第1話
外套の襟を立てたアドリアン・ファルクは、革の手袋を指先まで引き締めながら、私の寝台を見下ろしていた。
「エレオノーラ、すまないがもう行くよ。リーゼの気管支の発作が出たと、ベルガー家の使いが下に来ている」
暖炉の薪が爆ぜる音が、薄暗い寝室にやけに大きく響く。
起き上がろうとしたが、肘に力が入らなかった。息を吸うたびに喉が焼けるように痛み、枕から頭を浮かせることもできない。
「アドリアン、様」
自分でも驚くほど掠れた声だった。
「熱が、ひどいのです。息が、うまく……」
「分かっているよ。顔が赤いからね。でも君は昔から、風邪を引いても一晩寝れば熱が引く質だろう? 丈夫な体質で本当に助かるよ」
彼は立ち止まりもせず、外套の金ボタンを留め直した。
苦しいと訴えても、声の調子は少しも変わらない。明日の天気でも話すような軽さだ。
「リーゼはそうはいかないんだ。あの子は生まれつき喉が弱くて、発作が始まると息が止まりそうになる。今夜は特に冷えるから、そばについていてほしいと言われた。分かるね?」
「ですが、私、は」
言い終わる前に、激しい咳が喉を突き破った。
肺の底が擦れるような鈍い音が、部屋に落ちる。咳き込むたびに関節が軋み、額に冷や汗がにじんだ。
今夜は本来、このハイツ男爵邸で彼と夕食を共にするはずだった。
夕刻、訪ねてきた彼を玄関で迎えた直後に、ひどい悪寒に襲われたのだ。膝をついた私を抱き起こし、寝室まで運んでくれたのはアドリアンだった。
『少し横になっていなさい。僕がついているから』
そう言って額に当ててくれた手の温かさを、私は信じかけていた。
半刻後、ベルガー男爵家から使いが来たと知らされるまでは。
「水を、一杯、いただけますか」
乾ききった舌で、それだけを絞り出した。枕元のサイドテーブルに水差しはある。けれど今の私には、そこまで腕を伸ばすことさえできない。
「エレオノーラ、甘えてはいけないよ」
アドリアンは困ったように眉を下げ、子どもを窘めるような笑みを浮かべた。
「すぐそこに水差しがあるだろう。僕は急がないと。どうしても無理なら、鈴でエマを呼ぶといい」
彼は水差しを私の手元へ寄せることもなく、扉へ向かった。
その横顔に、ためらいの色はどこにもない。
「リーゼが落ち着いたら、明日の午後には顔を出すよ。君の丈夫さにはいつも感謝している。おやすみ、エレオノーラ」
カチリ、と扉が閉まった。
革靴の足音が廊下を遠ざかり、階下で玄関の扉が開いて、閉じる。
それきり、何も聞こえなくなった。
部屋には、私一人が残された。
荒い呼吸の音だけが、耳の中で鳴っている。
熱い。体の内側に炭火を詰め込まれたようで、唾を飲み込むたびに針を飲み下すような痛みが走る。
『君は丈夫だから』
初めて言われた言葉ではなかった。
二年前の春、領地境の小川へピクニックに出かけた日のことを思い出す。
飛び石を渡る途中で足を滑らせ、私は浅瀬に落ちて足首をひどく捻った。同じとき、驚いた拍子に貧血を起こしてへたり込んだのが、アドリアンの幼馴染のリーゼだった。
アドリアンは真っ青な顔でリーゼに駆け寄り、それから、腫れ上がって靴も脱げなくなった私の足首を一瞥して言った。
『エレオノーラは足腰がしっかりしているから、木の枝を杖にすれば歩けるね。リーゼは骨も細いし、血の気が引いている。僕が背負って馬車まで運ぶよ』
私は頷いて、折れた枝を拾った。
それを杖にして、二人の後ろをついていく。痛みで何度も立ち止まりかけたけれど、リーゼを背負ったアドリアンが振り返ることは一度もなかった。
足首は紫色に変わり、治るまでにひと月かかった。それでも私は、「リーゼ様が大事に至らなくてよかった」と笑ってみせた。
不平を言わず、弱音を吐かず、耐えること。それがいずれファルク子爵家を支える妻の務めだと信じていたから。
けれど、あれは美徳などではない。
私が痛みに耐えれば耐えるほど、彼はそれを私の強さだと受け取り、背を向ける理由にしてきた。
今夜は、痛いと言った。それでも彼は出ていった。
リーゼの病気は嘘ではない。冬になれば夜通し咳に苦しむことも、私は知っている。彼女を悪く言うつもりはなかった。
けれど、熱で起き上がれない私を置いていき、水の一杯も渡さなかったのは、リーゼの病気ではない。
アドリアン自身が、そう選んだ。
このまま明日の午後まで待っていたら、本当に熱に焼き尽くされてしまう。
なぜ彼が使用人を呼んでいかなかったのかは分からない。ただ、今この部屋には誰もいない。
もう、我慢するのはやめよう。
私は掛け布を撥ね除けた。
冷たい夜気が、火照った肌に突き刺さる。歯の根が合わないほどの寒気が押し寄せたが、奥歯を噛み締めて、右腕を寝台の脇へ伸ばした。
