオノーラ! よかった、すっかり顔色が戻っているね」


「ごきげんよう、アドリアン様。何のご用でしょうか」


 長椅子には座らず、扉の近くに立ったまま尋ねる。彼は少し拍子抜けしたように瞬きをしてから、歩み寄ってきた。


「何の用だなんて、水臭いじゃないか。病気がすっかり治ったと聞いて、迎えに来たんだよ。リーゼの発作も、季節の変わり目を越えてようやく落ち着いた。あの夜は、僕も焦っていて言葉が足りなかったと反省している。君ももう、十分に頭を冷やしただろう?」


「頭を冷やす、ですか」


「ああ。君ほど家柄も教養も整った婚約者は、他にいない。僕たちはお互いをよく知っているし、つまらない意地の張り合いで婚約を解消したままにしておくのは、両家にとって損だ。病気が治ったなら、もう一度やり直そう」


 私が頷くことを、少しも疑っていない声だった。


 私は息を吸い、彼の目を見る。


「アドリアン様は、私が治れば元に戻ると思っていらしたのですね」


「え?」


「私が婚約を解消したのは、病気で弱っていたからではありません。あなたが、苦しんでいる私を置いていける方だと分かったからです。私がどれほど元気になっても、そのことは変わりません」


「エレオノーラ、だからそれは、リーゼの容態が……」


「ええ。あなたはこれからも、リーゼ様が苦しいとおっしゃるたびに駆けつけるのでしょう。それはあなたの自由です。私はもう、そこに関わりません」


 アドリアンの笑みが、ゆっくりと剥がれ落ちた。


「待ってくれ」


 さっきまでの余裕が、声から消えていた。


「正直に言う。今、僕は困っているんだ。領地から戻った父上が、あの合意書を読んだ。三枚目に、堤の借財のことが書いてあった。来年の春から、毎年あれだけの額を返さなければならない」


「父は署名の前に、必ずお目通しをと申し上げたはずです」


「それだけじゃない。社交界でも、みんなが僕を……熱を出した婚約者を放り出して、未婚の令嬢の寝室で朝まで過ごした男だと」


「あの夜のことを社交の場でお話しになったのは、私ではありません」


 父の手紙には、そのことも短く書き添えてあった。


 ブラント伯爵夫人のサロンで、アドリアンが自分から語ったのだという。婚約者は熱くらいで大げさに騒いだが、自分は本当に苦しんでいるリーゼのそばに、朝までついていたのだ、と。


「僕は、リーゼを看病したと話しただけだ! それが、どうしてあんなふうに」


 アドリアンは片手で顔を覆った。


「ベルガー家からも、もう来るなと言われた。リーゼは、ヴァイス伯爵家の次男と婚約するそうだ。僕のせいで縁談が流れかけたと、手紙で。父上には、君を連れて帰れなければ、家督は弟のルーカスに継がせると言われている」


 そこまで言って、彼は顔を上げた。


「もう、僕には君しかいないんだ」


 その一言で、すべてが分かった。


 この人は今日もまた、私を二番目に選びに来たのだ。リーゼに断られた、その次に。


「お断りいたします」


「エレオノーラ!」


「謝っていただいても、あの夜の私が水を飲めるようにはなりません。苦かった分は、後から何を足しても消えないのです」


「謝る、謝るから! あの夜のことは全部僕が悪かった! だから一緒に父上のところへ来てくれ。君は丈夫なんだから、きっと僕を支えて」


 そこまで言って、彼自身が口をつぐんだ。


 遅かった。その言葉は、もう部屋の床に落ちていた。


 アドリアンが距離を詰め、私の手首を掴んだ。


「頼む、エレオノーラ。君が戻ると言ってくれさえすれば」


「放してください」


 指は、離れなかった。


 私は空いているほうの手で、かくしから真鍮の呼び鈴を取り出した。


 アドリアンの目が、それに吸い寄せられる。


 一度だけ、手首を振った。


 チリン。


 澄んだ音が鳴り終わるより早く、扉が開いた。


「お嬢さん!」


 マルタが飛び込んでくる。その後ろから、廊下を駆けてきたらしいクラウスが、肩で息をしながら入ってきた。


 クラウスは私の手首に食い込んだ指を見て、それからアドリアンを見る。


「手を、放してください」


 低い声だった。アドリアンは弾かれたように私から手を離し、クラウスを睨みつけた。


「誰だ、君は。これは僕と婚約者の話だ」


「婚約者ではありません」


 私が言うのと同時に、クラウスが口を開いた。


「ここの薬師です」


 彼はアドリアンから目を逸らさない。


「ここに着いた日、彼女は喉が腫れて、まともに声も出せなかった。放っておいて治るような状態ではありませんでした。丈夫な人間など、どこにもいません。我慢の上手な人間がいるだけです」


