第4話
風渡り保養院に来て二週目に入る頃には、足取りもずいぶん確かになっていた。
喉の熱っぽさはすっかり消え、深く息を吸っても咳き込まない。中庭を囲む敷石の小道を歩けば、澄んだ秋の空気が胸の隅々まで入ってくる。
目標は、川向こうの石橋だ。
退院の許可が出るまで、敷地の外には出られない。それでも、あの橋を渡って青空市へ行き、教わった甘いプラムを自分で選ぶ日を思えば、歩く練習にも自然と力が入った。
「少し、欲張りすぎたかしら」
中庭を二周したところで、ふくらはぎが重く張り、膝の裏が小さく震え始めた。
以前の私なら、まだ大丈夫、あと一周は歩けると、背筋を伸ばして無理をしていただろう。今は息が上がりきる前に足を緩めて、木陰のベンチへ目を向ける。
「エレオノーラ様」
乾燥棚を見回っていたクラウスが、剪定鋏を革袋に収めながら小道を渡ってきた。眉間には今日も皺が寄っているが、足取りは穏やかだ。
「二周でやめておけ。昨日の倍だ」
「ちょうど、やめようと思っていたところです。少し座ってもいいですか?」
先に言うと、彼は咎めかけた口を閉じ、短く「ああ」と頷いた。
ベンチに腰を下ろすと、ひんやりした板が疲れた脚に心地いい。クラウスは私の隣に、肩が触れない程度の間を空けて座った。
「息は上がっていないな」
「はい。疲れきる前に止められました」
「ならいい。……今日は、冷えるな」
「ええ。でも日差しが柔らかくて、気持ちのいい午後です」
そう返すと、クラウスは手帳に目を落としたまま黙り込んだ。世間話の続きを探しているのが、固まった横顔から丸分かりだった。
「この気温と湿り気なら、東の石垣の苔がよく乾く」
「え?」
「冬を越す前に水を溜め込む時期なんだが、日が半刻も当たれば、煎じて湿布に使う繊維がいちばんしなやかに仕上がる。ここ数日の雨で気を揉んでいたが、これなら明日の仕込みに間に合う」
「……」
「……すまない。天気の話をしようとしたんだ」
クラウスは首筋を赤くして、口を引き結んだ。
あまりに生真面目な脱線に、私はこらえきれずに笑ってしまった。
「苔のお話、面白かったです。プラムのお話よりは、ずいぶん難しかったですけれど」
「忘れてくれ。人と雑談をするのが、昔から苦手なんだ」
困ったように目を泳がせる彼を見ていたら、少しだけ意地悪を言いたくなった。
「私は楽しかったですよ。でもクラウス様、休むのが下手なのは、私だけではないみたいですね」
彼の膝の上の手帳を、目で示す。
開かれた頁には、今週の当番表が几帳面な字で書き込まれていた。夜の調剤と釜の火の番の欄に、彼の名前ばかりが続いている。
「夜の火の番、今夜もクラウス様ですね。昨夜も遅くまで明かりがついていたと、マルタさんがぼやいていました」
「交代を頼むのが、その、面倒なだけだ」
「見習いの方が、すぐそこにいらっしゃるのに?」
中庭の向こうの渡り廊下を、箒を持った若い見習いの青年が通りかかるところだった。
クラウスは手帳をぱたんと閉じ、居心地悪そうに肩をすくめた。
「人に頭を下げて用事を頼むのが、どうにも性に合わない。断られたらどうするか、あれこれ考えるくらいなら、最初から自分で片付けたほうが早い」
その不器用な理屈に、親しみが湧いた。
頼るのが苦手なところは、我慢が癖になっていた私と少し似ている。
「頼まれたら、案外嬉しいものだと思いますよ」
「なぜだ。余分な仕事を押しつけられて喜ぶ人間がいるか」
「押しつけるのではなくて、任せるのです。私は、誰かに頼りにされたら嬉しいです。一人で抱え込まれるより、ずっと」
クラウスは手帳の表紙を指先でとんとんと叩きながら、しばらく考え込んでいた。
それから深く息を吐いて立ち上がり、小道の端まで行って、見習いの青年に声をかけた。
「ヨハン」
「はい、ゼルナーさん。何でしょう?」
「今夜の蒸留釜の火の番だが。……代わりに、頼めるか。明日の朝、記録の確認は私がする」
青年は目を丸くし、すぐにぱっと顔を輝かせる。
「えっ、いいんですか? 釜の温度管理、一度任せてもらいたかったんです! 任せてください、しっかりやります!」
「……そうか。頼む」
足取りも軽く去っていく青年を見送ってから、クラウスは狐につままれたような顔で戻ってきた。
「断られなかったな」
「でしょう?」
拍子抜けした顔がおかしくて、私は声を立てて笑った。眉間の皺が消えた彼は、いつもよりずっと若く見える。
「そろそろ戻るか。立てるか」
「はい」
ベンチから立ち上がろうとした瞬間、長く座っていたせいで足に力が入らず、体がぐらりと傾いた。
あ、と思ったときには、クラウスの手が私の右肘をしっかりと支えていた。
「危ない」
袖越しにも、乾いた手のひらの温かさが伝わってくる。
顔を上げると、すぐ近くにクラウスの黒い瞳があった。案じるように、まっすぐこちらを見ている。侮りも、苛立ちもない目だった。
「もう、大丈夫です」
そう言うと、クラウスは「そうか」と返して、すぐに手を離した。
名残を惜しむそぶりもなく、自然に半歩下がる。その引き際のきれいさに、かえって胸が跳ねた。
「部屋まで歩けるか」
「ええ。ゆっくり戻ります」
並んで歩く小道の上で、彼はいつもよりずっとゆっくり足を運んだ。私の遅い歩幅に合わせてくれているのだと、少し歩いてから気がついた。
秋風が木々を揺らし、傾いた日が中庭を橙色に染めていく。
もうじき足は元どおりになり、喉の薬もいらなくなる。
ずっと望んでいた回復だ。退院の日が近いのは、喜ぶべきことのはずだった。
なのに、部屋へ戻る階段を上りながら、名残惜しさに似た寂しさが、胸の底に小さく沈んでいった。
ここを出たら、この不器用な薬師と他愛のない話をして笑う午後は、もう来ない。
その寂しさを何と呼べばいいのか、私にはまだ分からなかった。




