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丁卯の章 芝で生まれて神田で育ち 今じゃ気弱な公爵令嬢


 ベアトリスは興味津々で手鏡を覗き込む。


 普段のベアトリスなら、若い異性と親しく話すなど、立場的にも心情的にも到底できなかっただろう。

 そういう意味では、父や弟は勿論、使用人に対してさえも「公爵令嬢らしい振る舞い」を気にするあまり、気軽に接することができないようなところがベアトリスにはあった。


 しかしそんな気弱令嬢でも、相手が別世界からやって来た幽霊となれば話が別である。


 この姿形のない風変わりな友人は、ベアトリスが公爵令嬢であることとも、気弱なせいで周囲から軽んじられていることとも、一切関わりがない。

 

 彼女がこれだけ立場や利害を気にせず話せる相手は、幼い頃亡くなった母親以来かも知れなかった。


 そう考えると気が楽になり、普段抑えつけられていた生来の探究心の強さがムクムクと頭をもたげてきて、気づくとベアトリスは源太を質問攻めにしていた。


「ゲンチャン、さっき『トビのゲンチャン』って言ってたけど、『トビ』ってなあに?」


(鳶ってのは、高ェところ専門の大工のことさね。

 屋根の上を飛び回って足場ァ組んだり、古い建物をバラしたり……

 とにかく身が軽くて度胸がなきゃァ務まらねえ仕事さ。

 まァ危険も多いんだが、その分実入りも多いってやつでね。

 おいらの住んでた江戸じゃァ大工や左官と並んで「華の三職」なんて言われて、人気の商売だったんだぜ?)


「そうなの……

 だからあの時、私の身体でバルコニーにぶら下がるなんて離れ業ができたのね。

 …………私が暴れたせいで落ちちゃったけど。

 トビになったのは、お家が代々トビだったとか?」


(いやぁ、親父は棒手振りの魚屋だったよ。

 おいらは芝ってとこの生まれでね。おいらンちは絵に描いたような貧乏人の子沢山だったが、何だかんだ楽しくごちゃごちゃ暮らしてたなァ。

 ところが、おいらが(とお)のときに、住んでた長屋の一帯が火事に巻き込まれちまってさ。

 ……結局、生きて逃げられたのはおいら一人だった)


「なんてこと……」


(そこからは、身寄りもねえ、家もねえってんで、毎日生きるのに必死だったなァ。

 薪割りや屑拾いで手間賃稼いだり、お供え物を失敬したり、時にゃスリやかっぱらいの真似事をしたり……

 それでまァ、芝を出て人の多い神田に流れてきたんだが、ある時昌平橋の人混みで財布をスろうとして、見事にしくじっちまってさ。

 そん時おいらをとっ捕まえたのが、「よ組」の頭取、辰五郎お頭だったってェわけよ)


「ヨグミ?」


(「よ組」ってのは神田一帯をあずかる火消し組だィ。

 火消しの頭取ってのは、大抵鳶の(かしら)だの大工の棟梁だのを兼ねててね、気っぷのいいのが多いんだ。

 おいらを捕まえた辰五郎お頭も、威勢がいいのと面倒見がいいのが信条って男よ。

 番屋に突き出すことも出来たのに、お頭はそのままおいらを家に連れ帰って、飯と寝る場所をくれたんだ。

 そこから十年、お頭の元で鳶としても火消し人足としてもミッチリ仕込んでもらったってわけさ)


 源太の語り口はどこまでも明るいが、内容は重い。

 ベアトリスは源太の生い立ちを聞いて、これまで不幸だとばかり思っていた公爵令嬢の暮らしが、いかに恵まれたものであったかに思い至り、我知らず顔を赤らめた。


(それで、二年前にようやく独り立ちして、お頭のとこを出て近所の裏長屋に移り住んだんだ。

 まァ、姫さんが乗っかってるこの寝台を置いたら、裏口から水屋まで全部埋まっちまうような小せえ棟割長屋だったけどな。

 「よ組」の火消しとしてもどうにか一人前と認められて、サァこれから恩返しだって張り切っていたんだが……その矢先にこんなことになっちまった。

 全く、お頭に合わす顔がねェや)


「それは……残念だったわね……

 私はそのおかげでゲンチャンと知り合えたわけだから、複雑な気持ちだけど……

 それにしても、ゲンチャンって大工さんだけじゃなくて、『火消し』もしていたのね。

 『火消し』っていうのは消防団のことでしょう?

 すごいわ。町の英雄じゃない」


(へへへへへ。そりゃまァ火消しは江戸の花形だからなァ。

 おいらたちが揃いの法被(はっぴ)に身を包んで通りを歩けば、町娘がキャアキャア言ったもんだぜ)


「まあ!ゲンチャンって女の人にモテてたの?」


(………………………………………「よ組」は所帯がデケェんだよ。

 それこそ花形の纏持ちや、そのすぐ下の兄貴分あたりにはしょっちゅう女が群がっていたが、おいらたち見習いに毛が生えた程度の平人足じゃ、どうもなァ………

 あッ、でもおいら、長屋のおかみさん連中や子どもたちには大人気だったんだぜ?

「アラ源ちゃん。薪が足りないから、うちの天井裏を少しばかり剥がしておくれでないかい?大家さんにわからないくらいの見当でさァ」とか、

「アッ源ちゃんだ。なァ、また独楽(こま)の芯削っておくれよ、よう」

 ………って具合にな)


「ゲンチャンって便利な人気者だったのね」


(引っかかる言い方だねどうも)


 ベアトリスはクスクス笑った。



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