 アドリアンの顔から、色が抜けていった。


 何か言い返そうとして言葉が見つからず、彼は縋るような目で私を見た。


 その目を向けられても、もう何も揺れない。


「あの夜、私は水を一杯くださいとお願いしました。あなたは、すぐそこにあるだろうとおっしゃいました」


 私は、扉のほうへ手を向けた。


「お帰りはあちらです。すぐそこですから、お一人で行けますね」


 マルタが黙って、扉を大きく開け放った。


 アドリアンの唇が震えた。


 しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて、よろめくように扉へ向かう。


 敷居を越えるとき、ぶら下がっていた金ボタンが糸ごとちぎれて、床に転がった。


 彼は、それを拾わなかった。


 玄関の扉が閉まる音がして、それきり、何も聞こえなくなった。


 私は大きく息を吸う。


 喉は、どこも痛まなかった。


 部屋に戻って残りの荷物を詰めていると、マルタが淹れたての麦茶を持ってきてくれた。


「すっきりした顔をしてるじゃないの」


「はい。ちゃんと、お別れが言えました」


「それでいいんだよ。誰かに都合よく使われるために、あんたの体があるわけじゃないんだからね。王都へ帰っても、美味しいものをしっかり食べるんだよ」


「はい。ありがとうございます、マルタさん」


 夕暮れ時、荷造りを終えた私は、風に当たりたくなって中庭の渡り廊下へ出た。


 冷えてきた夕風が、赤く色づいた木々を揺らしている。


 廊下の向こうから、記録帳を抱えたクラウスが歩いてきた。


「クラウス様」


「エレオノーラ様。……手首は、痛まないか」


「少し赤くなっただけです。もう何ともありません」


 袖をめくって見せると、彼はしばらく黙ってそこを見ていた。それから、廊下の木のベンチに目をやる。


「座るか」


「はい」


 クラウスは記録帳を脇に置き、私の隣に腰を下ろした。冷たい夕風が、二人の間を通り抜けていく。


「静かに風に当たっていたいか。それとも、何か話すか」


「少し、お話ししたいです。明日の旅の心配より、クラウス様のお話を伺いたくて」


「私の話?」


「はい。クラウス様は、どうしてこの丘陵で薬師をなさっているのですか? 前は王都の大きな施療院にいらしたと、マルタさんに伺いました」


 クラウスは虚を突かれたように目を丸くし、それから視線を中庭の木立へ逃がした。


「王都の施療院は、人が多すぎた。次から次へと運ばれてくる患者を処置するだけで手一杯で、誰がどんな顔で治って、どんな暮らしに戻っていったのか、何も見届けられなかった」


 少し間を置いて、彼は続けた。


「ここは静かすぎるくらいだが、一人の人間が良くなって帰っていくのを、最初から最後まで見ていられる。私には、こっちが合っている」


 淡々とした、嘘のない言葉だった。


 患者を症例として片付けず、その人が暮らしへ戻るところまで見届けたい。この人のぶっきらぼうな優しさは、そこから来ているのだと思った。


「ゼルナーさん!」


 中庭の向こうから、ヨハンが手を振りながら走ってくる。


「今夜の乾燥室の湿度と火の番、僕がやりますから! 記録の付け方も、もう覚えました!」


「そうか。頼んだぞ、ヨハン」


「はいっ!」


 駆けていく背中を見送りながら、クラウスが照れくさそうに咳払いをした。


 前のように一人で抱え込まず、人に任せることを覚えた彼の姿が、なんだかとても嬉しい。


「明日、発つんだな」


「はい。午前の馬車で、王都へ戻ります」


「馬車の手配と荷の積み込みは、私が見ておく」


「ありがとうございます」


 少しのあいだ、沈黙が落ちる。


 それから、クラウスは中庭の木立を見たまま言った。


「王都へ戻っても、痛いときは痛いと言え。……私に、でなくていい。誰かに」


「はい」


 誰か、と言いながら、彼は一度もこちらを見なかった。


 その首筋が、夕焼けよりも赤かった。


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― 新着の感想 ―
男爵家とはいえ、貴族令嬢が使用人抜きの一人で入院して、元婚約者とはいえ部屋で二人きりになるんだろうか? 健康体で婚約継続中でも完全に二人きりにはならない気がする。
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