第5話
保養院に来てひと月が経とうという頃、私はとうとう、敷地の外へ出る許可を先生からもらった。
午後のお茶のあと、日が傾く前に戻るという約束の外出だ。付き添いのマルタが、買い物籠を腕に提げて隣を歩いてくれた。
「ほら、足元に気をつけなさいよ。石橋のあたりは苔で滑るからね」
「はい。川の音が、こんなに近くで聞こえるなんて」
自分の足で渡る石橋は、王都で馬車に揺られていた頃とはまるで違った。
足の裏で地面の硬さを確かめる。川風を胸いっぱいに吸い込んでも、喉は痛まない。橋を渡りきった先に、色とりどりの天幕が並ぶ青空市が広がっていた。
近くの農家が持ち寄った野菜に、木工の器、色鮮やかな羊毛の束。目移りしながら、私はクラウスに教わった東の端の果物屋を目指した。
「いらっしゃい、お嬢さん! 何にする?」
「あの、こちらに甘いプラムがあると聞いてきたのですが」
「あちゃあ、プラムかい! 悪いねえ、一昨日の冷え込みで今年の分はおしまいだよ。昨日なら少し残ってたんだけどねえ」
「終わってしまったのですね」
目当てのものがないのは残念だったが、不思議と気落ちはしなかった。
「代わりに、今朝もいだばかりの蜜林檎はどうだい? 小粒だけど皮が薄くて、丸かじりできる甘さだよ」
「まあ、美味しそう。二つ、いただけますか?」
小銭入れから自分で硬貨を出して、手渡す。受け取った紙包みはずっしりと重く、林檎の爽やかな香りがした。
誰かにあてがわれたのではない。自分の足で来て、自分の目で選んで買った。その小さな手応えが、胸を満たしていく。
「買い物が上手じゃないの。さ、冷えないうちに戻ろうかね」
「ええ、マルタさん」
帰りの坂道で、私は紙包みを抱え直した。
プラムが売り切れていたこと。店主が威勢よく林檎を勧めてくれたこと。そんな小さな出来事を、早くあの無愛想な薬師に話したくてたまらない。そういう自分に、私はもう気づいていた。
保養院に戻ると、クラウスが調剤所の前で、薬草を干す木枠を片付けていた。
夕方の冷気が降りてきている。私とマルタに気づくと、彼は手を止めてこちらを見た。
「ただいま戻りました、クラウス様」
「無事に戻ったな。息切れは」
「坂道で少し速くなりましたが、もう落ち着いています。見てください、果物を買ってきました」
紙包みを広げて見せると、クラウスは眉を寄せて中を覗き込んだ。
「林檎か。東の店のプラムを勧めたはずだが」
「今年の分は、もう終わってしまったそうです。一日遅かったと笑われました」
「……そうか」
クラウスは真面目な顔のまま、少しだけ目を伏せた。
「すまない。旬の終わりまで考えに入れていなかった」
「謝らないでください。お店の方が、代わりにこの蜜林檎を勧めてくださったんです」
私は包みから一つ取り出して、彼に差し出す。
「これは、クラウス様の分です」
「私に?」
「プラムのお店を教えていただいたお礼です。売り切れでしたけれど」
クラウスは林檎と私の顔を、何度か見比べている。
それから前掛けで手を拭い、両手で林檎を受け取った。薬瓶を扱うときと同じ、丁寧な手つきだった。
「……ありがとう。あとで、いただく」
彼の口元が、ほっとしたように緩む。
クラウスは私の話を遮らない。けれど、仕事の手を止めたまま長話に引き込むこともしない。話せるときにはきちんと耳を傾け、区切りが来れば礼儀正しく身を引く人だった。
もっと話していたかった。けれど彼の足元には、まだ片付けていない木枠が残っている。私はもう一つの林檎を抱え直し、また後で、と告げた。
夕食のあと、自室の机で父からの手紙を開いた。
父は私の回復を喜び、王都での暮らしについて書いてきていた。王都邸は社交の客の出入りが多く、ファルク家の屋敷とも同じ区画にある。静かに暮らしたいなら、西区に日当たりのいい小さな家を用意しよう、と。働くのは気が向く範囲でいい、暮らしの心配は要らない、とも添えてあった。
一緒に、もう一通届いていた。父の知人で、王都で古書店を営むトーレ氏からだ。
私は昔から、文字を整えて書くのが得意だった。令嬢のたしなみとして身につけた程度のものだが、希少本の写しや目録の清書を手伝わせてもらえないかと、こちらへ来てから手紙で頼んでいたのだ。
便箋には、角張った字でこう書かれていた。
『あなたの筆跡なら申し分ない。古い本の整理と写しを、ぜひ手伝ってもらいたい』
その晩のうちに、引き受ける旨の返事を書いた。
父の庇護に寄りかかるだけでなく、自分の手で誰かの役に立ちながら暮らしてみたい。
それに、確かめたいこともあった。
クラウス様と離れるのが寂しいのは、親切にしてくれた人と別れる心細さなのか。それとも、あの人だから会いたいのか。
病人でなくなった私が、自分の暮らしを立ててからもう一度会ったとき、同じ気持ちでいられるのか。
翌朝、診療室で、老医師の最後の診察を受けた。
「喉はすっかり落ち着いている。呼吸の音もきれいだ。足腰も戻ったようですな。エレオノーラ様、明後日をもって退院といたしましょう」
「ありがとうございます、先生」
告げられた言葉に、胸が大きく波打った。
退院は、明後日。ここで過ごせるのは、明日一日きりだ。
診察のあと、調剤所でクラウスから小さな布袋を手渡された。中には、薄茶色の丸薬が数粒入っている。
「残りの二日分と、王都へ戻る道中の整腸の薬だ。これで、ここから出す処方は全部終わる」
「はい」
「王都は埃が多い。帰ってから三日ほどは人混みを避けて、喉を乾かさないようにしろ」
「言われたとおりにします」
クラウスはいつもの淡々とした口調で言い、私を見た。
患者を送り出す薬師の顔だった。けれどその奥で、何かを押しとどめているようにも見えた。
「もう、私の薬はいらない。君は治った」
「……はい。クラウス様のおかげです」
受け取った布袋には、まだ彼の手の温かさが残っている。
その日の夕方、父からもう一通、手紙が届いた。
急ぎの便で出したらしく、封蝋が少し歪んでいる。短い文面の最後に、父の字でこうあった。
『アドリアン殿が、どうしてもお前に会いたいと言ってきた。明日、そちらに着くはずだ。止めることもできたが、終わりはお前自身の口から告げたいのではないかと思った。会うかどうかは、お前が決めなさい』
私は手紙を畳むと、鞄の底から、布にくるんだ真鍮の呼び鈴を取り出した。




