第3話
湯気を吸い終えると、クラウスは碗を下げ、代わりに黒っぽく濁った湯薬の湯呑みを差し出してきた。
ほのかに湯気が立っている。燻した木の皮と乾いた土を混ぜたような、何とも言えない渋い匂いがした。
「飲めるか」
「はい」
息を止めて、一気に呷る。
舌に触れた瞬間、猛烈な苦味が口の中いっぱいに広がった。奥歯の根元まで痺れるような渋さに、顔じゅうの筋が勝手に引きつる。
「どうだ」
「苦いです」
涙目のまま正直に答えると、クラウスは真面目な顔で首を傾げた。
「味ではなく、喉の通りを聞いたつもりだったんだが」
「喉の熱は、引いていく気がします。でも、それを差し引いても苦いです」
「薬だからな」
彼は作業台の引き出しから油紙の小さな包みを取り出し、私の手元にコトリと置いた。
開くと、飴色に干された山桃の砂糖漬けが二粒、行儀よく並んでいる。
「口直しだ。これで苦いのも消える」
「ありがとうございます。でも、後から甘いものを食べても、さっきの薬が苦かったことは変わりませんよね」
口に出してから、自分で少し驚いた。
以前の私なら、「もう平気です」と微笑んで、それで終わらせていたはずだ。
「……その通りだ。苦かった分は、取り消せないな」
クラウスは低く言った。不快そうな色はない。礼を言って引き下がると思っていた相手に言い返されて、少し調子が狂ったという顔だった。
「クラウス、お前さんまた初対面のお嬢さんに、そんな毒草みたいな色の煎じ薬を飲ませたのかい?」
扉が開き、白い前掛けを腰に巻いた恰幅のいい女性が、大きな籠を抱えて入ってきた。保養院の管理人のマルタだ。
「毒ではない。消炎の処方だ」
「効き目は確かでもね、言い方ってもんがあるだろうに。お嬢さん、お部屋の支度はすっかり整ってますよ。お荷物も運び込んでおきましたからね」
マルタはクラウスの肩を小突き、私に向かってからりと笑った。
「この子は腕はいいんだけど、愛想の調合をすっかり忘れちまった質でね。さっきもお嬢さんが着く前に薬棚を片付けようとして、瓶をひっくり返して、薬油をそこらじゅうにぶちまけたばかりなんだよ」
「マルタ、余計なことを言うな。片付けは終わった」
「はいはい。さ、お嬢さん、今日は湯浴みもそこそこに横になりなさい。夕餉は消化のいいものを部屋へ運びますからね」
クラウスは居心地悪そうに背を向けて、すり鉢を布で磨き始める。その背中がほんの少し硬くなっているのが分かって、私は山桃の包みを握ったまま、小さく頭を下げて調剤所を出た。
案内された二階の角部屋は、白木で揃えられた清潔な部屋だった。
窓を開けると、夕暮れに染まる丘陵の連なりが一望できる。廊下の足音に耳を澄ませて、アドリアンが来るかもしれないと身構える必要は、もうない。
運ばれてきた蕪の澄まし汁を飲み干すと、薬が効いてきたのか急に瞼が重くなり、私は泥のように眠った。
翌朝、窓から差し込む秋晴れの光で目が覚めた。
付き添ってくれたエマは、夜明けとともに同じ馬車で王都へ戻っていった。何度も振り返って手を振る姿が、やがて坂の下に消える。
喉にはまだざらつきが残っている。けれど息を吸っても、昨日のような鋭い痛みはない。深く眠れたおかげか、足腰のだるさもずいぶん抜けていた。
身支度をして一階へ降りると、中庭に面した日当たりのいい食堂で、マルタがパンの籠を抱えて待っている。
「あら、ずいぶん顔色が良くなったじゃないの。朝餉にするかい? 今朝はね、鶏の出汁で炊いた塩粥と、すりおろした林檎を煮詰めた甘い麦粥があるよ。どっちがいい?」
私は足を止めて、瞬きをした。
「選んでも、よろしいのですか?」
「当たり前じゃないの。病人だからって、舌まで他人に預けるこたぁないよ。どっちが食べたい気分だい?」
「林檎の麦粥を、いただきたいです」
「はいよ、すぐよそうね」
木の器を受け取ると、手のひらに温かさが広がった。
療養中の食事は決められたものを食べるのだと思っていた。何が食べたいかを誰かに聞かれるのは、ずいぶん久しぶりな気がする。
林檎の甘酸っぱさと麦の香ばしさが、ひと匙ごとに体の隅へ染みていった。
食後、日差しに誘われて中庭の渡り廊下へ出た。
木の欄干に手をついて外を眺めると、敷地の向こう、色づいた木立の合間を小川が流れている。川に架かる石橋の先には、開けた広場のような平地が見えた。
「あまり風に当たるな。治りかけの喉には、まだ冷たい」
渡り廊下の向こうから、薬草を干すための平籠を抱えたクラウスが歩いてきた。今日も眉間に皺が寄っている。
「おはようございます、クラウス様。日差しが暖かかったので、少しだけ」
「なら、そっちの日向にしろ。風が弱い」
ぶっきらぼうに言って、彼は平籠を欄干の脇の台に下ろした。乾きかけの葉から、すっとする香りが立つ。
「喉の渇きは」
「朝起きたとき、昨日よりずっと楽でした。山桃も、美味しかったです」
「そうか」
短く返して、彼は薬草を手際よく裏返し始めた。無駄のない指の動きをしばらく眺めてから、私は川向こうの石橋へ目を戻した。
「あの橋の向こうに、週に一度、青空市が立つとマルタさんに伺いました」
「ああ。近くの農家や商人が集まる。だが、今は渡るなよ。坂道で息が切れて、また寝込むことになる」
「分かっています。今はまだ無理です」
欄干を握り直す。
「でも、喉が治って、ちゃんと自分の足で歩けるようになったら、行ってみたいのです。果物や、木工の匙や、刺繍糸がたくさん並ぶと聞きました。誰かに買ってきてもらうのではなくて、自分で歩いて、好きなものを選びたくて」
婚約のしがらみを離れて、初めて胸に浮かんだ、小さくて具体的な願いだった。
クラウスは薬草を裏返す手を止め、横目で私を見る。
まだ早いと言われるかと思った。けれど彼の口の端が、ほんの少し緩んだように見えた。
「……川向こうの市なら、東の端の果物屋のプラムが一番甘い」
「え?」
「日持ちはしないが、身が柔らかくて喉に障らない。歩けるようになったら、買いに行けばいい」
「教えてくださるのですか?」
「聞かれたから答えただけだ」
クラウスは素っ気なく言って立ち上がると、早足で調剤所へ引っ込んでしまった。
平籠は、日当たりのいい台の上に置かれたままだ。
聞いてもいない果物屋の場所まで、わざわざ言い残していく。その背中が可笑しくて、私は一人で小さく吹き出した。
薬湯は、きっと今日も苦いのだろう。
それでも、次に調剤所の扉を叩く時間が、少しだけ待ち遠しかった。




