第2話
手紙を出したその日の午後、アドリアンは約束どおり屋敷を訪ねてきた。
面会は、トマスを通してはっきりと断った。
『父が領地より戻るまで、お目にかかることはできません』
そう伝えると、彼はひどく不審そうな顔をしたものの、それ以上は何も聞かずに帰っていったという。
私が一日休めば元どおりになって、いつものように笑顔で出迎える。そう疑いもしていなかったのだろう。
翌日の夕方、父が王都邸へ戻った。
婚約解消の話し合いを開いたのは、さらにその翌朝のことだ。
応接室の長椅子で、父は私の手を取り、顔色を確かめてから長く息を吐いた。
「手紙を読んだときは肝が冷えたぞ。トマスとエマからも、あの夜のことは聞いた」
低い声に、押し殺した怒りがにじんでいた。
「お前の決めたことに異存はない。病の婚約者を放り出して、使用人まで遠ざけていくような男に、娘はやれん」
「ありがとうございます、お父様」
喉にはまだ熱っぽさが残り、声は掠れている。それでも、言葉は淀みなく出てくる。
「ただ、ファルク家とは角を立てずに終わらせたいのです。大事にして噂になるのは、私も望みません」
「分かっている。貴族院には『双方の合意による解消』として届け出る。違約金は求めず、いただいた結納の品もすべて返す。それなら向こうの体面も保てる」
父はそこで、机の上の書類の束に指を置いた。
「ただし、婚約を前提に結んだ取り決めは、すべて元に戻させてもらう。そこは譲らん」
呼び出しておいたアドリアンが応接室に通されたのは、父が書類を揃え終えたのとほとんど同時だった。
私と父が並んで座っているのを見て、彼の眉がわずかに寄る。
「ハイツ男爵、急にお戻りになったのですね。エレオノーラ、もう起きて大丈夫なのかい? 君のことだから、いつものように一日で良くなったんだろうけれど」
「お掛けください、アドリアン殿」
父の硬い声に、アドリアンは怪訝そうな顔で正面の椅子に腰を下ろした。
父は挨拶を省き、書類を彼の前へ滑らせる。
「単刀直入に申し上げます。当家は、貴殿とエレオノーラとの婚約を、本日付で解消いたしたく存じます」
アドリアンは言葉の意味が分からないというように瞬きをし、それから呆れたように笑った。
「婚約解消、ですか? まさか。ご冗談でしょう。あの夜の行き違いなら、僕からきちんと説明します」
彼は身を乗り出し、私に向かって宥めるように両手を広げた。
「エレオノーラ、怒っているのかい? あの夜、途中で帰ったのは悪かったと思っているよ。でも言っただろう、リーゼが本当にひどい発作を起こしていたんだ。僕が駆けつけたとき、あの子は息ができずに倒れていて、医者もまだ来ていなかった。僕がいなければどうなっていたか。君だって、あの子の持病の重さは知っているはずだ」
私は膝の上で指を組み、彼の目を見返す。
リーゼの病気を持ち出せば、私がいつものように「それなら仕方ありませんね」と引き下がると思っている顔だった。
「アドリアン様。私は、リーゼ様のご病気を疑ってはいません」
掠れた声でも、言葉ははっきりと響く。
「けれど、それは私を置いていっていい理由にはなりません。あの夜、私は熱で起き上がれず、水も飲めないとあなたに申し上げました」
「それは、君が少し大袈裟に言っているのだと……」
「大袈裟ではありません。私は枕元の呼び鈴さえ掴めず、床を這って拾い上げて、ようやく人を呼べたのです」
アドリアンの喉仏が、小さく上下した。
「それに、あなたはお帰りの際、私はもう眠ったから朝まで部屋に入るなと、使用人に言い置いていかれましたね」
「それは、君を静かに休ませてあげようと……」
「おかげで、私が鈴を鳴らすまで、誰も来ませんでした」
彼の口が、開いたまま止まった。
「リーゼ様のもとへ行くと決めたのなら、それでも構いませんでした。せめて誰か一人に、私を頼むと言ってくださればよかった。あなたは反対に、誰も来ないようにして出ていかれたのです」
「僕を責めるのかい? 僕は人の命を助けに行ったんだぞ!」
「責めてはいません。苦しんでいる私を置いていける方を、生涯の伴侶として信じることは、もうできないと申し上げているのです」
一度だけ、息を整える。
「私は、誰かの二番目でいるために結婚するのではありません」
アドリアンは口元を歪め、黙り込んだ。
まだ何か言い募ろうとする彼を、父の低い声が制した。
「当夜のことは、我が家の使用人と往診の医師が詳しく書き留めております。貴族院に不誠実の申し立てをすることもできますが、双方が傷を負うだけでしょう。違約金は求めません。結納の品も本日中にお返しします。円満な解消として処理するのが、ファルク家にとっても賢明かと」
