最終話
春の風が、居間の窓をやわらかく揺らしていた。
窓辺の飾り棚では、冬市で買ったあの不格好な木彫りの熊が、日差しを浴びて座っている。その隣には、小さな真鍮の呼び鈴が並んでいた。
父とマルタ、ヨハンたちに見守られて、ささやかな結婚の誓いを交わしてからひと月。私は王都を離れ、風渡り丘陵の麓に借りたこの小さな平屋で、クラウスと暮らし始めていた。
机の上には、トーレ書房から定期便で届いたばかりの古い詩集の原稿が並んでいる。
朝食の片付けを終えてから、明るい窓辺でインク壺を開けて、ペンを走らせていた。手首は疲れないし、息を吸っても喉はどこも痛まない。
今朝写しているのは、会いたい人を渡り鳥にたとえた詩だった。写しながら、ついさっき出かけていった人の顔が浮かんでしまい、一文字書き損じそうになって、慌ててペンを止める。
カチャリ、と玄関の掛け金が鳴った。
坂の上の保養院へ、置き忘れた手帳を取りに行っていたクラウスが戻ってきたのだ。今日は、同僚たちと当番をやりくりして取った、丸一日の休みだった。
「ただいま、エレオノーラ」
「おかえりなさい、クラウス」
作業着ではなく、着慣れた濃紺の平服姿の彼は、外套を掛けると、まっすぐ居間へ入ってきた。
そして、机の前に座る私のすぐ脇の長椅子に、腰を下ろした。
本を開くでもなく、手帳をめくるでもない。両手を膝の上に置いて、私の横顔をじっと見ている。
「クラウス?」
ペンを置いて椅子ごと向き直ると、彼の眉間に小さな皺が寄った。
「どうした。どこか痛いのか。喉が渇いたか」
「いいえ、どこも痛くありません。熱もないし、指先も温かいです」
「そうか。……なら、なぜ手を止めた」
「あなたが隣に来たからです」
小さく笑うと、彼は虚を突かれたように瞬きをした。
私は長椅子に移って、彼のすぐ隣に座り直した。肩が触れ合うほど近くに寄っても、彼は身を引かない。
「具合が悪くなくても、用事がなくても、あなたと話したかったんです。それとも、お邪魔でした?」
「邪魔なものか」
クラウスは慌てて首を振った。
「戻る途中、早く顔が見たくて、坂を少し走った」
「まあ。手帳を取りに行っただけなのに?」
「ああ。家に君がいると思うと、足が勝手に速くなる」
大真面目な顔でそんなことを言うものだから、愛おしくてたまらなくなった。彼の手の甲に指を重ねると、節くれ立った温かい手が、すぐに私の指を包み返してくる。
苦しいときでなくても、手を伸ばしていい。分かっているのに、握り返されるたび、やっぱり嬉しかった。
「今日のお昼は、どうしましょう。市の立つ日ですし、川向こうまで歩きませんか。石橋のたもとに新しいパン屋さんができたって、マルタさんが言っていました」
「いいな。あそこの黒麦パンは香ばしいと、ヨハンが騒いでいた。帰りに、果物屋にも寄ろう」
「東の端の、ですね」
「プラムの季節には、まだ早いが」
クラウスは少し考えてから、真面目な顔で付け加えた。
「季節になったら、今度は売り切れる前に行こう。初日に」
「初日に、ですか」
「一日遅れて、君をがっかりさせるのは、もうごめんだ」
「あのときも、がっかりなんてしていませんでしたよ」
「……そうなのか」
「林檎を、二つ買えましたから」
一瞬きょとんとした彼の耳が、じわじわと赤くなっていく。
「クラウス」
「ん?」
「好きですよ、あなたが。こうして何でもない話をしている時間も」
耳だけ赤かった彼の顔が、今度こそ頬まで真っ赤に染まった。
彼は言葉を探すように一度視線をさまよわせ、それから繋いでいた手を引いて、私を腕の中へ抱き寄せた。
厚い胸に頬が触れる。少し速い鼓動が、耳に伝わってきた。
「……私のほうが、ずっと好きだ」
耳元に落ちてきた声は、低く、少し掠れていた。
「朝起きて、隣で君が眠っているのを見るたびに、まだ少し信じられない。夢じゃないかと思って、しばらく顔を眺めている」
「毎朝ですか?」
「毎朝だ」
あまりに真剣に言うので、笑ってしまった。笑っている私の額に、彼の唇がそっと触れる。それから、もう一度。最後に、唇に。
春の光の中で、私は目を閉じた。
「さて。出かける前に、お茶を一杯淹れよう」
体を離したクラウスが、照れ隠しのように立ち上がり、台所へ向かった。
やかんに水を張り、かまどに火を入れる手つきは、すっかり慣れたものだ。茶缶から取り出したのは、王都の店から取り寄せている、あの麦と薄荷の茶葉だった。
湯呑みを二つ並べたクラウスが、小壺から角砂糖をつまみ上げる。
一つ、二つと落とし、三つ目をつまもうとしたところで、私は身を乗り出して彼の手首を軽く掴んだ。
「クラウス。今朝、蜂蜜をたっぷり召し上がりましたよね」
「これは、味の調整だ」
「三つは多すぎます」
「なら、二つ半にする」
「それは、ほとんど三つです」
真面目な顔で言い訳をする夫がおかしくて、私はこらえきれずに吹き出した。
クラウスも、角砂糖を壺に戻しながら、降参したように目元を緩めて笑った。
二人でお茶を飲み終えて、出かける支度をする。
窓の外では、春の風が丘を渡っていた。
「エレオノーラ。外は風が出てきた」
襟巻きを、と私が言うより先に、彼はもう、私の首元に毛織の布を巻きつけていた。
飾り棚の上で、木彫りの熊と並んだ真鍮の呼び鈴が、春の光を受けて小さく光っている。
あの夜、床を這ってようやく掴んだ鈴だ。
この家に来てから、まだ一度も鳴らしたことがない。
鳴らすより先に、この人が気づいてしまうから。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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