庚寅の章 われても末に逢はむとぞ思ふ
秋の空は抜けるように高く、公爵邸の木々は色づいて、時折赤や黄色の葉が川面をくるくる回りながら下っていく。
「綺麗でしょ、ゲンチャン」
河畔の芝生に腰を下ろして川面を眺めながら、ベアトリスはポツンと呟いた。
(ああ、こいつは風流だねェ。
大したお屋敷だぜ、こんな場所まであるなんてなァ)
源太もしみじみ答える。
「ここ、お母様のお気に入りの場所だったの。
時々ここに座って、私やフェルディナンドに本を読んでくれたりしたものよ。
お父様は、『そんなにここが好きなら』って四阿かベンチを置こうとしたんだけど、お母様は『こうやって地面に座るのがいいんじゃない』って断ったんですって」
(へへ、そりゃお父つぁんの気持ちもおっ母さんの気持ちもわかる話だなァ)
そのまま言葉は途切れ、二人は再び公爵邸の秋を黙って見つめていた。
(………………なあ、姫さん)
しばらくして源太が口火を切る。
(姫さんも薄々感じていると思うが……………おいら、そろそろ姫さんとお別れしなくちゃならねェみてェだ)
ベアトリスの目から涙がポロポロ零れた。
確かにベアトリスも感じていた。
理屈ではなく感覚で、源太があの世に戻る刻限が近づいていることを。
今日、こうして何かに導かれるようにここに来たのも、その予感があってのことかもしれない。
「………ゲンチャン、どうしても行かなくちゃダメ?私、ゲンチャンとお別れしたくない………」
(ああ、できることならおいらも姫さんの傍にいてェさ………だが、どうも無理らしいや。
きっと、ここでおいらがやらなきゃならねェことは全部終わったんだろうなァ。
なに、案ずるこたァねェ。もう姫さんの命を狙う奴はいねェし、頼りになる身内も朋輩連中もたくさんいるじゃねェか。
姫さんはもう、一人じゃねェよ)
「違うわ………一人になるのが怖いんじゃない………ゲンチャンがいなくなっちゃうのがつらいの………私、ずっとゲンチャンと一緒にいたいから………」
涙が止まらないベアトリスに、普段口の達者な源太もかける言葉がうまく見つからない。
(……………………………ありがとな、姫さん。そんなふうに想ってくれてよ。
だがな、姫さんは生きてて、おいらは死んでるんだ。ずっと一緒にいるわけにはいかねェよ。
でもよ、あの世に着いたら真っ先に、雲の上かどっかから、姫さんが見える一番いい場所に陣取ってやるぜ。
それがダメだって言うんなら、お釈迦さんだって閻魔さんだって構やしねえ、眉間に鏨を打ち込んでやらァ)
「ふふふふっ」
(へへ、笑ったね。フェル公じゃねェが、おいらも笑顔の姫さんが、す…………す………ゴホン!………好きなんでェ。
泣き顔でお別れにならなくてよかったぜ)
「ありがとう、ゲンチャン」
おどける源太に、ベアトリスは泣き笑いで応える。
そして、一転して真剣な顔になると、座り直して手鏡を覗き込んだ。
「ゲンチャン…………お別れの前に、ひとつだけお願い聞いてくれる?」
(ああ、なんだい?)
「私のこと、『姫さん』じゃなくて、『ビビ』って呼んでほしいの」
(へえっ?)
「『ビビ』は、ベアトリスの愛称よ。お母様だけが、私をそう呼んでいたの。だからもう長いこと、私をその名で呼ぶ人はいなかったんだけど………
私にとっては、大切な、特別な呼び名だから、ゲンチャンにそう呼んで欲しくて………」
(…………ヒェへへへ、お安い御用と言いたいところだが、こいつァ照れるねェ………
と、特別な呼び名かい………だが他でもねェ姫さんの頼みだ。ここはひとつ、男を見せねェとなァ。
じゃ、じゃあ呼ぶぜ?………アー、エー、エヘン!
ビ……………ビ……………、ビビ。………ごめんなさい)
「もうっ、ゲンチャン!どうして謝っちゃうの!?」
(すまねえすまねえ、どうにも照れちまってな………へへへへへ。相変わらず、おいらはしまらねェなァ)
「ふふふふっ」
笑い合う二人に、秋の陽が明るく差し込んでいた。
※※※※※※※
(さァ、お別れだ、ビビ。達者でな)
「ゲンチャン………いつかまた、会えるわよね?」
(ああ、約束するぜ。そのときは、思ったよりブ男でもガッカリしねェでくれよ?)
「見た目なんか関係ないわ。私にとってゲンチャンは、世界一カッコいい男の中の男だもの」
(……………危ねえ危ねえ、天にも昇る気持ちって奴で、そのままスーッと昇っちまうところだったィ。
土壇場でそんなこと言うなんて、ビビも罪作りだなァ。
………じゃあな、また会うときまで、おいらの好きな笑顔のビビでいてくれよな………)
「ゲンチャン…………ありがとう、ゲンチャン。大好きよ…………」
ベアトリスの身体から光の玉がふわりと抜け出し、一瞬抱きしめるように彼女を包み込んだ。
それは玉の形に戻ると天高く昇っていき、キラキラと光って、やがて見えなくなる。
ベアトリスはいつまでも空を見上げていた。
その口からかすかなつぶやきが漏れる。
「ゲンチャン…………」
返事はもう、なかった。




