SS 第2話
昼前、保養院の老医師が様子を見に立ち寄ってくれた。
ヨハンが知らせてくれたのだろう。診察は手短なもので、喉の腫れを検め、胸の音を聴いたあと、「無理をせず、暖かくして寝ていれば快方に向かうだろう」と告げる。帰り際には、熱冷ましの煎じ薬を詰めた小瓶を置いていってくれた。クラウスも短く礼を言い、医師の指示に大人しく頷いていた。
正午を少し過ぎた頃、寝室の様子を覗きに行く。
クラウスは枕を高くして、天井を眺めていた。
「クラウス、何かお腹に入りそうですか?」
「……そうだな。固いものは喉に障りそうだが、腹は少し空いている」
彼は自分の胃の具合を確かめるように、間を置いてから言った。
「薄切りのパンを、温かいスープに浸して食べたい。……少しでいい」
「分かりました。すぐに用意しますね」
台所で昨日の残りの野菜スープを温め、柔らかく煮えた蕪と人参を木べらで軽く潰す。黒麦パンを薄く切り、盆に載せて寝室へ運んだ。
クラウスは身を起こし、膝の上で盆を受け取った。
スープに浸したパンを、ゆっくりと噛んで飲み込む。スープを半分とパンを一枚食べたところで匙を置き、「これで十分だ」と器を脇へ寄せた。無理をして全部平らげようとしないところに、薬師らしい慎重さが見える。私は少しほっとした。
「ごちそうさま。美味しかった」
「お粗末さまでした。夕方にまたお腹が空いたら、言ってくださいね」
盆を下げて居間に戻ると、昼下がりの暖かい光が部屋の隅々まで満ちていた。
クラウスが再び微睡みに入ったのを見届けてから、自分の机に向かう。
次の詩集の原稿は、まだ王都から届いていない。急ぎの仕事はないので、ペン先をぬるま湯で洗い、読みかけだった港町の旅行記を開いた。
寝台のそばに付きっきりで息を詰めるより、こうして普段通りの生活の音を立てている方が、彼も気兼ねなく眠れるだろうと思ったからだ。
三日後には、王都からエマが二晩の予定で遊びに来ることになっている。
先月から手紙のやり取りを重ねて決めた日程だ。王都からここまでは、馬車で片道二日半。彼女は明日の朝には、王都を発つはずだ。
エマが着く頃には、クラウスの熱もすっかり引いているだろう。
夕暮れが近づき、丘の端が茜色に染まり始めた頃、寝室から身じろぎの音が聞こえた。
洗面器に水を汲み、手拭いを浸して絞ってから寝室へ入ると、クラウスがちょうど身を起こしたところだった。
「目が覚めましたか?」
「ああ。少し汗をかいたな」
冷たい手拭いを手渡すと、彼は顔を拭い、小さく息を吐き出した。まだ微熱はあるようだが、目元には落ち着きが戻っている。
「……市は、そろそろ終わる頃だな」
手拭いを畳みながら、クラウスがふと窓の外へ視線を向けた。
「そうですね。さっきから、市帰りの荷車の音が遠くに聞こえています」
私は寝台の脇の丸椅子に腰を下ろした。
「クラウス、来週の市へ行くときは、どんなプラムを選べばいいか教えてくれますか?」
「……ああ。実の表面に、白い粉が薄く吹いているものがいい。果粉といって、もぎたての実ほどよく残っている」
クラウスは思い出すように、視線を宙へ向けた。
「皮の色は、赤紫が濃いものほど甘い。……と、マルタが言っていた。君は甘い方がいいだろう」
「もちろん甘いのも楽しみですけれど、酸っぱいものも食べてみたいです。甘い実と酸っぱい実、両方買ってみませんか?」
「そうだな。……なら来週は、君が甘い実を、私が酸っぱい実を選ぼう」
彼は私の顔を見て、穏やかに頷いた。その目元を見ていると、来週の市が今から待ち遠しくなる。
夜になり、煮豆とスープを少しだけ温め直して、寝室の小卓で手短な夕食を済ませた。
片付けを終え、私は読みかけの旅行記を抱えて寝室へ戻る。
「そろそろ明かりを落としますね。私は居間で、続きを少し読んでから休みます」
「……エレオノーラ、その表紙は港の絵か?」
クラウスが枕元から本を見上げて尋ねた。
「ええ。北の港町の記録です。干した海藻を刻んで、魚の澄まし汁に入れるのだそうですよ」
「海藻か。……干したものなら、薬種問屋で見たことがある。煎じると、首の腫れ物に効くと古い薬草書にあった」
「クラウス。また、薬師の顔になっていますよ」
「……熱があっても、これは抜けないらしい」
「ふふ。澄まし汁の方は、不思議な味だと書いてありました。旅に出ると、見慣れない食べ物がたくさんあって面白いですね」
「そうだな。……君が旅の話をしていると、なんだかこちらまで腹が空いてくる」
大真面目に答える彼がおかしくて、私は小さく笑ってしまった。
本を脇に抱え、空になった水差しを持って部屋を出ようとした、そのときだった。
「エレオノーラ」
呼び止められて振り返ると、クラウスが掛け布から腕を伸ばしていた。
大きな手が、私の指先をそっと捕まえる。用事があるわけでもなさそうなのに、離そうとはしない。
「……少しだけ、ここにいてほしい」
低く、けれどはっきりとした声だった。
照れくさそうに視線を泳がせながらも、彼は私の返事を待っている。
「はい。喜んで」
私は水差しを卓へ戻し、丸椅子を寝台のそばへ引き寄せて座り直した。
クラウスの手が、私の手の甲へと重ねられる。節くれ立った指先が、私の親指の付け根あたりを、確かめるように撫でた。
「本を読むなら、ここで読むといい」
「そうします。でも、まずはあなたの寝顔を眺めてからにしますね」
「……からかうな」
困ったように眉を下げながらも、彼は手を重ねたままでいた。
言葉を交わさなくても、少しも寂しくない。指先から伝わる温もりを、ただ分け合う。
やがて、クラウスの呼吸がゆっくりと深くなり、規則正しい寝息へと変わっていった。
彼の手を冷やさないよう掛け布の中へ戻し、枕元のランプの芯を細くする。
旅行記は、結局一頁も進まなかった。それでいい。
「……今夜は、私がそばにいます」
眠る人にだけ届くくらいの声でそう告げて、私は彼の隣に身を横たえた。
掛け布越しに伝わる寝息を数えているうちに、私の瞼も、いつの間にか重くなっていた。




