SS 第1話
窓を開けると、初夏の柔らかな風が、丘陵の緑の匂いを運んできた。
居間の窓辺にある小さな飾り棚には、冬市で買ったあの木彫りの熊と、王都の実家から持ってきた真鍮の呼び鈴が、並んで朝の光を浴びている。
机の端には、麻布を敷いた買い物籠を用意してあった。
今日は、週に一度の青空市が開かれる日。
クラウスは午前中に保養院で短い調剤の当番があり、昼前に戻ったら、午後から二人で川向こうの市へ歩いていく段取りになっている。昨年、保養院にいた頃に買い逃してしまった、東の端の果物屋のプラム。今年の実がちょうど出始めたと聞いて、数日前から楽しみにしていたのだ。
お湯を沸かそうと台所へ立ったとき、寝室の扉が開き、クラウスが出てきた。
いつものように濃紺の平服を着て、髪も整えている。だが、居間の卓へ向かって歩いてくる足取りが、わずかに重い。
何より、彼の頬には隠しきれない熱の色が差していた。
「……おはよう、エレオノーラ」
いつもの低い声が、少しだけ掠れている。
「おはようございます、クラウス。……お顔が赤いですね」
「ああ。喉がいがらっぽくて、熱があるようだ」
彼は強がることもなく、淡々と自分の状態を口にした。
「午前中の当番は、休ませてもらう。保養院の患者にうつすわけにはいかないからな」
そう言って、クラウスは東側の窓辺へ歩を進めた。
ちょうど敷地の外の緩やかな坂道を、天秤棒を担いだヨハンが下りてくるところだった。毎朝、保養院の作業が始まる前に井戸へ向かう、いつもの道順。
クラウスが木枠を押し開け、短く声をかける。
「ヨハン」
「あ、ゼルナーさん! おはようございます!」
「すまない、熱が出た。午前は休む。今日仕込む乾燥葉の配合は、調剤所の作業台に書き置いてある。午前の処方はそれで回せるはずだ。迷ったら、先生に指示を仰いでくれ」
「えっ、ゼルナーさんが熱ですか!? 分かりました、調剤所は僕が見ておきます。先生にも伝えておきますから、暖かくして寝ててくださいね!」
ヨハンは力強く頷き、足早に坂道を下りていった。
窓を閉めたクラウスが、肩の力を抜いて息を吐く。
仕事の連絡を手早く終えたところまでは、普段通りだった。けれど、振り返って私と目が合った途端、彼はひどく申し訳なさそうに眉を下げた。
「……すまない。午後から市へ行く約束だったのに」
「謝らないでください。プラムなら逃げませんよ。来週も市は立ちますし、これからが美味しい時期だそうですから。来週、二人で一番いい実を選びましょう」
私が買い物籠を棚の脇へ寄せると、クラウスは居心地悪そうに視線を落とした。
「だが、君の仕事の時間を奪ってしまうな。寝床は自分で整えるから、君は机に向かっていていい」
「書房の写本なら、昨日一冊分を王都行きの定期便に乗せたばかりです。次の詩集の原稿が届くまでは、数日のゆとりがありますよ。私の仕事の心配はしないでください」
歩み寄り、背伸びをして、自分の手のひらをそっと彼の額に当ててみる。
じんわりとした熱が、肌を通して伝わってきた。微熱よりは高いが、息が荒くなるほどではない。
「横になって、体を休めましょう。お茶くらい、私が淹れますから」
そう言うと、クラウスは困ったように視線を泳がせた。
人に休めと言うことには慣れていても、自分が大人しく誰かに世話を任せる段になると、どう振る舞えばいいのか分からないらしい。
「……君に余計な手間をかけさせる」
「手間などではありません。……痛いときは痛いと言え。そう教えてくれたのは、あなたですよ」
クラウスが、虚を突かれたように瞬きをする。
腕に軽く手を添えて寝室へと促すと、彼は観念したように小さく頷いた。
寝室に入り、彼が平服を脱いで、麻の部屋着に着替えるのを手伝った。
寝台の縁に腰を下ろしてもらい、掛け布をめくる。初夏の風で体が冷えないよう、木綿の薄掛けを足元から広げた。
枕の綿を軽く手で押して整えると、クラウスは素直に身を横たえた。
「寒気はしていませんか?」
「いや。関節が少し重い程度だ。……君の手は、ひんやりしていて落ち着くな」
額の汗を指先でぬぐうと、クラウスは小さく目を細めた。
普段は薬草の選別や調剤で細かく動き続けている大きな手が、今は掛け布の上で行儀よく重ねられている。
「では、居間の窓を閉めて、お湯を沸かしてきますね。何かあったら呼んでください」
言いながら、居間の飾り棚の呼び鈴が頭をよぎった。枕元へ持ってこようか。
けれど、すぐに思い直す。この家は小さい。扉を開けておけば、名前を呼ぶ声は台所まで届く。
私が身を起こし、扉の方へ一歩踏み出したときだった。
掛け布から伸びた彼の手が、私の前掛けの端を、そっと指先で押さえた。
強く引くわけではない。ほんの少し引き止めるような、微かな重みだった。
「クラウス?」
振り返ると、彼は掛け布を胸元まで引き上げ、熱の残る目で私を見上げていた。
眉間の皺は緩み、何かを言い淀むように、唇がわずかに開いている。
「……エレオノーラ」
「はい」
「水を、少し。……取ってもらえるか」
それは、指示や言いつけではなく、躊躇いながら差し出された、小さな頼み事だった。
人に何かを頼むのがあれほど苦手だったこの人が、私にそう口にしてくれた。そのことが、胸の奥をじんわりと温めていく。
あの夜の私が欲しかったのも、たった一杯の水だった。
「ええ、すぐに」
台所へ行き、陶器の水差しから、硝子の杯に冷たい水を八分目ほど注ぐ。
寝室へ戻り、寝台の脇に腰を下ろして杯を差し出した。
クラウスは身を起こし、私の手から杯を受け取る。そのとき、乾いた彼の指先が私の指に触れ、熱がほのかに伝わってきた。
彼はゆっくりと喉を鳴らして水を飲み干し、息を吐いた。
「……ありがとう。助かった」
空になった杯を返すとき、彼の手が私の指先に、もう一度触れた。
目が合うと、クラウスは少しだけ気恥ずかしそうに口元を緩め、それから枕へ頭を戻した。
「ゆっくり休んでくださいね」
「ああ」
掛け布を整え直し、寝室の扉を開けたまま居間へ戻る。
窓辺の棚では、木彫りの熊がむすっとした顔のまま、日差しを浴びていた。隣の呼び鈴も、黙って光っている。
私はやかんを火にかけながら、寝室の気配に耳を澄ませた。




