戊辰の章 三毛の猫 負けるな源太これにあり
窓の外ではいつの間にか夕闇が濃くなってきた。
メイドが夕食を運んできて、ベアトリスは慌てて手鏡を仕舞う。
メイドは寝室のランプに火を灯すと、給仕をしながら心配そうにベアトリスの様子をうかがった。
こちらの精神状態を危ぶんでいるんだな、と察したベアトリスは努めて穏やかに微笑み、メイドに礼をいう。
食事中も終始落ち着いた様子のベアトリスに、メイドはホッとした表情で頭を下げ、食器を載せたワゴンを押して出ていった。
それを見届け、ドアが閉まった途端ベアトリスは待ちきれないように手鏡を取り出す。
「ゲンチャン、そこにいる?」
(あたぼうよ。姫さんに黙って何処にも行きゃしねェさ………まァ、行こうったって行けねェんだけども………)
「もっとゲンチャンのお話が聞きたいの。初めて聞くことばっかりで、すごく興味深いわ。
教えて、エドの国は火事が多かったの?」
(おっ、さっきの話の続きかい?いいともさ。
多いなんてもんじゃねェ、『火事と喧嘩は江戸の華』って言葉があるくらいでね。
何しろ町じゅうが木と紙で出来てるようなもんだから、ひと度火が出た日にゃァあっという間に燃え広がっちまう。
おいらの生まれる前には、火のついた振袖一枚で公方様の城から何から、江戸が半分がた丸焼けになっちまったこともあったんだぜ?)
「エドの建物は木でできてたの……それじゃ確かに燃えやすかったでしょうね」
(ああ、だからおいらたち火消しの役目は、専ら火が広がらねェように周りの建物を倒しちまうことでね。
それには建物の作りに詳しい鳶や大工がうってつけってわけだ)
「こっちの世界の建物は石造りやレンガ造りが多いから、ゲンチャンも驚いたんじゃない?」
(まあなァ。姫さんが落っこちたあの馬鹿デケェ建物もこのお屋敷も、お城の石垣みてえな壁が高く高く積み重なってて、こいつはまるっきり違う世界に来ちまったと思ったのは確かだな。
でもなァ……石造りじゃ建物自体が焼け落ちるってことはまず無ェだろうが、中は布だの木だの、燃えやすいものがごまんとあるじゃねえか。
おまけに、障子一枚蹴破りゃすぐ往来、ってな江戸の普請とは違って、こっちの建物は廊下や階段が縦に入り組んでやがるから、逃げ出すのも一筋縄じゃいかねえ。
こっちはこっちで、火事が怖えことに変わりはねェと思うぜ)
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「よく見ているのね。流石町の英雄だわ。
………私、ゲンチャンが羨ましいな。勇気があって、人気者で……」
(そうかい?でも死んじまっちゃ終ェさ。
姫さんは生きてんだ、これから幾らでもなりたいようになれるじゃねェか。
人間、生きてりゃ勝ちだって横町のご隠居がよく言ってたぜ。
………アラッ、じゃあおいらあのジジイに負けちまったってことになるのか……しゃくだね、こりゃ)
「そ、う、かしら………
ゲンチャンが亡くなったのは、やっぱりお仕事で……?」
(まァな。火消しが火事でとられちまうのは珍しくもねェが、これが締まらねェ話でね………
ま、さる大店で火事があったと思いねェ。
火の見番が擦半鳴らす中、「それッ」てんで「よ組」の皆と駆けつけてよ。
消し口に纏を立てて、火の粉の行方を計りながら、逃げ遅れた奉公人を助けたり、土蔵を目塗りしたりとまァ、忙しく働いてたわけだ。
そしたら、助け出されたお店の御新造さんが、「お玉が、お玉がまだ奥座敷に!」って言うじゃねェか。
こいつァいけねえ、中に赤ん坊でも取り残されてんなら大変だ、とおいらは慌てて燃えるお店に飛び込んだね。
で、どうにか火の手をかいくぐって奥座敷に着いてみりゃァ………なんてこたァねェ、豪華なちりめんの首輪を巻いた三毛猫が、真ん丸に目ェ見開いて座敷の端っこで縮まってた………ってオチさ。
なんでェ、お玉ってのはニャン公だったのかい、と拍子抜けしたが、そのまま放っておくわけにもいかねェや、行き掛けの駄賃とばかりに震えるニャン公を懐に押し込んでよ。
さァ急いでおん出るぞ、と踵を返したものの、その頃には火が相当回ってやがって……表戸まであと少しってところで焼け崩れてきた柱に押しつぶされちまった。
まァ、ニャン公だけはどうにか外まで放り投げてやれたんだが……
天下の「よ組」の鳶人足が、猫の子一匹のために死ぬたァ情けねえや。
さぞかし仲間たちも笑ってるだろうぜ…………って、お、おい、どうしたィ!?)
「……うっ、グスッ………ゲ、ゲンチャンが死んじゃって、悲しくって……」
(参ったなァ、泣かねェでくれよ。
忘れてるかも知れねェから一応言うけど、おいら、姫さんと初めて会ったときから今までずっと死にっぱなしだからな?
アッチで死んじまったからコッチで姫さんを助けられたんだしよ。
……まァ、どうせ死ぬなら、もっと華々しく手柄を立てて死にたかったけどな)
「そんなことないわ……きっと、ゲンチャンに助けられた猫さんも、ゴシンゾさんも、私と同じくらいゲンチャンにすごくすごく感謝してるはずよ………」
(へへへ、照れるねェ……確かに今頃、お頭のところに「線香あげさせてくれ」ってあの辺り一帯の猫どもが集まってるかも知れねェなァ。お礼に新巻鮭か何か引きずってよ。
そんで、お頭が猫どもに「礼ニャア及ばねェ」なんて言ったりして……)
「ふふふふふっ」
(おっ、笑ったね。
やっぱり姫さんは泣いてるより笑ってる方が、グッと別嬪だなァ)
「……もう、何言ってるのよ」
二人は夜が更けるのも忘れて語り明かした。