サイドテーブルの端に、小さな真鍮の呼び鈴がある。
指先が、かろうじて縁に触れた。けれど震える手では掴みきれず、鈴は絨毯の上へ転がり落ちた。
カラン、と一度だけ鳴って、それきり静かになる。
こんな小さな音では、階下まで届かない。
私は敷布を掴んで、寝台から床へ滑り落ちた。
膝と肩を強く打ち、息が詰まる。それでも止まらなかった。冷えきった床を、両手と膝で這う。
視界が白く明滅し、胃の底から吐き気がせり上がってくる。床に転がった真鍮の感触を探して、指を伸ばした。
あった。
冷たい金属の塊が、手のひらに収まる。
私はそれを胸元に引き寄せ、力を振り絞って手首を振った。
チリン、チリン、チリン。
澄んだ甲高い音が、夜の寝室に響き渡る。
一度では足りない。二度、三度と、狂ったように振り続けた。
ここにいる。苦しい。誰か、気づいて。
遠くで、階段を駆け上がる足音がした。
一つではない。二つ、三つ。廊下を走ってくる。
「お嬢様!?」
扉が勢いよく開き、ランプの黄色い光が部屋に雪崩れ込んできた。
飛び込んできたのは侍女のエマだった。後ろには、執事のトマスが青ざめた顔で立っている。
「まあ、なんてこと! お嬢様、お体が火のようですわ!」
「エマ」
「トマス、早く! お医者様を!」
トマスが身を翻し、階下へ指示を飛ばす声が響く。
エマは私を抱き起こしながら、震える声で言った。
「ファルク子爵令息様は、お帰りの際に、お嬢様はもうお休みになったから、朝まで誰もお部屋に入らないようにと……」
私は、眠ってなどいなかった。
なぜ誰も来なかったのか、ようやく分かった。
「お医者様を、呼んで。苦しいの。息が、できない」
「すぐにお連れします! お嬢様、しっかりなさってください!」
寝台に戻され、何枚もの毛布で包まれる。
エマが匙で白湯を少しずつ唇に運んでくれる。喉を通るたびに焼けるような痛みが走ったが、さっきまでの暗闇とは違った。
誰かが、私の苦しさに気づいてくれている。それだけで、強張っていた体がわずかに緩んだ。
半刻もしないうちに、息を切らした初老の医師が寝室へ飛び込んできた。
胸に聴診器が当てられ、首筋の腫れを何度も確かめられる。医師は眉を寄せ、振り返ってエマに言った。
「喉がひどく腫れている。水も飲めず、さぞ苦しかっただろう。今夜は誰か、そばについていてくれるかね」
「申し訳ございません。お休みだと伺って、お部屋に近づかずにおりました」
「エマのせいではないわ」
額に冷たい布を乗せられながら、私は途切れ途切れに言った。
「鈴を鳴らしたら、すぐに来てくれたもの」
医師は短く息を吐き、薬嚢を開いた。
すり鉢で砕いた薬草が湯に溶かされ、口元へ運ばれる。舌が痺れるほど苦かったが、一滴も残さず飲み干した。
首筋に熱を吸い出す泥湿布が貼られ、額の布が何度も取り替えられる。
夜が更けるあいだ、エマはずっと枕元に座り、井戸水で冷やした手拭いで私の汗を拭い続けてくれた。
一晩寝れば治る丈夫な体などでは、なかった。
水を飲むにも、起き上がるにも、今夜の私には人の手が要る。
彼が駆けつけたリーゼと同じように、私もまた、壊れやすい一人の人間だった。そんな当たり前のことを、二十歳になるまで自分にさえ認めてこなかった。
やがて、窓の外が白み始める。
初秋の冷たい朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでくる。
熱はまだ引ききっていない。それでも喉の腫れはいくらか治まり、息はずっと楽になっていた。
「お嬢様、お目覚めですか?」
寝ずの番をしてくれたエマが、赤い目をこすりながら身を起こした。
「エマ。ありがとう。一晩中、看ていてくれて」
「そんな、お礼なんて! 本当に、お熱が少し下がって、よかった……」
「ええ。あなたのおかげよ」
深く息を吸う。冷たい空気が肺を満たし、頭の芯が冴えていく。
サイドテーブルには、昨夜床から拾い上げられた真鍮の呼び鈴が置かれていた。
これからは、痛いときには痛いと言おう。
誰かにとって都合のいい「頑丈な女」でいるのは、もう終わりにする。
「エマ。紙とペンを持ってきてちょうだい」
「えっ、ですがお嬢様、まだお体が」
「手紙を一通、書くだけよ」
毛布の中で、自分の手のひらを見つめた。
まだ青白く、頼りなく震えている。
父は今、領地の本邸にいる。けれど手紙を出せば、明日の夕方には王都へ戻ってこられるはずだ。
今日の午後、アドリアンが「様子を見に」やってくる前に、私の意志を紙の上に書きつけておきたかった。彼がどんな言い訳を口にしても、二度と揺らがないように。
「お父様に、知らせるの」
私はエマの目を見て告げた。
「アドリアン様との婚約を、白紙に戻していただくわ」




