辛巳の章 胸にあるだけ言わせておくれ 主の言いわけあとで聞く
「ベアトリス?何を言っている……?」
ヴォルフガングが眉を顰めた。
「私の友人も、私が着るものも、もう自分で選びたいのです。
そして、その責任は自分で負います。ティヤンディの名に恥じるようなことはしないとお約束しますから」
「バカなことを。お前に何ができる」
ヴォルフガングが一言のもとに切り捨てる。
それでもベアトリスは引かなかった。
「……お父様にとって大切なのは、私の幸せですか?それとも公爵家の体面ですか?」
「……………なんだと?」
ヴォルフガングの顔色がスッと青ざめる。
「私はもう、お父様やヴェラボーメ夫人を畏れるあまり、自分の幸せを人に決めてもらうような生き方はしたくないのです」
「生意気を言うな!」
ヴォルフガングが椅子を蹴って立ち上がった瞬間、執務室のドアが激しいノックで押し開けられるように開いて、フェルディナンドが転がり込んできた。
呆気にとられる二人の前で、フェルディナンドは体勢を立て直し、大きな声で宣言する。
「わたっ、私もっ、姉上の言う通りだと思います!」
父親のことが恐ろしいのだろう、フェルディナンドの顔はヴォルフガングに負けず劣らず真っ青だ。
ベアトリスはそんな思いをしてまで加勢に来た弟に驚きを隠せなかった。
「フェルディナンド!貴様、何をしている!
公爵家の跡取りともあろうものが、まさか扉の前で立ち聞きしていたというのか!」
真正面から怒鳴りつけられて、フェルディナンドは震えながらも反論する。
「いいえ!私は姉上の身を案じて、姉上が父上に呼び出されてすぐに、この部屋の扉の前に椅子を用意させ、そこに座って中の話を聞いておりました。
断じて『立ち』聞きなどしておりません!!」
(ぶはっ)
ベアトリスの中で、源太が堪えきれず吹き出した。
ベアトリスの口元もつい緩む。
一方でヴォルフガングの額には青筋が浮かんだ。
「くだらん屁理屈を言うな!子どもが口を挟む問題じゃない。さっさと出ていけ!」
「嫌です!」
「フェルディナンド!!」
怒りのあまり青ざめ、フェルディナンドに向かって腕を振り上げるヴォルフガングの前に、ベアトリスが立ちはだかる。
「おやめください、お父様!」
「ベアトリス、どけ!」
収拾がつかない空気の中で、ベアトリスに庇われながらもフェルディナンドが声を上げた。
「父上、どうか姉上を自由にしてください!
私は………私は、今の笑顔の姉上が好きなのです!!」
「フェルディナンド………」
ベアトリスの目が見開かれ、目尻から涙が一粒ポロリとこぼれる。
彼女はその涙を拭おうともせず、手を伸ばしてフェルディナンドの熱っぽい手を探り当てると、ギュッと握った。
その様子をヴォルフガングは苦々しげに眺める。
「公爵家の跡取りが、好きだの嫌いだのとつまらぬ感傷に囚われおって……」
「………そうでしょうか。私はずっと、父上やヴェラボーメ夫人の重圧に押しつぶされそうになっている姉上を見るのが嫌でした。
私には、あの頃の姉上が幸せだったとはとても思えません。
いつもため息をついて、オドオドビクビクして、そのせいでまた父上に叱られて………
私には、今の姉上の方がずっと幸せそうに見えます。
今の姉上は、優しくて、強くて………私の記憶にある母上にそっくりです」
「何っ、エレノアに………似ている………?」
フェルディナンドを力づくで退出させようと近づいて来ていたヴォルフガングの手が止まった。
※※※※※※※
ヴォルフガングは目を見開き、初めて見るものを見るような目でベアトリスを見つめている。
ベアトリスはフェルディナンドの手を握り直すと、父親の視線を正面から受け止め、見つめ返した。
「お父様。
お父様が私たちの幸せを願い、気を配ってくださっていることは、私もフェルディナンドも十分承知しています。
私たちもお父様を愛しているのですから。
ただ……もう少しだけ、私たちを信じていただけませんか?
お母様は病気になられてから、私やフェルディナンドをベッドに呼んで、よくこう言っていました。
『お母様はベアトリスのこともフェルディナンドのことも信じているわ、だからあなたたちは大丈夫よ』と………
その言葉は、お母様が亡くなってからも私たちをずっと支えてくれていたんです。
ですから、どうかお父様も………」
そう言って一礼すると、ベアトリスはフェルディナンドの手を引いて部屋を出ていった。




