乙酉の章 火のないところに煙は立たぬ
貴族学院の敷地内には、今は使われていない旧校舎がある。
舞踏会からひと月余りが経ち、風に秋の気配が感じられるようになったある日の放課後、この旧校舎にベアトリスを含む生徒会の面々が集まっていた。
現行の校舎と比べて横に広く、建材にも木が多く使用されている古めかしい旧校舎は、ほとんどの教室が空っぽになっている一方、職員室や各準備室などのように、古い調度や書類が詰め込まれ物置のようになっている場所もある。
普段建物への立ち入りは禁止されているものの、中等部の生徒たちが入り込んでイタズラしたり、一部の教師がこっそりタバコ休憩をするのに使ったりといった事案が後を絶たず、学院にとっては頭の痛い問題になっていた。
そのため近々旧校舎を取り壊す計画があり、それに先立って生徒会が旧校舎内の備品や書類をチェックして、要不要を整理する役目を仰せつかったのだった。
中に入ってみると、窓に板が打ち付けられているため全体に薄暗く、所々にタバコの吸い殻が落ちていたり、一部の調度は引き倒されているなど、荒れた様子が目立った。
旧校舎の照明設備はとっくに取り外されてしまっているので、日があるうちに仕事の目処をつけなくてはいけない。
生徒会メンバーは手分けして作業に当たることになった。
ベアトリスに割り振られたのは、当然一番面倒な書類の分類整理である。
昔の学院長室のキャビネットに歴代の生徒会資料などが大量放置されていると聞いて、ベアトリスは一人、西棟の上階にある旧学院長室に向かった。
※※※※※※※
旧学院長室には、造り付けのキャビネットや暖炉に混じって、古びた応接セットが残されていた。
ベアトリスは応接セットに掛けられた埃よけのカバーを外し、キャビネットから取り出した書類をテーブルに並べる。
窓に打ち付けられた板の隙間から差し込む光を頼りに、ベアトリスは書類を丹念にチェックし、保存するもの、廃棄するもの、教師等の確認を要するものに仕分けていった。
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源太はベアトリスの中で欠伸をした。
先程までは他の生徒会メンバーが備品をチェックしているらしいガタゴトいう音が廊下からひっきりなしに聞こえていたが、今は別の棟に移ったのだろう、静寂の中にベアトリスが紙をめくる音だけが響いている。
集中しているベアトリスの気を削ぐようなことはしたくない。
薄暗がりの中で、源太はうとうとした。
※※※※※※※
「―――!」 「―――!」
(………………?)
どれほど経っただろうか、何処か遠くで叫び声がしたような気がして源太は目を覚ました。
ベアトリスはまだ書類のチェックに余念がない。
源太はベアトリスの中から辺りの様子を探ってみたが、窓の隙間から差す光が少し傾いてきている以外に、特に変わったことは感じられなかった。
―――それでも源太の町火消としての勘が、何かがおかしいと告げていた。
さっき聞こえた気がしたのは本当に叫び声だったのだろうか?
源太は、ベアトリスの五感を借りて神経を極限まで研ぎ澄ます。
何処かから微かに聞こえるパチパチという音、鼻に僅かに感じる、生前嫌というほど嗅いだあのキナ臭いにおい。
これは―――
(姫さん、火事だ!)
源太は叫んだ。
※※※※※※※
頭に響き渡る源太の声に、ベアトリスは弾かれたように立ち上がった。
「え、ええっ、火事!?そんな、嘘でしょう!?」
わけがわからずキョロキョロと辺りを見回すと、廊下に通じる扉の下に、うっすらと煙が立ち込めているのが目に入る。
それは、ベアトリスに事態の深刻さを告げるのには十分すぎる光景だった。
「本当に火事だわ!大変、逃げなくちゃ!!」
パニックを起こし、慌てて扉に駆け寄ろうとするベアトリスに、源太が待ったをかける。
(おっと!待ちねェ。慌てちゃいけねェよ。
姫さん、その扉の取っ手は金属だ。下手すりゃ火傷するぜ)
源太はベアトリスを促し、埃よけのカバーを取り上げると、それで包み込むようにして取っ手を掴んだ。
だがどうしたことか、両開きのマホガニーの扉は押しても引いてもびくともしない。
部屋に入った時は簡単に開いたのに……とベアトリスは真っ青になった。
「ゲンチャン、開かないわ!」
(ああ、そうみてェだな。まるで向こう側から心張り棒でもかってるみてェにガッチリ閉まってやがら)
「どうするの!?出口はここしかないのに……」
(いいから、煙が入ェらねえように扉の下を塞ぐんだ。それで幾らか時が稼げらァ)
ベアトリスは取っ手から手を離し、源太に指示されるがままに埃よけカバーを丸めて扉の下の隙間に押し込む。
隙間からは微かに熱気が伝わって来て、火の手が近くまで迫っていることを報せていた。
「怖いわ、ゲンチャン………どうしたらいいの………」
学院長室の真ん中まで後ずさったベアトリスは身をすくませ、助けを求めるように部屋のあちこちを見回す。
そのベアトリスの目を通して、源太はあるものに気づいた。
(姫さん、暖炉だ!)
「………!わかったわ!」
源太の言わんとすることを即座に理解したベアトリスが暖炉に駆け寄る。
運良く、目当てのものはそこにあった。
炉床に打ち捨てられている古ぼけた火かき棒を拾い上げた公爵令嬢は、源太の表情でニヤリと笑った。




