壬午の章 三千世界に子を持った親の心は皆一つ
部屋に取り残されたヴォルフガングは、呆然と椅子に座り込んだ。
再び書類を取り上げ目を通そうとするが、一向に頭に入ってこない。
その胸に去来するのは先程投げかけられた子どもたちの言葉。
そして亡き妻エレノアの笑顔だった。
亡くなる前、病床の妻は彼の手をとって言った。
「あの子たちをお願い。
あの子たちが自分で幸せを見つけられるように、そばで見守ってあげてね」
だから、彼は妻の最期の願いを叶えるために働き続けた。
フェルディナンドは将来筆頭公爵の座が待っているのだから心配はいらない。余程のことがない限り不幸にはならないだろう。
問題はベアトリスだ。あの子は気弱で積極性に欠ける。自分がしっかり管理して、導いてやらなくてはいけない………
だから筆頭公爵家の名に恥じぬよう厳しく育て、王太子との婚約が決まったときにはホッと胸をなで下ろしたのだ。
「将来の王妃」、貴族令嬢にとってこれ以上の幸せがあるだろうか。
だが………
「私の幸せは、私が決めます」
ベアトリスの言葉が甦り、ヴォルフガングの耳朶を打った。
子どもたちが出ていった執務室はひどく広く、ガランとしているように感じられる。
「エレノア、私は………」
亡き妻の名をつぶやき、筆頭公爵は両手に顔を埋めた。
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ベアトリスはフェルディナンドと部屋に戻り、中断していた課題に取り掛かったが、二人とも気が昂っているのでまるっきり集中できず、出来は散々だった。
結局適当なところで切り上げ、お互い心に浮かぶ切れ切れの思いや母の思い出をポツポツ話して、勉強会はお開きとなった。
寝室で寝間着に着替え、鏡台の前で一人髪を梳きながら、ベアトリスは源太に話しかける。
「ゲンチャン、今日は静かなのね」
(まあ、こいつァ姫さん家族の問題だからな。おいらが邪魔しちゃいけねえと思ったのよ。
おいらが見込んだ通り、姫さん、ちゃあんとお父つぁんと渡り合えたじゃねェか。立派だったぜ)
「……自分でもびっくりしているわ」
(流石にフェル公がぶん殴られそうになったときは、飛び出しそうになったけどな。
おいらが出るより、姫さんの動く方が早かった。
全く、無茶な姉弟だい)
「ご、ごめんなさい」
(褒めてるんだぜ、これァ。
気に病むこたァねェ。お前さんたちは大丈夫だよ。おっ母さんの言う通りな)
「………ありがとう、ゲンチャン」
ベアトリスはそっと源太の微笑みが映る鏡面に手を触れた。
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翌日からも親子はこれまで通り朝晩の食卓を共に囲んだ。
あの日の衝突についてはヴォルフガングもベアトリスたちも殊更触れることはなく、公爵家の食卓にはいつもの日常が戻ったように見えた。
だが、以前とは異なる点もあった。
まず、食事中の恒例行事だったヴォルフガングの長ったらしい訓戒が消えた。
代わりに、彼はぎこちなく子どもたちにその日あった出来事などを尋ね、ベアトリスたちもぎこちなくそれに答えた。
団欒に慣れていない三人はそこから話を膨らませることもできず、結局気まずい空気が流れて会話が途切れてしまうのだが、それでもその沈黙は親子にとって気恥ずかしくはあっても決して居心地の悪いものではなかった。
それにつれて公爵邸の使用人たちにも変化があった。
以前は、朝食や夕食の給仕に就くと、使用人も横で延々ヴォルフガングの長広舌を聞かされる羽目になるため、給仕役は普通なら固定の職務のところを持ち回りで行うほど不人気の役割だった。
しかし今は、公爵親子の初々しいやりとりや、へどもどするヴォルフガングの姿見たさに、皆が争って給仕を勤めたがるようになったのだ。
彼らは交代で食卓の様子をニヤニヤ眺めて楽しんだが、その際うっかりヴォルフガングと目が合ってしまおうものなら、それはもうものすごい目で睨まれたのだった。
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話し合いの末、ヴェラボーメ夫人はその任を解かれ、故郷に帰ることになった。
馘首ではない。
ベアトリスの成長に伴う「勇退」ということで、公爵家からは年金が支払われることになっている。
夫人も納得した上での処遇だった。
別れの時、ベアトリスは夫人にショールを贈り、「最後にひと言、筆頭公爵家令嬢の心得をお伝えします」と言って始まった夫人の高説に3時間耐え忍んだ。
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そして季節は巡り、夏の王宮舞踏会―――
ベアトリスを両側からエスコートするヴォルフガングとフェルディナンド、という筆頭公爵家一行の姿が、会場の視線を一点に集めたのであった。