アドリアンの顔から、血の気が引いていった。
彼にも、計算はできるのだ。
この件が表に出れば、社交界で「熱を出した婚約者を放り出して、よその令嬢のもとへ走った男」と噂される。金も体面も失わずに済むのなら、ここで争うのは得策ではない。
それに、彼の目にはまだ驕りが残っていた。少し頭を冷やせば、エレオノーラのほうが後悔して戻ってくる。そう高を括っている目だった。
「ファルク子爵はご領地においでだと伺いました。王都でのことは、貴殿に任されていると」
「ええ。王都の家のことは、僕が預かっています」
「では、貴殿の署名で結構です」
父は書類の束の、三枚目の端を指で叩く。
「なお、ここに記してあります。三年前に当家がファルク子爵領の堤の修繕に用立てた資金は、ご婚姻をもって返済に代えるというお約束でした。婚約が解消される以上、元の証文どおり、来年の春から返済をお願いすることになります。必ず、お目通しを」
「分かりました。そこまで頑なにおっしゃるのでしたら、もう申し上げることはありません」
アドリアンは不服そうに唇を引き結び、乱暴な手つきでペンを走らせた。
三枚目は、めくりもしなかった。
続いて私も、自分の名を書く。手は震えなかった。
最後に、左手の薬指から指輪を外す。
二年間はめていた細工の指輪を、机の上にそっと置いた。
「これまで、ありがとうございました。どうぞお元気で」
アドリアンは指輪をポケットにねじ込むと、父に浅く一礼し、一度も私を見ずに応接室を出ていった。
扉が閉まると、部屋の空気がふっと軽くなった。
「よく言った、エレオノーラ」
父の手が肩に置かれる。その重みに、張り詰めていたものが少しずつほどけていった。
「だが、無理をしたな。顔色がひどく青い。医者とも相談したが、王都の埃っぽい空気を離れて、しばらく静養したほうがいい」
「静養、ですか」
「風渡り丘陵に保養院がある。空気の澄んだ高台で、薬湯の調合に長けた薬師もいるそうだ。費用はすべて私が持つ。お前は、体を元に戻すことだけを考えなさい」
父の厚意を受けることに、迷いはなかった。
今の私に要るのは、意地を張って一人で立つことではない。損なわれた体を、きちんと治すことだ。
それから一週間、王都邸の自室で過ごした。
エマの作る消化のいいスープを口にし、庭を眺めながら、少しずつ歩く距離を伸ばす。強い熱は引いたものの、深く息を吸うと喉がちりちりと痛み、少し長く歩けば足元がふらついた。病み上がりの体は、思っていたよりずっと弱っている。
出発の前の晩、荷物の隅に、あの夜の真鍮の呼び鈴を布にくるんで入れた。
秋風が庭の木々を黄色く染め始めた頃、私は父の手配した箱馬車に乗り込んだ。
見送りのトマスに手を振り、付き添いのエマと二人で王都の門を出る。
石畳はやがて土の街道に変わり、窓の外も、灰色の街並みから牧草地と青い山並みへ移っていく。胸に溜まっていた重たいものが、少しずつ風に溶けていくようだった。
二日半の旅の末に、馬車は丘陵の斜面に建つ白壁の建物の前で止まった。
風渡り保養院。
馬車を降りると、ひやりと澄んだ空気が頬を撫でた。王都より季節が半歩早いのか、周りの木々はもう赤く色づいている。
深く息を吸い込んだ途端、乾いた喉が刺激されて、小さく咳き込んでしまった。
「深く吸うな」
低く、抑揚の少ない声が頭上から降ってきた。
「その喉に、ここの空気はまだ冷たい」
顔を上げると、玄関脇の離れの前に、一人の青年が立っていた。小さな煙突から細い煙が上がっている。調剤所らしい。
飾り気のない灰色の作業着に、麻の前掛け。背が高く、肩幅も広い。顔立ちは整っているのに、眉間に深い皺が刻まれているせいで、ひどく険しく見えた。
「本日からご滞在の、エレオノーラ・ハイツ様ですね。薬師のクラウス・ゼルナーです」
短く名乗ると、彼は私の返事を待たずに歩み寄ってきた。私の顔色と、浅い呼吸と、乾いた唇を順に見る。
「紹介状は拝見した。長旅で疲れただろう。荷は管理人に任せて、まずこちらへ。声は出さなくていい」
促されるまま調剤所に入ると、乾いた草木の渋い香りが部屋いっぱいに立ち込めていた。
クラウスは薬缶の湯を陶器の碗に注ぎ、棚から取った赤黒い干し草を指先で揉み崩して落とした。立ちのぼる湯気に、温かい香りが混じる。
「飲まなくていい。顔を近づけて、湯気を鼻からゆっくり吸え。喉の乾燥が和らぐ」
言われたとおりに湯気を吸うと、ちりちりと痛んでいた喉の奥が、少しずつ湿り気を帯びて緩んでいった。
世間話も、愛想笑いもない。
目の前の不調だけを正確に拾い上げて、要る手当てだけを差し出してくる。その無骨な指先から、私は湯気越しに目を離せなかった。




